清水俊史著『ブッダという男』 ⑦(ブッダとはなにものなのか)

この本の眼目である、ブッダは平和主義者だったのか、男女平等論者だったのか、階級差別反対論者だったのか、という3つについて考察してきました。

 

まず、この本の著者は、今までさんざん強調されていた『ブッダの独自性、先駆性』について疑問を投げかけているのだと思います。

 

このことは、今までの仏教の通説の間違いであったと私も思っています。

古代においても、現代においても、論点の違いはあっても、ブッダの教えを全くの独自で先駆的なもの、唯一無二、空前絶後のもの、誰からも影響を受けていないもの、それまでのすべてを全否定したもの、と強調されてきた歴史があります。

 

それは、ブッダ在世中からそういう傾向はあったと思います。

どのような師匠の弟子でも、師匠を尊敬すればするほど他と隔絶した唯一無二の優れたものと思うのは無理からぬことです。

ブッダの死後、その傾向は極めて極端になっていきました。

 

ブッダ在世時は、誰でもブッダ(目覚めた者)になれるという教えでした。

仏陀と阿羅漢に違いはなく、阿羅漢という言葉で仏陀を表わしていたのです。

仏の十号の中の応供は、アラハンです。

つまり、仏=阿羅漢なのです。

しかし、時が経つにつれ、仏陀は唯一無二で特別な人という扱いになっていきました。

仏と阿羅漢に差をつけていきます。

 

ブッダとは、歴史上の仏陀(つまりゴータマ・シッダッタ)のみで、過去七仏など伝説上のブッダはあるにしても、歴史上にブッダは仏陀のみ、誰もブッダにはなれない、となっていきました。

阿羅漢が悟った最高位となっていきました。

これも、仏陀在世中は、誰でも仏=阿羅漢になれる、在家者でも女性でもなれるというものでしたが、根本分裂を経て部派仏教となってからは、特にサンガの権威が強調されていきます。

出家者で男性でなければ阿羅漢になれないという派も出てきます。

 

仏陀は唯一無二で、その次の阿羅漢も極めて特別な存在に祭り上げられます。

 

近現代に至っては、近代的な価値観でブッダを見ることが主流になります。

特にヒューマニズムの観点から、インドのカースト制度を唯一否定した、勇気ある人物のように言われることが多いですし、男女平等や平和主義を掲げたヒューマニズムの星のような扱いです。

この『ブッダという男』と言う本は、そのようなヒューマニズムの観点から見るブッダ像に疑問を投げかけているというわけです。

 

 

ここで私の考えをまとめておきます。

 

①生まれによるカースト制度否定は、仏陀独自では全くなく、沙門宗教、自由思想家すべて共通している。仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。

 

②業(行為)による輪廻は、ヤージュニャヴァルキヤが先駆であり、仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。

 

③仏陀は、どのようなカーストの人間もカースト外とまで言われる階層の人も弟子にし、サンガに入ることを許した。

そして、サンガの中では、カーストではなく、サンガにいる年数が長い者が短い者より上とした。

だから、サンガに入って5年のバラモン階級出身者は、サンガに入って10年の不可触階級出身者より下であり敬わなくてはいけない。

これは仏陀の価値観が仏法という視点にのみ基づいている証拠で画期的。

 

④仏陀は、女性も在家者も悟れるし解脱できる、とした。これは仏法の下での平等を表わしている。古代において、この平等性は稀である。

 

⑤仏陀は争わなかった。特に異教徒を攻撃したり暴力で排除したりすることは一切なかった。弟子にも争わないように求めた。

 

⑥業(行為)による輪廻を見いだしたのはヤージュニャヴァルキヤだったが、それは哲学に止まった。

仏陀がウパカに対し『天上天下唯我独尊』と宣言したのは、仏陀が唯一、それまでになかった完全に苦を滅する理法を発見したから。

その理法とは、四諦の法、十二縁起の法、四念処であり、その理法を瞑想することで解脱、涅槃に至った。

ここが、仏陀の独自であり独創であり先駆であり画期的なところ。

つまり、仏陀は、自ら言うように『矢を抜く最上の人』

それは、矢を抜く理法、完全に苦を滅する理法を発見し、それに基づいて自ら解脱を成し遂げたから。

 

ところが、今までの仏教は、仏陀の理法をそっちのけにしてきた。

仏教の宗派は数多いが、十二縁起を瞑想する宗派はどこにもない。

仏陀の理法と切り離されたメソッドが一人歩きしている。

 

 

 

結論を言いますと

今までの仏教のように

仏陀は、バラモン教を全否定した、唯一、カースト制度を否定して階級平等を掲げた先駆者という通説は間違っています。

沙門宗教はすべて『生まれによってバラモンではない』という考えで、仏陀はその中の一人。

そして、その考えは、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤが涅槃に到達するのは祭祀ではなく真理の知識によるとしたことが源。

 

ブッダ=目覚めた人は、歴史上の仏陀の前にも後にもいたし、在家でも女性でもブッダになれるというのが仏陀の考え。

それが、サンガ(教団)が発展するにつれて、仏陀一人を特別扱いしていった。

仏陀以外の人は阿羅漢どまりとなっていった。

仏陀在世中には仏=阿羅漢で、同じ意味だった。

 

仏陀には女性蔑視の考え方は全くなく、仏法のもとに男女もカーストも平等だった。

女性への戒律が多いのは、女性への危害や誘惑というリスクがあるため。

 

バラモン教やジャイナ教と比べても、仏陀の法は男女関係なく解脱できるところが際立っています。

 

ジャイナ教は、空衣派と白衣派に分裂する前は、すべて衣服を所有しない裸行であり、裸行ができない女性は救われないという思想でした。

 

バラモン教またはヒンドゥー教の支柱である『マヌ法典』を見れば、女性差別のオンパレードであることがわかります。

 

仏陀の教えは極めて高度に男女平等でした。

 

故に、仏陀に女性蔑視があったという清水俊史著『ブッダという男』は間違っています。

『マヌ法典』が支配するインドで、仏陀の女性観は画期的でした。