グレゴリー・ショペンの『インド大乗仏教の虚像と断片』は、第一章から衝撃的な結論を導き出します。
そのほとんどは、『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』でも述べられていることでしたが、第1章の最後にこうあります。
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われわれは大乗がインドの外で活動した主要な動機を暴露したことになろう。
社会的な環境の中で安全に落ち着いていた既存の部派仏教グループは、移動する動機をほとんど持っていない。
インドを出て行く強い動機を持っていたのは、経済上の資源、社会的名声、及び政治的権力に、ほとんどあるいは限定された接近しか持てなかった、周辺的な者たちなのだ。
大乗仏教徒は不成功に終わった者たちなのである。
以上のような考察は、大乗の移住を説明するかもしれない。
それはまた、上座部仏教の移住をも説明するかもしれない。
両者ともその故郷では、あまりうまくやっていけなかったのであろう。
最後の皮肉は、ーインドの視点からはーもっとも重要でなく、最も不運な仏教グループ(すなわち大乗及び上座部)について、われわれはもっともよく知っているのかもしれない、ということだ。
それが少なくとも、明確な可能性なのだ。
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これによると、大乗仏教とともに、上座部仏教も、インドでは主流ではなかったため、周辺国に移住したという結論のようです。
ただ、そうはいえ、インドで主流派であった部派仏教(説一切有部とかか?)にしても、仏教全体がインドでは滅んでいきます。
大乗仏教がインドでは流行らなかったのは、第一結集によって歴史上の仏陀の仏説非仏説がはっきり分けられることを常識として認識されていたことが理由だと思います。
仏陀滅後の500年も経ってから新しい経典を作っていっても、仏教の根幹を破壊するものとして非難されたのです。
5世紀以降に、仏教が伝播されてなかった僻地で初めて大乗仏教教団が出来たのは、第一結集のことを知らない地域だったからです。
原始仏典は文字の経典として書き写されたのは、大乗仏典が作られ始めたころとそれほどちがいがなく、中国には、大乗仏典とほぼ同時に入っていきました。
中国では、インドで作られた経典はすべて釈迦の金口とされました。
大乗仏典は『小乗仏典に依るな』とか『小乗の輩は仏となる種を焼いたもの』とか、口を極めて罵っています。
大乗仏典を釈迦の直説と思った中国では、小乗などは見向きもされませんでした。
インドでは3世紀になっても大乗教団の痕跡すらありませんが、中国では3世紀には大乗仏教が社会の主流となっていきます。