仏陀の理法が甦る時代が

 双麻 (183.180.150.92)    
 
ショーシャンク様、はじめまして。
HNを双麻(そうま)と申します。
 
著書を拝見させて頂き強く感動し、こちらのブログも始めから 少しずつ読ませていただき、勉強させて頂いております。
 
私は恥ずかしながら現代日本人的無知さで、神社は好きでも仏教には お墓や葬式などの陰気臭いイメージがあり、
最近まで興味を持てずにいました。
 
しかし、数年前に妻の希望から観光で訪れた寺院より帰ってしばらくすると その場所で特に何か感銘を受けた出来事は無かったはずなのに
なぜか妙に仏教が気になりだし、学び始める事になりました。
最初は観光で訪れた宗派の基本を本で学びましたが、 仏教の魅力はより強く感じたものの、何かモヤモヤが残りました。
 
そう感じるのは自分の仏教の根本的な知識不足から来るものだと判断し、
仏教を基本から学び仏陀を知ろうと宗派に関係無い入門の本を集めたのですが、
モヤモヤが募るばかりでした。
解ったような何も解らないような。
 
なにしろ仏教は仏陀が悟りを開きその教えを広めたことで起こった…はずなのに、
仏陀は何を悟ったのか、どうやって悟ったのかという一番肝心な所が解らない。
 
そんな時に出会ったのが、「仏陀の真意」でした。
 
現代日本にショーシャンク様のような方がおられたという事に、
仏陀と神様と御祖先様に感謝したいと、心より有り難く思っております。
 
私自身、自分を成長させたいと願い、暗闇の中を手探りの中、 この方向へ進めばいいのではないかと蝸牛の歩みで彷徨っていました。
 
その暗闇の先に光が見え、目的はまだ遥か遠くではありますが 進むべき方向が見えた気がいたしております。
 
本当に有難う御座います。

 

 

 

双麻さん、はじめまして。

『仏陀の真意』を読んでいただきましてありがとうございます。

分かっていただける方がおられてとてもうれしいです。

 

私もずっと、双麻さんと同じような違和感を仏教に対して持っていました。

モヤモヤという感覚です。

私が仏教に興味を持ったのは、中学や高校の時でしたから、かなり長い間モヤモヤしていたことになります。

大乗仏教から原始仏教、そして上座部仏教などの部派仏教、どのジャンルのどのような仏教書を読んでも、モヤモヤ感は強くなる一方でした。

仏陀の理法がどこにあるのか、仏陀の真意は何なのか、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、大乗仏教や上座部仏教の本を読んでもモヤモヤしていました。

原始仏典を解説している仏教書も数多く出版されていますが、どれを読んでも、例えば四諦の法にしても、『これが仏陀が真髄とした四諦の法の真意なのか?』と唖然とするような解説ばかりでした。

四諦の法は、仏陀が、象の足跡という比喩を使ったほど、すべての理法を包含する理法なのです。

仏陀が命がけで修行したときに、三明の最後、漏尽智は四諦の法に依って至ったのです。

仏陀の理法の根幹が四諦の法ですが、どの仏教書の解説もどんよりして全く心に響かないものばかりでした。

十二縁起の法はもっと酷く、まともに解説してある仏教書もほとんどありませんでした。あったとしても、十二個の項目を羅列しただけでお茶を濁していました。

正直な仏教学者は、『十二縁起は順番に矛盾が生じてしまう』と書いているものもありました。

確かに、十二縁起のどの解説を見ても、大きな矛盾が出てくるのです。

十二縁起というのは、仏陀が三明によって悟った後、七日後の夜に、十二縁起を順逆観じて、疑念がすべて消滅し、悪魔の軍勢を粉砕して、天空の太陽のように輝いたのです。それほど、成道に決定的なものをもたらせた重大な瞑想法です。

仏陀の瞑想の内容そのものなのです。

しかし、それによって瞑想できるような解説はただのひとつもありませんでした。

何か、根本的なことが間違っている、そう思わざるを得ませんでした。

それで、私は、それまで構築したすべての仏教知識を白紙にして、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを探求することにしました。

 

現代において文献学が急速に発展してきて、歴史上の仏陀の肉声に近いものはどれかが明らかになって来ました。

あるいは、グレゴリー・ショペンのように、紀元前後のインド仏教のありのままをあかし今までの仏教史認識を一変させるような発見も相次いでいます。

私のような一般人にも良書や情報が簡単に入手できる時代になりました。

これから、仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求する人たちが増えてくると思います。

その流れはこれからの何十年かで大きなものになっていくでしょう。

私の本は、琵琶湖のような大きな湖に投じた小石のようなものでごくごく小さな波紋を生じてすぐ消えるものにしか過ぎません。

しかし、私の死後も同じように、今までの価値観や仏教概念にとらわれず、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを先入観なしで探求していく人たちはあちらこちらで出てくるでしょうね。

私などよりもっともっと優秀な人たちが独自に仏陀の真意に迫っていくでしょう。

仏陀の理法は人類の至宝です。

あの、仏陀とその直弟子の時代、仏陀の理法は活き活きとしていました。

その仏陀の理法が甦るときは近いです。

 

仏教史は極めて特異です。

仏陀の死後、第一結集で仏陀が語ったことは確認し決定したのに、500年も後になって歴史上の仏陀の姿も声も知らない人たちが突如新しい経典を『如是我聞』と前置きして作り始めました。

そのような大乗仏典と原始仏典がほぼ同時に漢訳され中国に入っていったので、中国ではどちらの経典も仏陀の金言だと認識して、大乗仏教が主流となりました。

 

大乗仏教側は部派仏教を小乗仏教と貶し、部派仏教は大乗仏教は非仏説つまり仏陀が説いたものではないと否定します。

現代でも、両者の関係はうやむやになったままです。

大乗仏教側は、自分たちの根拠を疑われる文献学を憎んでいます。

しかし、私はそれはおかしいと思っています。

文献学や考古学で歴史上の仏陀の肉声が明らかになるのは非常に喜ばしいことです。

その上で、500年も経ってなぜいきなり大乗仏典が作られていったのか、その根拠を明らかにすることによってのみ、大乗仏教の価値の全貌があらわれると思っています。

 

大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったと私は思っています。

そして、それは、部派仏教のあり方に強烈な不満を持った人たちによるものだったと思っています。

そのすべてがあきらかになったとき、原始仏教と大乗仏教がともに仏陀の真意を基盤にすることが理解されるのだと思います。

その時、小乗と貶す人はなくなり、大乗非仏説と否定する人もいなくなるでしょう。

その時代が来る頃には私は生きてはいないでしょうけど、これから何十年、何百年かして、そうなることでしょう。

 

 

そして、仏陀の悟りの全貌が明らかになるでしょう。

私も、今までの仏教書を読んでいたときには、仏陀の悟りはいわく言いがたいもの、言葉として表現できないもの、あるいは言葉で語ってはいけないもの、というように思っていました。

これは今の仏教が龍樹仏教だからです。

龍樹は、言葉を戯論としました。

言葉を迷妄の根元としました。

しかし、仏陀にはそういう考えはありません。

私は、仏陀が自分自身の悟りについて詳しく語っていることを知り、びっくりしました。

ちゃんと言葉で語っているのです。

何らの先入観を持たずに、直接、原始仏典に向き合うことがいかに大事か、わかりました。

 

