双麻さん、こんにちは。
極めて根源的な問題で、これを本当に説明しようと思うと1か月は優にかかるでしょう。
かなり端折ってやっと答えられるくらい根本的でしかも極めて微妙な質問です。
そして、その前に、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンの定義をしないと混乱するだけになります。
例えば、神道に、天之御中主神という神様がおられます。
造化三神の一柱です。
この神様を、最高神とする説があります。つまり、八百万の神々のうちの最高の地位の人格神だということです。天照大御神を神道の最高神とする考えもあります。
それとは違って、天之御中主神を人格神ではなく根源神、つまりすべての存在の本源だとする考えがあります。
このように、同じ天之御中主神でも、その解釈は様々であり、どのような解釈なのかで全く違ってくるのです。
アートマンにしても、霊魂のように捉える考えがあります。
肉体が滅しても霊魂という個体は永遠に残るという考えです。
輪廻転生する主体という意味合いを持ちます。
しかし、アートマンの本来的な意味は、自己の根源です。
梵我一如というのがバラモン教、ヒンドゥー教の根本的な教理ですが、この場合、梵つまりブラフマンは一切の存在の根源ということです。
一切の存在の根源、宇宙の根源が、自己の根源と同一だというのが、梵我一如の考えです。
もし、輪廻転生する主体、霊魂という意味でアートマンという言葉を使う場合、これは迷いの我にしか過ぎません。
ですから、梵我一如とは言えないのです。
つまり、アートマンという言葉でも、迷いの我という意味と真実の我という意味の正反対の意味で使われて混乱しているのです。
ブラフマンにしても、一切存在の根源、すべての本源という意味と、ブラフマーとして最高の人格神という使い方があります。
これが仏教も後世になればなるほど、梵天という色界最下層の神となってしまいます。
毘盧遮那仏または大日如来についてもそうです。
人格を持った仏なのか、宇宙の本源なのか、です。
宇宙の根源そのものとすれば、個別に言葉で説法することはありません。
それならどちらで解釈すればいいのか。
大日経では、毘盧遮那仏は持金剛秘密主に対し『秘密主よ、心と虚空界と菩提との三種は無二なり。これらは悲を根本として、方便波羅蜜を満足す。』などと説きます。
言葉で説法しているので、人格を持っていますね。
しかし、密教では、大日如来は宇宙の根源でもあり宇宙そのものでもあります。
つまり、このように、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンと言っても様々な定義、解釈があり、どの定義で質問されているかで、答えは全く正反対となるのです。
まずは、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンの定義をして質問してください。