また、この浄土系のYouTubeの中で、
親鸞の『教行信証』の『雑心なる者は、大慶喜心を獲ず』を挙げて、「不思議な弥陀の救いに値っていないから、大慶喜心が起きないのである。」という意味だと解説しています。
同じく『教行信証』の『広大難思の慶心』を挙げて、「広く大きく想像を絶する喜びがある」としています。
しかし、歎異抄ではこうあります。
念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、 またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべき ことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審あ りつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じみれば、 天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、 いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。
よろこぶべきこころをお さへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろ しめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願 はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたの もしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、 いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくお ぼゆることも、煩悩の所為なり。
久遠劫よりいままで流転せる苦悩 の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養の浄土はこひしからず候 ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。
なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの 土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、こと にあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はた のもしく、往生は決定と存じ候へ。
踊躍歓喜のこころもあり、いそ ぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく 候ひなましと云々。
ここで、親鸞は、念仏しても喜びが一向に湧いてこない、と弟子に打ち明けています。
ということは、この歎異抄の時点での親鸞は、不思議な弥陀の救いにあずかっていないということになります。
この矛盾点を説明できる人がいたら解説してください。