 

 

 

仏陀の教えの根幹は

 高原 (121.109.220.213)    
ショーシャンクさん、こんにちわ。
新領解文は、今は辞められている門主の方が書かれたものですね。
知識が足らずに申し訳ありません。
親鸞については太宰治と同じように自虐的というか、自らを貶めて「苦しい、苦しい」と弱みや恥部をさらけ出す人が、なぜだか、日本人にはとても人気がありますね。
 
佐々木閑さんと輪廻の話を少しさせてください。
ショーシャンクさんの仰った通り、佐々木さんは「輪廻は信じてない」と自著の中で書いておられます。
ぼくは佐々木さんの仏教講座を聞かせていて、講座の中で輪廻に対して語られた時、一度だけ「もちろん輪廻は信じていますよ」と仰って、その後また「輪廻は信じてません」とも仰って「えっ、どっちなの?」とイライラさせられたことがありましたが、それが佐々木さんの迷いということです。
こんな事を言われたことがありました。「(科学万能の)現代の社会を生きる人たちに(非科学的)な輪廻を信じろと言うのは無理があると思っています。
輪廻を信じないから仏教徒でないとは私は言いたくない。少しでも仏教に興味を持って仏典を読んだり、仏教の教義に共感出来る人なら、ご自分を(立派な)仏教徒だと思ってくださって良いと思うのです」そして「(一番大切なこととして)私は、執着、煩悩を消せば苦しみを消すことが出来るという(仏教理論)は信じています。(そこは譲れない)」とも言われています。
佐々木閑さんは大学の工学部で学ばれ、ご自分を「科学者」でもあると自負もされています。
確かに、ぼくでも、輪廻があるという確証は掴めてません。阿羅漢になれば過去生を思い出せるとか、普通の人でも稀に過去生を覚えて人がいるとも聞きますが、ぼくには全く過去生の記憶もなく、見えません。輪廻があるかどうかと言われればやっぱり証拠がない、分からないんです。
佐々木さんも「輪廻は信じてない」とは言われますが「輪廻はない」とは一度も言っておられません。「お釈迦様が大好きで敬愛してます」と仰っている、間違いなくごりごりの仏教人です。
当然、講義の中で縁起を説き、業を説きしていけば、信じる信じないに関わらず、当然のように釈迦の教えは輪廻へと繋がって行きます。
涅槃と輪廻の道程です。ぼくは釈迦の教えが正しい、正しかったと身に染みて感じているので、その釈迦があれだけ熱心に「輪廻」を説かれるならば、ぼくも「輪廻」を信じるべきだと思っているし、お釈迦様は大好きなので、敬愛する人を信じなければならないと思っています。
もはや、輪廻のあるなしの選択の余地がありません。

 

 

高原さん、こんにちは。

石上総長という人が、自分の本の中から自分の文章を抜き書きして作ったものが『新しい領解文』です。

門主は、代々、親鸞の子孫がなるもので、実質的に運営している実力者が総長なのでしょう。門主は形式的なトップなのでしょうね。

それにしても、蓮如の言葉の代わりとして、自分の言葉を強制的に唱和させるとは、いい根性してますね。

浄土真宗内部の反発は非常に強いみたいですね。

 

死後の世界と輪廻転生は、仏陀の教えの根幹です。

仏陀の理法は、輪廻からの解脱ですから。

解脱までいけない人のために、死後、良きところに生まれる方法を仏陀は説きました。

善行し功徳を積むことです。

応供にたいする供養は最大級の善行でした。

人々は、死後、良きところに生まれるために、先を争って仏陀やサンガに寄進したのです。

しかし、良きところに生まれること、天界に生まれることも苦であると見抜いた人たちは、解脱を目指しました。

『この世もかの世もともに捨て去る』人たちです。

いずれにせよ、死後の世界と輪廻転生は、仏陀の教えの根幹であるのです。

 

ただ、仏陀の死後、特に根本分裂以降は、仏陀の真意は失われていきます。

唯物論的な仏教、断見そのものの仏教となっていくのです。

そのような部派仏教に反発して生まれたのが大乗仏教です。

ですから、大乗仏教は仏陀の真意の復興運動なのです。

しかし、その大乗仏教も、断見の方向へ傾いていきます。

『無我』としたために、どうしても断見に傾きやすくなったのです。

 

仏教を唯物論で捉える人がいかに多いか。

仏教学者や僧侶たちも多くは唯物論です。

 

『お釈迦様は死後の世界を説きませんでした。葬式は、死んだ人のためではなく生きている人のためにあるのです。皆さんの心の中に、記憶の中に、故人はいつまでも生きています。』などという説法をするお坊さんを何人も見てきました。

情けない限りです。

生きている人の記憶の中にだけあるのであれば、葬式に坊さんは要りません。

知り合い同士で思い出話をすればいいだけで、読経など要りませんし、戒名も法名も要りませんね。

 

仏教は哲学だという人は多いです。

仏教は心理学だという人もいます。

しかし、哲学では誰も幸せにはなりません。

よく、哲学は人間を幸せにするための学問だという人がいます。

しかし、それなら、大学の哲学科に行って哲学を専門的に学んだ人が一番幸せのはずです。

しかし、残念ながらそうではないですね。

それどころか、たぶん、哲学科に行った人が一番苦しそうです。

偏屈でプライドだけ高い傾向にあるので、社会になかなかうまく適応できない人が最も多い学科のように思えます。

 

仏教を哲学や心理学に過ぎないと捉える人も、別に仏教徒と自称していいとは思います。

そもそも、仏教徒にしてもヒンドゥー教徒にしても、医師や弁護士と違って名乗るのに資格が必要ではありませんから、自由にどうでも名乗ればいいことです。

 

ただ、死後の世界や輪廻転生を説かない仏教は、仏陀の教えの表面だけを撫でたものにしか過ぎません。

仏陀の基本は、『業=行為=kammaが五蘊を集め形作っていく。身体も環境も。』ということです。

kammaには、身業、口業、意業と3つありますが、仏陀は意業つまり思いが最も重要で大きな影響力があるとしました。それに比べ、身業と口業は些細なものとしたのです。

ジャイナ教の教祖マハーヴィラは、身業が最も重要で、口業と意業は些細なものとしました。

 

仏陀の教えでは、一瞬一瞬の思いがすべてを形作っていっているのであり、そこをありありと実際に感じなければ、仏陀の真意からはほど遠いと言えます。

 

そして、今の一瞬一瞬の思いが身体と環境、境遇を形作っていっていることが実感できれば、死後の世界や輪廻転生がまさしくあることがずしんとわかるはずです。

 

 

 

