清水俊史著『ブッダという男』 ③(十二縁起)

私は、十二縁起を真正面からまともに解説している仏教書を見たことがありません。

はっきり言って、すべての解説は、適当にお茶を濁しています。

何故か。それは本人も分かっていないからです。

そして、十二縁起を瞑想しようとする者がだれもいないからです。

十二縁起は、極めて重要な仏陀の瞑想の内容なのです。

四諦と十二縁起によって成道したのですから。

 

で、今回、話題の本ということで、この『ブッダという男』には十二縁起をどのように解説しているか、楽しみにしていました。

 

しかし、『いくつかの因果関係は、そのままでは理解しがたい』『本書では、それぞれの支分についての細かな議論には立ち入らない』ということで終了しています。

がっかりです。

他の仏教書に比べ、『そのままでは理解しがたい』と正直に吐露しているのは好感が持てましたが。

 

 

何故、十二縁起が極めて難解かというと、仏典に反することができないからです。

仏典を無視して、自分勝手に適当な解釈をするのは簡単です。

特に仏教学者でない人が、十二縁起の解説をしているときは、全く仏典を無視して自分勝手な解釈を述べたてていることが多いです。

 

しかし、仏典で仏陀が十二縁起について語っていることを無視するのであれば、それは仏陀の真意とは言えないのです。

 

縁起とは、

Aがあれば    Bがあり

Aが生じるが故に Bが生じる

Aがなければ   Bがなく

Aが滅するが故に Bが滅する

 

ということです。

これに当てはまらなくては縁起の関係ではありません。

 

まず、十二縁起の解説のうち、基本的なこの縁起の関係を無視している解釈がいかに多いか、です。

 

『縁』とは後世にいわれるようになった、『条件』と言う意味でも『補助的な原因』という意味でもありません。

Aがあれば    Bがあり

Aが生じるが故に Bが生じる

Aがなければ   Bがなく

Aが滅するが故に Bが滅する

これが、縁起の関係なのです。

つまり、直接原因です。

 

特に、『Aが滅するが故にBが滅する』とならなければ、縁の滅とならないので、苦を滅することができなくなり、縁起の理法、十二縁起の法が成り立たなくなるのです。

 

十二縁起を解読するには、必ず、この縁起の公式に依らなければなりません。

 

つまり、

無明があれば    行があり

無明が生じるが故に 行が生じる

無明がなければ   行がなく

無明が滅するが故に 行が滅する

 

行があれば     識があり

行が生じるが故に  識が生じる

行がなければ    識がなく

行が滅するが故に  識が滅する

 

識があれば     名色があり

識が生じるが故に  名色が生じる

識がなければ    名色がなく

識が滅するが故に  名色が滅する

 

・・・・・・

以下、縁起の公式は、

名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 と続きます。

・・・・・・・・

 

これに当てはめようと思うと、今までのほとんどの解釈は間違いであることが分かります。

十二個すべてにおいて、この縁起の公式が当てはまらなくてはいけないのです。

それでなければ、縁の滅、苦の滅に至ることができないのですから。

 

 

 

次に、相依性の問題です。

縁起を相依性の関係と考えている人がいかに多いか。

舎利弗の葦の喩えから、十二縁起すべてにおいて相依性が成り立つと考える人がいます。

しかし、仏典では

識⇒名色 この間にだけ、相依性が成り立つとしています。

 

この条件に適合する解釈でなければいけないのです。

 

 

そして、相応部経典『分別』に書かれていることに反してはいけないのです。

 

1,すべて縁起の公式に当てはまること

2,識と名色の間だけ相依性が成り立ち、その他は相依性ではないこと

3,相応部経典『分別』の十二縁起の記述

 

この3つに適合する解説でなければ、それは間違っています。

 

ですから、十二縁起は極めて難解なのです。

仏陀が『この縁起の法は深遠であり、その相もまた深遠なるものである。アーナンダよ、この縁起の法に対する無知と無理解によって、人は、意図がもつれ絡まったかのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やパッバジャ草のように、悪趣・苦界・堕処への輪廻を超えることができないのである。』と言ったように、

極めて難解で深遠な法なのです。