清水俊史著『ブッダという男』①(独自性の誤り)

 

清水俊史氏という仏教学者が書いた『ブッダという男』という本が、仏教界で話題になっていますので、読んでみました。

アカハラ問題という社会的な話題も大きく寄与して注目度が極めて高い本です。

 

今までの仏教学や仏教常識に異論を唱えています。

その趣旨にはとても賛同します。

このように、今までの仏教常識にとらわれず、歴史的な権威もいったん白紙にして、自由に仏陀の真意に迫ろうという動きは、これから大きくなっていくことでしょう。

それは、私の『仏陀の真意』にも書いたとおりです。

あらゆる権威を否定して、直に仏陀の人物像や理念に迫りたいという運動が大きくなっていくことを願っています。

 

さて、読み終えて、賛同する部分も数多くありました。

 

 

まずは、『仏陀は死後の世界や輪廻転生を否定した』という仏教界に蔓延る説(僧侶や学者でさえこれが仏教の定説と考えている人も多いのですが)を否定します。

否定の否定ですから、つまり、仏陀は輪廻を説いたということを書いています。

これは、まさしくその通りで、原始仏典のどこを読んでも、これ以外のことは考えられないのですが、近年の仏教界は輪廻否定が大多数となっています。

『仏陀の真意』に書いたとおりです。

そもそも、仏陀が輪廻を否定したなどと言うことを言っている人は、仏陀を語る資格などないでしょう。

仏典を少し読めばわかることです。

 

 

『天上天下唯我独尊』について

清水俊史氏は、この句は、文字通り『この世で唯、自分こそが尊い』という意味で、伝統的にはそういう意味とされていたのだが、近代になって、そのような傲慢なことを仏陀が言うはずがないとして、『すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている』という意味だというのが主流になっている、と言います。

しかし、それは全くの間違いであると言います。

 

私も、『仏陀の真意』で書きましたように、現代の『天上天下唯我独尊』の解釈は

1,宇宙には大我という我がひとつだけあって、それが尊い

2,私の命は唯一のもので、あなたの命も唯一のもの。みんな違ってみんないい

この2つの解釈ばかりとなっているが、それは仏陀が言った真意ではないと書きました。

 

この『天上天下唯我独尊』は仏陀がウパカに言った言葉であり、それは、『今までの誰をも説かなかった、苦を完全に消滅させる理法を発見した。私には師も等しい者もいない。神をも含む世界で唯一私だけがそれを発見したのだ』という意味と私は書きました。

清水氏は、原始仏典を読むと仏陀は自画自賛を繰り返しているのであり、『自分より優れたものがいる』と卑下することの方がおかしいので、『天上天下唯我独尊』は、文字通り『天上天下でただ俺だけが独り尊い』という意味だとのことです。

 

私としては、やはり『仏陀の真意』に書いたのが仏陀の本意だと思っていますので、清水氏の言う自画自賛のひとつとしてだけ処理してしまうと仏陀の真の姿に迫れないと思っています。

ですから、ここは賛同できないところです。

 

この本の最初のほうで取り上げられているのは、ブッダは『平和主義者だったのか』『階級差別を否定したのか』『男女平等を否定したのか』ということですが、この3つに関しては、論じるとかなり長くなってしまいますので、最後に持っていきたいと思っています。

少しだけ触れておきますと、カースト下位でも不可触賎民でも関係なく弟子にしましたし解脱した人が出ています。

ここを見て、仏陀だけが反バラモンだとか、カースト否定だという人が多いです。

しかし、これは仏陀独自ではなく、ジャイナ教でもそうです。

バラモン教の中でも、『生まれではなく行為である』といった人はいます。

仏陀は社会制度改革者ではないのです。どのような社会構造であれ、現象なのだからすべて苦であり厭離すべきものという宗教者なのです。

仏陀は、女性も阿羅漢になれると言っています。

しかし、一方で、比丘尼を認めたために正法は500年しか続かないだろう、とも言っています。そもそも、懇願されたにもかかわらずなかなか女性の出家を仏陀は認めませんでした。阿難が強力に頼み込んでやっと認めたのです。

比丘尼戒が比丘戒より格段に多いことや、様々な女性にだけの掟の数々があり、大乗仏教でも、法華経の変成男子の思想など、女性差別ではないかと言われる部分はあります。

私は、女性がサンガで修行するのは大変難しい問題が出てくると思います。

男であれば、森の中で一人で瞑想するのは問題ないですが、女性は襲われる可能性が常にあります。

そのようなことを踏まえて、なおかつ女性の出家を認めたのはかなりの決断だと思っています。

仏陀が男女平等を否定したのか、という著者の問いかけへの考察は長くなりますので、このくらいで後に回します。

 

この本で、私が最も賛同できるのは、今まで強調されてきた『仏陀の独自性・独創性・唯一性』についてです。

これは、仏陀の死後、特に根本分裂を経てからの部派仏教の時代、かなり極端になってきました。

仏陀は、反バラモン教、反ジャイナ教、反六師外道という図式です。

仏教はバラモン教の全否定だという考え方です。

これは全く違います。

仏陀本来の教えには、バラモン教やジャイナ教との共通点が非常に多いのです。

仏教徒が、仏陀だけが主張したと思っている、『生まれによってバラモンではない。行為によってバラモンである。』というのは、沙門宗教の多くがそうです。ジャイナ教は特にそうです。

ジャイナ教と仏教の共通点は極めて多いです。

仏陀という呼称、阿羅漢という呼称、声聞という呼称、業=行為という考え、輪廻転生、解脱、すべて共通しています。

仏陀と、ジャイナ教始祖のマハーヴィラの最大の違いは、身口意の行為(身業・口業・意業)のうち、仏陀は意業が最も重要で身業と口業は意業に比べ取るに足りないとしたこと、マハーヴィラは身業が最も重要で口業と意業は身業に比べ取るに足りないとしたこと、これだけです。

 

マハーヴィラは身業最重要ですから、不殺生戒も徹底しています。

雨安居というのは、ジャイナ教から来たものです。

雨期に出歩くと、水たまりの中の生き物を踏みつけて殺してしまうかもしれないので、雨期は外に出ずに修行をするという習わしです。

仏陀は意業が最重要であるため、自分のための殺された動物の肉は禁止しましたが、それ以外は食べていいとしました。

しかし、ジャイナ教では、肉食自体禁じられています。

大乗仏教の肉食禁止はジャイナ教の影響を強く受けているのです。

 

仏陀は、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤに最も強い影響を受けています。

これを仏教徒はかたくなに否定します。

外道であり邪教であるバラモン教に影響など受けていない、それどころか反バラモン教、バラモン教の全否定が仏教なのだ、という主張です。

しかし、私の本『仏陀の真意』に書いたとおり、ヤージュニャヴァルキヤの『~に非ず、~に非ず』としか言えないものという言説。業=行為が原因で輪廻転生すること。

これらの骨格はすべて共通しています。

というか、ヤージュニャヴァルキヤが初めて言い出したことでした。

 

仏陀の独創性、独自性を強調しすぎてきた結果、今までの仏教はヴェーダ宗教の全否定としてしか仏陀を捉えることができていません。

それはちょうど、イエス・キリストがパリサイ派やその律法学者を非難糾弾したのを見て、イエスはユダヤ教の全否定をしたと思う人が多数いるのと似ています。

 

仏陀は、行為が因で現れてくる現象が果、ということを否定する運命論や意思否定論は邪見として徹底的に否定していますが、行為が原因とする他の業因説には全否定はしていません。

 

 

 

 

(続きます)