檀家制度にあぐらをかく日本仏教

 高原 (121.109.220.213)    
ショーシャンクさん、ご無沙汰しております。お久しぶりです。
今回の新しい領解文の発見は、これまでずっと隠されていた文書を明らかにすることで、浄土真宗の幹部クラスの方でしょうが、あえて世に問われたんだと思います。
たいへんな混乱が起きてるようで浄土真宗の分断が起こり始めているようで、賛成派の僧には懲罰処分も下されているようで、浄土真宗のカルト教団化を危ぶむ僧の人もいて、時代がまさに変わり始めているんだと思います。
Youtubeの議論も見させて頂きましたが、「少しずつ執われの心を離れます」という新領解文が親鸞の「煩悩凡夫のままで極楽浄土に迎えて下さる」に反する言葉で「道徳と宗教は違う。
煩悩を消すというのは理想論だ。道徳の押し付けである」という声あり、浄土真宗の信者さんにとっては釈尊の教えは理想論のインチキに過ぎず、執着というものは絶対に消せないというのが不変の絶対法則のようです。
執着を消すことを最初から出来ないと諦めてる自体で、ひどく低俗で進歩のない宗教だと思います。
浄土真宗が変わろうとしているのは良いことだと思います。
というか、宗教自体というか、我々の娑婆が、確かに変わろうとしているようにも感じます。

 

高原さん、お久しぶりです。

『新しい領解文』は、浄土真宗本願寺派教団の実質的なトップの石上総長(形式上のトップは門主)が、自分の著書の中の言葉をそのまま抜き出して作ったものです。

ですから、蓮如が作った今までの領解文とは内容が全く違って、お粗末極まりないものです。

全くわかっていない、信心も獲得してない人が書いた内容ですね。

 

これも結局、日本の檀家制度でのうのうとしていた教団が腐っていたことの証明でしょう。

 

 

歴史上の仏陀は、神仏に祈ることも、神仏の名前を唱えることも、一切説きませんでした。

ですから、基本的に、私は浄土教には何の興味もありませんでした。

 

そもそも、日本仏教にははじめからサンガというものがありませんでした。

日本に仏教が伝来し、積極的に輸入していったのは、ちょうど明治維新のときに西洋文明をまるごと輸入し鹿鳴館時代が現出したようなものです。

先進国の文化、そして文明という位置づけです。

中国式の寺院を建築することによって、先進国の建築技術が取り入れられていったのです。

仏教は日本にとって、言葉の基ともなる文化そのものでしたし、同時に先進国の最先端文明でした。

僧侶はトップクラスの文化人であり、国家公務員でした。

もうここから、仏陀の仏教とは全く異質なものだと言えるでしょう。

仏教の出家とは、あらゆる仕事や地位を放棄する生き方です。

しかし、日本仏教の出家というのは、僧侶という社会ステータスのある地位に着くことであったのです。

 

インドでは、出家者が農業をはじめあらゆる生産活動に従事してはいけませんでした。

それが仏陀の定めた戒律なのです。

ひたすら修行をして仏=福田(ふくでん)=応供を目指さなければいけないのです。

修行ができ仏となった僧侶にお布施することで、在家信者は大きな功徳が得られるということでした。

ですから、仏陀の在世中は先を争って在家のものが仏陀やサンガに寄進したのです。

修行ができたお坊さんにお布施したら、良き田に種を植えるようなもので大きな収穫が得られ、徳のない坊さんにお布施をするのは、荒れ地に種を蒔くようなものでなんの収穫も得られない、というのが基本的な考えでした。

 

中国も最初は、戒律を守り、生産活動はせずにひたすら修行するスタイルでした。

しかし、出家者が膨大に増えたために、布施をもらう出家者と布施をする在家のバランスが崩れていき、出家者が布施で生活できなくなりました。

寺の運営ができなくなったのです。

そこで禅の百丈は、『一日作さざれば一日食らわず』と、それまでの戒律を180度変え、農業などの生産活動に従事することを掟としました。

 

日本では、最初から、サンガというものはなく、仏陀の定めた戒律もありませんでした。

そもそも、仏教の戒律とは、歴史上の仏陀が定めたものだけを言うのであって、それ以外は仏教の戒律ではありません。

しかし、日本では、仏陀が定めたのではない戒律を戒律としました。

基本的に文化人待遇でしたから、身分の高い人たちが僧侶となって出世することが当たり前になっており、最初から戒律など極めていい加減でした。

ある学者によると、日本の僧侶のうち、一生女犯してないのは、明恵だけだと言います。

それでも、公には、戒律遵守が大切とはなっていましたが、それさえも破壊したのが親鸞でした。

形式的でも残っていた戒律を徹底的に壊しましたし、修行も必要ないとしてしまいました。

これは、天台本覚思想のように恐るべき退廃を招きます。

もともと何でもありの日本仏教ですが、親鸞の出現によって、仏陀の影も形もなくなりました。

 

そして、江戸時代の檀家制度によって、日本仏教は見るも無惨な有り様となります。

寺から檀家へ強制的に布施や寄進を求められ、従わなければ村八分のような仕打ちをされるシステムになります。

そういう檀家制度で、寺院は経済的に恵まれてきました。

特に浄土真宗は檀家が多く、戒律は全くなく、坊さんがいくら煩悩まみれでもいいのですから、やりたい放題です。

修行は必要ないどころか、修行をやってはいけないのです。

檀家からの布施で愛人を囲ってる坊さんもリアルで複数知っています。

熱心な浄土真宗の門徒がかわいそうです。そこは一家で自営ですが本当に真面目に休まず働いています。

そのお金をことあるごとに奪っていくだけの役がそのお寺です。

戒律は破壊しつくし、修行は全くせず、信心も獲得してないのでろくな法話もできず、それでも檀家制度に寄生しているだけで、お布施で裕福に暮らせます。

これ、社会に必要ですか?

 

このような檀家制度はもうじき崩壊します。

日本の寺院の数は今の3分の1になるでしょう。

 

今回の、『新しい領解文』問題で、教団トップの横暴が明るみになりましたから、特に浄土真宗は激減していくと思います。

 

 

今回、私はさまざまな浄土真宗の動画を見て、その教えを見直す部分もありました。

動画を見ると、あの無学の妙好人たちも皆ひたすら聴聞を重ねたようです。

他人の何倍も聴聞を重ねて、これ以上聞けないというほどに聴聞したようです。

私のイメージでは、無学で素直な人が教学もわからず、ただ阿弥陀を信じればいいと思ってすぐに妙好人になれたと思っていました。

 

教学も深いものがあり、それがわかったのは今回とても良かったと思っています。

 

蓮如の凄さが今回わかりました。

坊主のくせに結婚を5回もして、80代で20代の女性を妻にするなど、うさんくさい奴だと思っていましたが、文章を追って見ると、零細の貧乏教団を何十年かで全国的な大教団にした、その理由がわかります。

 

信心獲得を最重要とし、聴聞を最優先にしました。

 

大乗仏教には修行法がなく、宗祖たちは、座禅や称名念仏や唱題をもって自らの宗派の修行法としたのですが、大乗仏典例えば法華経では修行法は法華経を受持、読、誦、解説、書写の5つです。

聴聞を最重要にしたのはかなり参考になりました。

 

 

 

 

『領解文』と『新しい領解文』

浄土真宗本願寺派において、江戸時代の三業惑乱以来の大騒動になっているのが、『新しい領解文』問題です。

 

 

【領解文】

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。

このうへは定めおかせらるる御掟おんおきて一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

 

 

 

【新しい領解文】

 

南無なも阿弥あみぶつ

「われにまかせよ そのまますくう」の 弥陀みだのよびごえ

わたし煩悩ぼんのうほとけのさとりは 本来ほんらいひとつゆえ

「そのまますくう」が 弥陀みだのよびごえ

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

すくられる ねんじょう

ぶっとん報謝ほうしゃの お念仏ねんぶつ

 

