清水俊史著『ブッダという男』 ⑥(ブッダは平和主義者だったのか)

この著者の『ブッダは平和主義者だったのか』という問いかけは、仏陀のみならず仏教界全体への言及がされていて興味深いものです。

 

著者は言います。

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仏教は慈悲の教えであるーそう多くの仏教者が口を揃えて言う。

だが、長い歴史の中で、仏教が殺生や戦争を何らかの形で許容してきたのは事実である。

仏滅から500年ほどしてから成立した大乗経典には、「慈悲の殺人は功徳を生む」といった記述さえ説かれるようになる。

そして、それを根拠にして、アジア・太平洋戦争において日本の仏教教団は、「空」や「一殺多生」などの教理を援用しつつ暴力や戦争を肯定しし、戦時体制を翼賛し続けた。

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これはその通りですね。

情けないことに、日本仏教で戦争に反対したところはひとつもありませんでした。

 

宗教というものの存在価値とは何でしょう。

キリスト教の方がもっと無惨ですね。

欧米のキリスト教国は、植民地にしようと狙った国に宣教師を送り込みその国の状況を報告させます。

ある程度、国情が判明してから、占領軍を送り込み原住民を虐殺して、その国を植民地としました。

日本でキリスト教が禁止になったのは、世界中でのそのような所業が明らかになったからです。

キリスト教と言えば愛の宗教と言われます。

しかし、歴史を見ると、真逆です。

十字軍や魔女裁判、植民地政策、どれも血生臭いものばかりです。

口先だけで愛を説いてもやって来たことは虐殺の数々でした。

神父などの聖職者の少年少女への大規模な性虐待も明るみに出てますし。

 

キリスト教も仏教も、口先で言っていることと実際にやっていることが真逆なのはどうしてか、この問題を解決しないとどんなに偉そうにしゃべっても信用は得られないでしょうね。

確実に、宗教は衰退の一途を歩むことになるでしょう。

 

仏教はキリスト教ほど積極的に戦争や虐殺に絡むことは少なかったですが、戦争を抑止せず、むしろ加担したのは事実です。

 

浄土真宗の一向一揆などは戦争そのものでした。

 

宗教が何故、世の中にかえって戦争や争いをもたらし、不幸を増産し続けるのか、については、いま、考察しつつあるところです。

 

世界の歴史を見、そして今現在起きつつあることをありのままに見た場合、宗教がらみの殺人や戦争がいかに多いか、わかるはずです。

 

この本に戻りますと、仏陀は平和主義者ではないと言う結論のようです。

しかし、仏陀が直接言った言葉で、それについて根拠となるものがほとんど挙げられていません。

最初に挙げられている資料は、スリランカの歴史書『大王統史』で、紀元前2世紀のアバヤ王が仏教僧団の長老に相談したものです。

幾多の大軍の殺戮をしたアバヤ王に対し、『天への道に障害になるものは何もない』と答えた、とあります。

スリランカの長老の認識では、仏教を信じ実行している者以外をいくら殺そうと天への道の障害にはならない、ということで、清水氏は仏教が平和主義だと言うことに疑問を投げかけています。

 

しかし、スリランカの長老が言ったことを元に『ブッダという男は平和主義者ではなかった』と結論づけるのは幼稚で乱暴です。

 

後に、ブッダがアングリマーラに言った言葉を挙げていますが、

回心した殺人者アングリマーラが民衆に棒や石を投げつけられ大けがをしたときに

ブッダは『あなたは耐えなさい。数百年数千年もの間地獄で煮られたであろうその業の報いを、あなたはまさに現世で受けているのです』と言います。

 

これをもって、ブッダが平和主義者でないと結論つけるのは、やはり幼稚で乱暴ですね。

仏陀のこの言葉のどこを見て平和主義者でないと結論付けできるのか、さっぱりわかりません。

 

世界中の宗教は、異教に対しての攻撃性があります。

異教徒を殺せという宗教もあります。

後世の仏教宗派でも、他宗派に対し極めて攻撃的な教えのところも出てきました。

しかし、少なくとも仏陀本人は、そのような攻撃性、戦闘性がもっとも少ない人物であったと文献から思います。