この本には賛同するところは多いですが、
ただ根本的なところで私の考えと全く違うところがあります。
それは、『非我』か『無我』かというところです。
清水氏も挙げているように、仏陀は、
『眼(・耳・鼻・舌・身・意)は自己ならざるものです。自己ならざるものは「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』
『諸々の色(・声・香・味・触・法)は無常です。無常であるものは苦です。苦であるものは自己ならざるものです。自己ならざるものは、「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』
と言っています。
この箇所は、清水氏が本の中で挙げている仏陀の言葉です。
これを見れば、明らかに分かります。
『無常であり苦であるものは私ではない』とはっきり言っているのです。
つまり『非我』です。
ありのままに読めば、『無我』ではなく『非我』と言っていることがわかります。
ところが、清水氏は、この後に、こう言っています。
ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている。(清水俊史氏)
十二要素(十二処)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法です。
ここで清水氏が言っているのは、『一切』についてブッダが語ったものです。
弟子が、『一切、一切と言われますが、一切とは何でしょうか。』と質問したときの仏陀の答えです。
『一切』というのは『一切皆苦』の一切です。
形成されたものすべては苦である、というのが『一切皆苦』の意味です。
つまり、『一切』とは形成されたものすべてのことを言います。
仏陀は、その『一切』を眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法としました。
さて、本当に、清水氏の言うように『ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている』のでしょうか。
『感興のことば』第26章21にこうあります。
不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。
作られざるものを観じるならば、作られたものから解脱する。
『一切皆苦』の『一切』は作られたものすべてです。生じたものすべてです。
ここで仏陀は、はっきりと、不生なるもの、作られざるものが有ると断言しています。
もし、作られたもの(一切)だけしかなく、作られざるものがないのであれば、
つまり『一切』だけなのであれば、『一切皆苦』から逃れることは誰にもできないではないですか。
この『ブッダという男』という本は、根本的に仏陀の捉え方が間違っているのです。
ここで、『十無記』を出しましょう。
中部経典『小マールキヤ経』に『十無記』が出てきます。
その中の4つは、tathagata(如来) が死後も存在するかどうかという問いです。
tathagata(如来) は死後存続する
tathagata (如来) は死後存在しない
tathagata (如来) は死後存在し、また存在しない
tathagata (如来) は死後存在しないし、また存在しないのでもない
ここで、マールキヤプッタがどうしても仏陀に答えてほしかったのは、『私という中心』を消滅させたtathagata=如来は、死後存在するのかどうか、ということです。
つまり、形成されたものをすべて非我と見極めたあと、その奥に何かがあるのかそれともただの虚無なのか、ということです。
これについて、仏陀ははっきりと『無記』=答えないと言っています。
仏陀は輪廻を終わらせた如来(tathagata)が死後存在するか存在しないか、の問いについて無記としました。
つまり答えませんでした。
清水氏によれば、
唯物論の『無我』と仏陀の『無我』の違いは、仏陀が輪廻の存在を認めていることだと結論づけています。
つまり、業報による輪廻があるかないかの違いということです。
本当にそうであれば、輪廻を終わらせた如来は、もう輪廻がないわけですから、唯物論の『無我』と同じで、死後何もなくなる、虚無ということになります。
このように捉えてしまったのでは、仏陀の真意からかけ離れることになります。
仏教は歴史上、このように捉えられることが圧倒的に多かったために、唯物論、虚無論となっていきました。
もし、このように唯物論的虚無思想が仏教の本質であるというのであれば、仏教の価値はないどころか、極めて危険です。
作られざるものについては仏陀は基本的に無記です。
そして、その真意は、仏陀が明言するように『不生なものがある』『作られざるものを観じるべき』なのです。