これもひとえに

しゅう親鸞しんらん聖人しょうにん

法灯ほうとう伝承でんしょうされた 歴代れきだい宗主しゅうしゅ

とうといおみちびきに よるものです

 

おしえをりどころにきるもの となり

すこしずつ とらわれのこころを はなれます

かされていることに 感謝かんしゃして

むさぼり いかりに ながされず

おだやかなかおと やさしいこと

よろこびも かなしみも かち

日々ひびに 精一杯せいいっぱい つとめます

 

 

 

さて、私は、浄土真宗の門外漢もいいところの外野ですが、岡目八目とも言いますので、外野からの感想を。

 

領解文は蓮如の作です。

さすがに、蓮如の文章には、無駄がなく、真髄を凝縮していますね。

それに比べ、『新しい領解文』は支離滅裂です。

『私の煩悩ぼんのうほとけのさとりは 本来ほんらいひとつゆえ「そのまますくう」が 弥陀みだのよび声』

これは、明らかに天台本覚思想ですね。

私は、鎌倉仏教は天台本覚思想を土台にできたと思っていますが、しかし、それを超克していないとそのまま天台本覚思想となります。

煩悩即菩提と因果倶時は、本覚思想から来たものですので、そのままでは、恐るべき邪見となります。

たぶん、このままだと本覚思想となってしまうので、

『みおしえをりどころにきるもの となり すこしずつ とらわれのこころを はなれます』

という文章があるのでしょう。

しかし、『すこしずつ とらわれのこころを はなれます』というのは、完全に、『私の煩悩ぼんのうほとけのさとりは 本来ほんらいひとつゆえ「そのまますくう」が 弥陀みだのよび声』と矛盾します。

とらわれの』というのは、煩悩のことです。

煩悩そのままに救うのではなかったのでしょうか。

そして、『すこしずつ とらわれのこころを はなれます』というのであれば、信心獲得はどうなるのでしょうか。

『たのむ一念』のとき、信の一念のとき、つまり信心をいただいたとき、信心を獲得したとき、煩悩そのままで救われるというのが親鸞そして蓮如の教えのはずです。

少しずつ煩悩をなくしていくというのは自力の行ということでしょう。

 

これに対して、本願寺派の人たちはどう思っているのでしょうか。

 

 

 


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難の中の難

原始仏教や聖道門は難行で誰も救われない教えで、親鸞の教えつまり浄土真宗は易行道、容易く救われる道ということばかり売り物にしている人がいました。

私は、法然の教えは易行道だけど親鸞の教えは法然の教えを難中の難にしたと思ってきました。

最近、いろいろ浄土真宗本願寺派の動画などを見ていると、その直感は正しかったと思えます。

 

浄土真宗では、悟り、救われることを、信心獲得というそうです。

信心獲得するためには、とにかくお坊さんの話を聴聞することに尽きるようです。

話を聞くだけでよいとはまさしく容易い道のように思えます。

しかしながら、蓮如は、大勢の信徒にこう言ったそうです。

『この中に、信心を得た者が何人いるだろうか。一人か二人いるであろうか。』

集まっていた大勢の信徒たちは肝を潰したということです。

あの蓮如の話を常日頃聴聞している信徒たちもほとんど信心獲得できていないのです。蓮如以下のお坊さんの聴聞ではなおさら難しいでしょう。

無量寿経に『難の中の難』と書かれているようです。

 

石見の才市という最も有名な妙好人でさえ、聴聞に聴聞を重ねてもどうしても信心をいただけないということで非常に苦労したようです。

才市は、『いくら聞いても聞いても信心いただけん。もうやめた。』と言って、仏壇を2ヶ月間閉じた時期があったということです。

本物の妙好人は誰も皆、どんなに聴聞しても信心をいただけず大きな苦難の時期を経ているようです。

 

浄土真宗以外は難行で誰も救われなく、浄土真宗だけは容易く誰もが救われる、自分も何もしなかったが棚からぼた餅みたいに容易く救われた、とばかり言っている人が、あまりにもうさんくさく思えてきます。

 

本当の浄土真宗の教えは真剣なものだということがわかって今回よかったと思っています。

 


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浄土門特に浄土真宗については先入観でかなり馬鹿にしていましたが、碩学の講演を聞いていると、極めて高度な教えであることがわかりました。

動画を幾つとなく見ましたが、三願転入などの教理にしても面白く聞くことができました。

しかし、このような高度な教えが、多額のお布施で愛人を囲っている浄土真宗の坊さんにどれだけわかっているのか、疑問ではあります。

 

また、蓮如の言葉を読んでみると、本当に真摯な人格、教えというのがわかります。

ヤフー掲示板やマニカナで荒らしまくっていた浄土真宗の寺の息子のイメージから、あまりにも浄土真宗のイメージを悪くしていたことがわかりました。

 

蓮如はこのような言葉を言っているようです。

 

 蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

 

自分だけがと思いあがって、自分一人のさとりで満足するような心でいるのは情ないことである。

信心を得て阿弥陀仏のお慈悲をいただいたからには、自分だけがと思いあがる心などあるはずがない。

阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるのだから、信心を得たものは、おのずとおだやかな心になるはずである

 

仏法について少しでも語るものは、みな自分こそが正しいと思って話をしている。

けれども、信心をいただいたからには、自分は罪深いものであると思い、仏恩報謝であると思って、ありがたさのあまりに人に話をするものなのである

 

 

阿部さんという人の動画と比べ、今まで見てきたのは次のようなものばかりだったので、浄土真宗の教え自体、大したことないと思い込んでいたようです。


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この人は、質問に真正面から答えていませんね。

『なぜ浄土真宗の坊さんは修行をしないのか?』という質問です。

その答えとして、浄土真宗は在家仏教だから。ということでした。

なら何故、その在家仏教に出家であるお坊さんがいるのか、ということです。

信者の布施に頼らずに、自分の力でお金を稼ぐのが『在家』です。

今までこのようなくだらない話しか浄土真宗の坊さんからは聞いたことがなく、阿部さんのように教えの核心を語る話がなかったので、私の中で評価が低かったということです。

仏陀は、修行をして福田になり供養に相応しい者つまり応供=仏を目指すから供養を受ける資格があるという考えでした。

戒律も守らず修行もしない、しかし布施だけはたんまり搾取するというのは、やらずぼったくりということです。

逆に言えば、在家だというのであれば、お金をもらうときはその金額と同価値のサービスなり商品なりと提供しなくてはいけません。

話をするのが浄土真宗の坊さんが提供するサービスなのであれば、例えば一万円の布施をもらうときには、一万円の価値のある話を提供する必要があるのです。

しかし、そんな価値のある話をする坊さんはいません。

面白さでは落語家の話の方が何倍も面白いのです。

在家とごまかすほうがハードル上がります。

 

そもそも、浄土真宗の教えでは、信心獲得してない者の話をいくら聴いても意味ありません。

では、浄土真宗の坊さんに信心獲得している人はどのくらいいるでしょうか。

ほとんどいないと言えるでしょう。

何故言えるかと言えば、蓮如の話を直接聴いている大勢の信徒でも、信心を得ている人は一人か二人いるかどうかだと蓮如は言っているからです。

蓮如のような人がいない現在では、信心を得られている確率は極めて低いと言えるでしょう。

 

とすれば、信心も獲得してない、修行もしない、戒律も破り放題、大した話もできない、というような坊さんばかりが、日本の檀家制度のおかげでぬくぬく暮らせるという図式なのです。

しかし、それも、もうじき終わります。

日本の寺院はかなり厳しいことになっていくでしょう。

寺院に限らず、宗教団体すべてから信者が減っていくでしょう。

宗教団体はすべて、精神の牢獄だと言うことがわかってくるでしょうから。

牢獄なのに、お金もむしりとられます。

馬鹿馬鹿しいにも程があります。

 

知り合いに家族揃って熱心な浄土真宗の信徒さんがいます。

そこのお寺の住職は、ことあるごとにいろいろお金を出させるようです。

今回も、お寺の本堂で歌手かバンドを呼んできてミニコンサートのようなことをするので、1枚3500円のチケットを5枚買わされたらしいです。

仕方ないのでお付き合いで買ったと言っていました。

当日、家族の誰も行かなかったようです。素人の音楽会にわざわざ行く気もなかったのです。

つまり2万円近くが半強制的なお布施ということです。

そこの住職は隣県の繁華街でクラブのママをしている女性を愛人にしているとのことで、そちらにお金がかなり要るのだろうと言っていました。

お母さんが取り分け熱心なのですが、お父さんはお寺を替えたいと言っているそうです。

 

信心獲得しているお坊さんが果たして、信徒からのお布施を愛人手当てに注ぎ込んで恥じないということがあるでしょうか。

煩悩即菩提を都合よく使うのが日本仏教ですが、その檀家も必死で仕事して稼いだお金をお布施しているのです。

愛人を囲いたいなら檀家のお布施に頼らず、自分で稼いだお金でするべきでしょうね。

こういう事例はどこの浄土真宗のお寺でもあるでしょう。

熱心な信者たちが汗水たらして稼いだお金をお布施してもらい、愛人手当てに使うというこの図式は社会の害悪だと思います。

日本の檀家制度はなくならないものかと思いますね。

宗教は純粋に個人のことであり、家に属するものではないのです。

 

 

 

 

 

浄土教の起源

エドワード・コンゼの『仏教ーその教理と展開』によると、

『紀元前400年以後、バクティの運動がインドに起こり、紀元の初め頃、非常な勢力を得た。バクティとは、人間の形をした尊敬さるべき神々にたいし、信愛を込めて個人的に帰依することである。インド民衆に見られるこのバクティ的傾向は、それ以前にも長い間、仏教に影響を与え続けてきたが、紀元頃非常な勢いで仏教に流れ込んだ。』

とあります。

 

歴史上の仏陀の教えには、神仏に帰依したり、信仰したり、崇拝したり、さらにはその名前を唱えたりすることは一切ありませんでした。

 

ちょうど、紀元の初め頃、インドでは、神の名前を唱えると神の世界(天界)に生まれることができるという信仰が爆発的に流行していたと言います。

 

原始仏典に、仏陀の考えとして、神仏に帰依するという発想がどこにもない以上、やはり、浄土教はバラモン教のバクティから来たものだと言えそうです。

 

 

また、阿弥陀仏は、イランが発祥で、西インドで勢力があったゾロアスター教の太陽神ミイロがその原型という説があります。

阿弥陀仏はサンスクリット語でアミターバ(無量光)です。

ミイロは太陽神であり無限の光の神です。

そして、西方のイランが発祥です。

 

 

いずれにせよ、大乗仏教にバラモン教、またはヒンドゥー教の影響が全くないという仏教学者は一人もいないでしょう。

数珠の球数は108玉ですが、何故108なのでしょうか。

煩悩の数だと言われていますが、煩悩の数が108などという文献はありません。

後付け解釈です。

どの説を見ても、無理矢理108つにしています。

実は、シヴァ神の名前が108あるのです。

ヒンドゥー教徒は、そのシヴァ神の108の異名を唱えるために、数珠のようなもので数を確認していました。それが仏教に取り入れられたのでしょう。

さすがに、シヴァ神の名前の数だとは言えないので、他に理由をつけたのでしょう。

神の名前の数を数珠にするのはその用途がわかりますが、煩悩の数を数珠にしてどうするというのでしょう。

ひとつひとつ煩悩を確認しながら消していく瞑想をしていたのでしょうか。

誰もそのような行法をした記録がありません。

 

仏教徒は、バラモン教、またはヒンドゥー教というと反射的に排斥するほど毛嫌いしています。

しかし、歴史上の仏陀は、ヴェーダの達人と呼ばれていたのですし、最古層のスッタニパータにはバラモン教の用語が頻繁に肯定的に使われています。

 

仏陀は肉食を禁止しませんでしたが、大乗仏教では肉食禁止となったのは、ジャイナ教の影響です。

そもそもバラモン教は肉食禁止ではありませんでした。

バラモン教では、牛も生け贄として、祭りの後で皆で食べていました。

しかし、牛は牛乳を取ったり、耕作に使ったりして、極めて貴重な財物でした。

ですから、牛を生け贄として差し出す風習に反感を持っていた人は多いのです。

そして、牛を生け贄としないジャイナ教や仏教が民衆の間に人気となって行きます。

民衆の支持がなくなっていったバラモン教は、牛の生け贄禁止、肉食禁止としていきます。

バラモン教もジャイナ教の影響を強く受けていったのです。

 

 

 

Amazonレビューについての考察

2023年4月26日に日本でレビュー済み

 

 

 

 

また、Amazonレビューについての考察をします。

 

しかし、法華経もパーリ語があるから「これも本当に仏陀(釈迦)が言った言葉です」ともおっしゃっています。

この文章に関しては、明らかに間違っています。

法華経を始め大乗仏典の原典はパーリ語ではなくサンスクリット語で書かれていることは常識です。

ですから、このようなことを書いているはずはありません。

また、パーリ語で書かれているからとか、サンスクリット語で書かれているから、仏陀の言葉であるとか仏陀の言葉でないとか、言っているのではありません。

 

歴史上の仏陀が語った言葉は、第一結集で確定しています。

なのに何故、仏陀滅後500年も経って新しく経典を作っていったのか、ここを真正面から見つめないといけません。

大乗仏教の人はここに蓋をします。

そして、原始仏典が必ずしも古いわけではないなどと、原始仏典を貶すことでしか、大乗仏教の成立根拠を打ち立てることができていません。

歴史を見れば、仏陀の本当に説いた教えを確定するために第一結集があったのです。

そして、それは確定しました。

そこには何も疑問点はありません。

しかし、仏教史では、第一結集で確定してない経典が、何百年も後になって次から次へと生み出されたのも事実です。

これを事実と認め、その上で、真正面から、何故そのようなことが起きたのかを知りたいのです。

ここを逃げていては、仏教全体は絶対にわからないでしょう。

 

ここで、極めて興味深い問いをします。

大乗仏教の人に答えていただきたい問いです。

歴史上の仏陀は、自らの教えをサンスクリット語で説くことを戒律で禁止しました。

聖語であるサンスクリット語で仏陀の教えを説いてはいけないとしたのです。

しかし、大乗仏典の原典はすべてサンスクリット語で書かれています。

これは何故でしょうか。

何故、大乗仏典は、仏陀が禁じたサンスクリット語でわざわざ書かれているのでしょうか。

サンスクリット語で書かれている時点で、仏陀の直説でないと、仏教が広まっていた地域では相手にされないことは明白なのです。

 

このような論点で論じている対話は見たことがありません。

ここの大きな疑問点をクリアしなければ、大乗仏教が何故生まれたのか、を本当に説明することにはならないでしょう。

 

さて、歴史的にみると、初期仏教は少しずつ変遷していき、非常に細かく色々と理論体系を作る部派仏教に発展していった訳ですが、この本での著者の論は、その昔の動きをあらためてトレースしているように見えます。釈迦の率いる教団は、サンガ内のどんどん増えていく出家信者に対する教育カリキュラムを次々と増やしていく必要があったのでしょう。それが修行過程の細分化となり、経典の細分化となっていったのでしょう。

 

仏陀の死後100年後くらいに根本分裂が起き、部派仏教の時代になっていきました。

部派仏教では、極めて煩瑣な理論を構築することに没頭してしまったことは確かです。

しかし、四諦十二縁起や四念処や三十七菩提分法は、仏陀在世に説き明かされていたものです。

仏陀は自らの悟りへの道筋を極めて具体的に語っています。

例えば、七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。

念は四念処、精進は四正勤です。

仏陀は自らの体験として、四念処を行じ、善法を選択し(択法)、四正勤(精進)によって「生じてない不善法を生じさせないようにし、生じた不善法を断つようにし、生じてない善法を生じさせ、生じている善法を増大させる」ように精進したのです。

その結果、喜が生じました。

そして、喜で満たされると、心も身体も軽くなり安定してきました。

安定した心と身体は自然に禅定に入っていったのです。

そして、最後、善法をも捨てます。

筏だからです。

つまり、三十七菩提分法は、後世の人が勝手に作り上げた修道論ではなく、仏陀自らの体験から仏陀自らが説いたものなのです。

仏陀の体験そのものなのです。

それがわからなかったから、ただの修道科目の羅列のように、ぐったりと死んだものになっていったのです。

 

部派仏教になって、煩瑣な理論を構築したのは、仏陀の『非我』の理法を、『無我』ということにしてしまったことから、『無我であれば、因果の果を受ける主体は何なのか?』という哲学的な迷路に嵌まってしまったために、刹那滅などの理論を勝手に構築していったということです。

 

刹那滅、刹那生など、仏教を仏陀の真意から大きく離れさせたものにしか過ぎません。

 

そのような部派仏教のあり方を批判して大乗仏教は生まれたと思っています。

 

これも矛盾点


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また、この浄土系のYouTubeの中で、

親鸞の『教行信証』の『雑心なる者は、大慶喜心を獲ず』を挙げて、「不思議な弥陀の救いに値っていないから、大慶喜心が起きないのである。」という意味だと解説しています。

同じく『教行信証』の『広大難思の慶心』を挙げて、「広く大きく想像を絶する喜びがある」としています。

 

しかし、歎異抄ではこうあります。

念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。

よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、 いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。

よろこぶべきこころをお さへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。

しかるに仏かねてしろ しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。

久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。

なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。

踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。

 

 

ここで、親鸞は、念仏しても喜びが一向に湧いてこない、と弟子に打ち明けています。

 

 

ということは、この歎異抄の時点での親鸞は、不思議な弥陀の救いにあずかっていないということになります。

 

この矛盾点を説明できる人がいたら解説してください。

誰でも簡単なら何故?

ある、親鸞系の人のYouTubeを見ていて、疑問に思ったことを書いておきます。

その人は無量寿経などの浄土三部経を、仏陀の出世の本懐だとし、最高最深だとします。

それはいいのです。

大乗仏教の場合、不立文字を標榜する禅宗以外は所依の経典を立てます。

そして、その経典が、最高最深であるとします。

華厳宗では華厳経、天台宗や日蓮宗では法華経、真言宗では大日経、が最高だとそれぞれの宗派で主張します。

それはそれでいいと思いますし、その解説に納得できる部分も多いです。

 

ただ、浄土系のYouTubeを見ていて、論理的に疑問に思いました。

その動画では、『法華経は難解難入の教えでほとんど誰も実行できない。ゆえに、法華経の中に「法華経を信受できない人には如来の余の深法で導きなさい」とある。これは、すべての人が救われる教えで深法である無量寿経に導いているのだ。』と解説していました。

なかなか面白い解説です。

もちろん、この人は大乗仏典はすべて仏陀が説いたものだという前提に立っています。

その上で、あまりにも難しすぎてほとんど誰も救われない法華経は、簡単で誰でも出来すべての人が救われる教えである無量寿経に導くための経典だと解説していました。

難解難入の法華経と違い、すべての人が理解できすべての人が救われる無量寿経が仏陀の出世の本懐なのだということです。

 

ここで大きな疑問が沸きます。

そうであれば、なぜ仏陀は、最初から最後まで無量寿経(浄土教)のみを説かなかったのでしょうか。

すべての人が簡単に救われる教えがあるのであれば、わざわざ、ほとんど誰も救われない難解な教えなど説く意味がありません。

この論理的な矛盾はどう解説するのか、聞いてみたいものです。

 

ちなみに法然は、このような矛盾に満ちたことは言っていません。

法然の考えでは、末法の娑婆世界は苦渋に満ち修行できる場ではなく、まずこの世では、称名念仏をして極楽浄土に往生することに専念し、極楽浄土に生まれてから成仏を目指して修行するということになっています。

しかし、親鸞では、極楽浄土と成仏がほぼ同じように捉えられており、つまり易行により究極の成仏まで行くとされます。

それであれば、なぜお釈迦様は、これのみを説かなかったのでしょうか。

難しくて効果もないものをわざわざ説いたというのは論理的な矛盾です。

 

誰でもできて簡単だから正しい、という論理は、TVショッピングを思い出させます。

「ダイエットしたいあなたに。

 痩せたいからって、食欲を我慢したり、きつい運動を毎日するのは誰もできませんよね?

 そこで、1日1粒これさえ飲めば、誰でも簡単にすぐに痩せられます。」

というような論理です。

 

 

 

このYouTube動画では、煩悩を断つことなどできないと仏陀は知っていたのだが、それがわかっても、やらせてみないとわからないから聖道仏教を説いたそうです。

肉食妻帯も悪人正機も、仏教の真髄だそうです。

それなら何故、仏陀は妻帯をやめ、弟子にも妻帯を禁止したのでしょうか。

悪人正機なら何故、仏陀は不善法を断ち善法を勧めたのでしょうか。

 

聞けば聞くほど矛盾点が見つかります。

 

もう、無理矢理に、歴史上の仏陀が浄土門を説いたというような結論にするのは、やめた方がいいと思います。

部派仏教に批判的な人たちが、バラモン教のバクティの教えに影響を受けて、それを仏教に取り入れたのが真実でしょう。

それはそれでいいと思います。

無理矢理に歴史上の仏陀が浄土教を究極の教えとして説いた、などということを証明したいのであれば、原始仏典のどこに阿弥陀仏が出てくるのか、どこに神仏を信仰し拝むという考えが出てくるのか、示してほしいものです。

 

法華経嘱累品『余深法中 示教利喜』について


www.youtube.com

 

 

 

法華経嘱累品にこうあります。

若有衆生 不信受者 当於如来 余深法中 示教利喜

 

この一文をもって、

『法華経を信じることができない衆生には、深法が説いてある如来の他の経典を示して導きなさい』という意味だと解説しているYouTubeがありました。

そして、その『他の経典』とは、『深法』という言葉が書いてある、無量寿経だという解釈です。

なかなか面白い解釈です。

 

しかし、この一文の本当の意味は何でしょうか。

サンスクリット本からの直接訳では、ここの箇所は、

そして、信仰の心のない者たちを唆かして、この経説を信ずるようにせよ。

です。

サンスクリット原本では、『他の経典』という意味はないようです。

 

 

『インド大乗仏教の虚像と断片』第3章「仏陀の遺骨と比丘の仕事」

第3章では、大乗仏典の内、全く流布されなかった経典『摩訶迦葉会』について考察しています。

この大乗経典において、比丘の仕事は2つ、瞑想と読誦だとされます。

それなのに、菩薩乗を信奉するある比丘たちや、声聞乗を信奉するある比丘たちは、食や衣や名声のために如来の遺骨と仏塔への礼拝や供養の行為をする、とあります。

 

そして、仏陀の言葉として、「比丘たちは止観の行に精進すべきである。信仰心の篤いバラモンと在家者たちがいれば彼らが私の遺骨に対して舎利供養をするだろう」と語ったとし、しかし、「愚か者の比丘は、ヨーガ、修行、説法、読誦を放棄し、生計のために遺骨の供養をしている」と語ります。

 

このような記述が最初期の大乗仏典にあるとすれば、こういうことが言えるでしょうか。

舎利塔の管理は、在家者が行なうことになっていたが、時を経るうちに、声聞乗(部派仏教の比丘たち)も菩薩乗(大乗仏教の比丘たち)も、生計を立てたり名声が欲しいために舎利塔の供養をするようになり、修行が疎かになっている、という状況が、大乗仏教最初期には起きていたということです。

 

それに対し、すくなくとも『摩訶迦葉会』では、批判しているということです。

 

考えてみれば、仏陀の遺骨が納められた仏塔(舎利塔)には参拝者からの膨大な供物が集まって来たはずです。

それを目当てに仏塔に常住する比丘たちが現れた、ということかもしれません。

提婆達多の謎

提婆達多は、増一阿含経では、仏弟子でありながら仏陀を殺そうとした大悪人とされています。

 

しかし、5世紀にインドを旅した法顕によると、その時には、提婆達多の教団はネパール国境付近で存続していたと言います。

つまり、提婆達多派の教団は、仏陀のサンガから出て行ってから、少なくとも1000年近くは存続していたことになります。

 

大乗仏典の法華経の提婆達多品は、提婆達多が未来世において如来となるとされています。これを解釈して法華経は悪人も成仏することを説いたとなっていますが、しかし、法華経提婆達多品では、提婆達多が悪人として描かれていません。

むしろ、前世では、仏陀の師であったとなっています。

 

提婆達多の扱い方をたどることによって、本当の仏教史が現われてくるような気がします。

 

歴史上の事実とすれば、提婆達多は、仏陀に対し、戒律を厳しくするように求めただけです。

精舎、僧院に住まずに森の中に住むこと、信者の邸宅への招待は断り食事は托鉢のみとすること、着るものは糞掃衣のみとすること、など5つの事柄で戒律を厳しくするように求めました。

そして、サンガの大多数の人たちの賛同を得たのです。

 

最終的には、その要求は受け入れられず、提婆達多は教団を割って出て行きました。

 

戒律を厳しくするように言っただけであり、最初期には称賛されていた頭陀行を励行するように求めたに過ぎません。

しかし、後世に成立した増一阿含経では、仏陀を殺そうとした大悪人となっていきます。

 

 

増一阿含経の記述と法華経の提婆達多への見方は全く違います。

 

これを見ても、グレゴリー・ショペンのいうように、大乗仏教を興した人は森の中で瞑想する人たちだったのかもしれません。

部派仏教の有り様に憤りを持った人たちだったのでしょう。

その頃の部派仏教のサンガは、財産を多く所有していたと言います。

貸金業も営んでいたようです。

ほとんど精舎(僧院)で過ごしていました。

 

大乗仏教を興した人は、むしろ、提婆達多の主張に共感していた人たちかもしれません。

 

 

『インド大乗仏教の虚像と断片』第2章「金剛般若の「その地点は塔廟となるだろう」という成句」

第2章では、多くの大乗仏典において、遺骨崇拝を批判し、経典崇拝を優位にしていると結論しています。

ただ、法華経は遺骨崇拝と経典崇拝を同等に見ているとの指摘です。

 

遺骨崇拝批判は法華経より前の時代に成立した経典群に見られるのに対し、法華経はストゥーパ、遺骨崇拝の支配的地位と折り合いをつけたようにショペンは見ているようです。

 

しかし、私は、そのような流れというよりは、大乗仏典はかなりバラバラに発生したものだと考えており、個々の作者の悟りを表明したものですから、内容は違っていて当然だと思っています。

 

大乗仏典に共通するのは、部派仏教への批判であり、部派仏教が仏陀の真意からかけ離れたという憤りだと考えています。

そうでなければ、わざわざ、第一結集に依らない経典を新しく作っていくなどということはしないでしょう。

 

 

私は、法華経の作者は、歴史上の仏陀が自分の遺骨を塔にして礼拝するように言った遺言の真意を、ひたすら舎利塔の前で瞑想して探求していた人物だと思っています。

あるとき、その答えを見つけたのです。

その時、目の前の舎利塔が大きくなり空中に広がることで、それが真実だと証明されたという確信を得たと思っています。

その覚醒から法華経を書いたのだと思っています。

彼にとっては、仏陀の舎利塔は真理の象徴、悟りの象徴でした。

 

 

ただ、ショペンが言うように、大乗仏典では、遺骨崇拝の代わりに経典崇拝が説かれることは確かです。

大乗仏典では、もっぱら経典読誦が強調されます。

経典に依らない禅宗は別として、大乗仏教の修行は読経です。

これに関しては、考察もありますが、いまは、そういうものだと記しておきます。

 

 

 

『インド大乗仏教の虚像と断片』第1章「大乗とインド仏教中期」

グレゴリー・ショペンの『インド大乗仏教の虚像と断片』は、第一章から衝撃的な結論を導き出します。

そのほとんどは、『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』でも述べられていることでしたが、第1章の最後にこうあります。

 

 

※※※※※

われわれは大乗がインドの外で活動した主要な動機を暴露したことになろう。

社会的な環境の中で安全に落ち着いていた既存の部派仏教グループは、移動する動機をほとんど持っていない。

インドを出て行く強い動機を持っていたのは、経済上の資源、社会的名声、及び政治的権力に、ほとんどあるいは限定された接近しか持てなかった、周辺的な者たちなのだ。

大乗仏教徒は不成功に終わった者たちなのである。

以上のような考察は、大乗の移住を説明するかもしれない。

それはまた、上座部仏教の移住をも説明するかもしれない。

両者ともその故郷では、あまりうまくやっていけなかったのであろう。

最後の皮肉は、ーインドの視点からはーもっとも重要でなく、最も不運な仏教グループ(すなわち大乗及び上座部)について、われわれはもっともよく知っているのかもしれない、ということだ。

それが少なくとも、明確な可能性なのだ。

※※※※※

 

これによると、大乗仏教とともに、上座部仏教も、インドでは主流ではなかったため、周辺国に移住したという結論のようです。

 

ただ、そうはいえ、インドで主流派であった部派仏教(説一切有部とかか?)にしても、仏教全体がインドでは滅んでいきます。

 

 

大乗仏教がインドでは流行らなかったのは、第一結集によって歴史上の仏陀の仏説非仏説がはっきり分けられることを常識として認識されていたことが理由だと思います。

仏陀滅後の500年も経ってから新しい経典を作っていっても、仏教の根幹を破壊するものとして非難されたのです。

5世紀以降に、仏教が伝播されてなかった僻地で初めて大乗仏教教団が出来たのは、第一結集のことを知らない地域だったからです。

 

原始仏典は文字の経典として書き写されたのは、大乗仏典が作られ始めたころとそれほどちがいがなく、中国には、大乗仏典とほぼ同時に入っていきました。

中国では、インドで作られた経典はすべて釈迦の金口とされました。

大乗仏典は『小乗仏典に依るな』とか『小乗の輩は仏となる種を焼いたもの』とか、口を極めて罵っています。

大乗仏典を釈迦の直説と思った中国では、小乗などは見向きもされませんでした。

 

インドでは3世紀になっても大乗教団の痕跡すらありませんが、中国では3世紀には大乗仏教が社会の主流となっていきます。

 

 

グレゴリー・ショペン『インド大乗仏教の虚像と断片』

グレゴリー・ショペン『インド大乗仏教の虚像と断片』について、書いていきます。

まずは、大まかな目次の紹介と、それから、具体的な内容について考察していきます。

おおまかなあらすじは次の通りです。

 

※※※※※

この四半世紀でもっとも影響力のある仏教学者と評されるグレゴリー・ショーペン。彼の手にかかると、経典の何気ない一節が、ありふれた寄進碑銘が、ほとんど注目されない仏典が、新たな相貌を見せ始め、インド仏教の生きた世界を語りだす。
【虚像】では、初・中期大乗の一般的な展開を検討する。
第1章では、中国で主流となった大乗が、インド仏教中期では周辺的な少数派であったことを例証する。
第2章では、『金剛般若』の成句「その地点は塔廟となるであろう」を取り上げて、経典研究における複数文献との比較の必要性を例証し、大乗が仏舎利崇拝を批判し経巻崇拝へ向かったことを示す。
第3章では、『摩訶迦葉会』の出家者の仏舎利供養批判を検討し、初期大乗が、部派の経律を偏狭かつ伝統的に解釈し、瞑想と読誦を比丘の仕事として森林修行への回帰を説く、保守的な運動であったことを明らかにする。
第4章では、初期大乗は仏舎利崇拝に無関心であり、部派の新要素「出家者の仏像崇拝」を批判する『摩訶迦葉会』最終章を検討することで、保守な教団改革を目指していたと指摘する。
第5章では、極楽往生が阿弥陀崇拝から切り離されて信者ならだれでも可能な恩恵となり、極楽世界が標準的な文学的直喩となったことを明らかにする。
第6章では、宿命智が、阿羅漢や仏だけが獲得できる法数の1項目から独立して一般的な恩恵となり、個人の行動を改善して悪趣への再生を防ぐ解決策となったことを明らかにする。
【断片】では、碑銘・考古学・美術の史料を検討して、インド仏教の生きた世界の一端を紡ぎだす。
第7章では、寄進碑文に見られる大乗共通の定型句を検討し、4世紀には釈迦の比丘/勝優婆塞を名乗る者たちが現れ、6世紀初頭には大乗の信奉者という名称が加わり、10世紀までには碑文と写本奥書に両名称を併記することが標準となったことを明らかにする。
第8章では、阿弥陀仏が表れる最古の碑文を校訂して先行研究の誤りを正し、北インドの碑文を検討することで、大乗と阿弥陀仏の不人気のほどを示す。
第9章では、アジャンター第10窟の小さな壁画を「観自在菩薩普門品」に比定し、同地で『法華経』が知られていたことを裏づける。
第10章では、『普賢行願讃』の1詩節を含む10世紀のナーランダー出土碑文を校訂する。これはインド碑文に現れた唯一の大乗文献であり、10世紀に同地で実際に使われていた証明となる。
第11章では、陀羅尼経典というジャンルを提案して、仏教の実践に顕著な影響を与えていたと指摘する。
第12章では、複数地域から出土した2点の陀羅尼銘文の出典を比定し、陀羅尼経典が中世北インドで実際に使用されていたことを明らかにする。
第13章では、11世紀のナーランダー出土銘文によって、マニ車のインド起源説を提示する。
第14章では、ストゥーパの内外で見つかる大量のミニチュア・ストゥーパが仏教徒の墓であり、10世紀以降の東インドでこのような習慣があったことを、考古学史料やチベットの習慣、ヒンドゥー教の文献から裏づける。
碑文・考古学・美術・律文献が照らし出す、実像の断片が、ここにある。

※※※※※

 

中国で主流となった大乗が、インド仏教中期では周辺的な少数派であった

これはまさしくその通りだと思います。

七世紀にインドに行った玄奘三蔵も大乗仏典を求めた旅でしたが、訪ねた僧院や学問処は、部派仏教(小乗仏教)の方がはるかに多かったですね。

玄奘三蔵はもっぱら大乗仏教を研究していましたし、その目的が大乗仏典を求めた旅ですから、優先的に大乗仏教の拠点を訪ねたはずですので、七世紀になってもインドでの割合は、小乗仏教が圧倒的だったということです。

このように、七世紀でも大乗仏教は少数派でしたが、もうこの頃には密教が興っており、仏教は急速にヒンドゥー教化していき、ほどなくヒンドゥー教に吸収されてなくなっていきます。

つまり、大乗仏教はインドでは流行らなかったということだと思います。

大乗仏教はもっぱら中国で栄えていきます。

中国仏教と言ってもいいかもしれません。

 

『金剛般若』の成句「その地点は塔廟となるであろう」を取り上げて、経典研究における複数文献との比較の必要性を例証し、大乗が仏舎利崇拝を批判し経巻崇拝へ向かった

これは半分同意半分不同意です。

法華経でもありますが、経典を受持するところに仏舎利塔が現われるというような記述は非常に多いです。

しかし、これは、仏舎利塔崇拝批判ではありません。

仏舎利塔というものを真理の象徴としているのです。

空中に巨大な仏塔が現われるのも、仏陀の理法を正しく受持したことの象徴です。

ただ、物理的な仏舎利(遺骨)崇拝には批判的かもしれません。

それよりも仏陀の法を受持することを強調していると見ていいと思います。

 

初期大乗が、部派の経律を偏狭かつ伝統的に解釈し、瞑想と読誦を比丘の仕事として森林修行への回帰を説く、保守的な運動であったことを明らかにする

今までの大乗のイメージとは正反対ですが、これは同意します。

ただ、経典によってかなり違うような気もします。

法華経のサンスクリット版で『隠遁して瞑想に専念してはならない』とあるところを、漢訳では『常に座禅を好め』と正反対の意味になっています。

 

 

 

 

さて、次からは、

この『インド大乗仏教の虚像と断片』の本文につき

いろいろ考察していきます。