高原さん、こんにちは。
石上総長という人が、自分の本の中から自分の文章を抜き書きして作ったものが『新しい領解文』です。
門主は、代々、親鸞の子孫がなるもので、実質的に運営している実力者が総長なのでしょう。門主は形式的なトップなのでしょうね。
それにしても、蓮如の言葉の代わりとして、自分の言葉を強制的に唱和させるとは、いい根性してますね。
浄土真宗内部の反発は非常に強いみたいですね。
死後の世界と輪廻転生は、仏陀の教えの根幹です。
仏陀の理法は、輪廻からの解脱ですから。
解脱までいけない人のために、死後、良きところに生まれる方法を仏陀は説きました。
善行し功徳を積むことです。
応供にたいする供養は最大級の善行でした。
人々は、死後、良きところに生まれるために、先を争って仏陀やサンガに寄進したのです。
しかし、良きところに生まれること、天界に生まれることも苦であると見抜いた人たちは、解脱を目指しました。
『この世もかの世もともに捨て去る』人たちです。
いずれにせよ、死後の世界と輪廻転生は、仏陀の教えの根幹であるのです。
ただ、仏陀の死後、特に根本分裂以降は、仏陀の真意は失われていきます。
唯物論的な仏教、断見そのものの仏教となっていくのです。
そのような部派仏教に反発して生まれたのが大乗仏教です。
ですから、大乗仏教は仏陀の真意の復興運動なのです。
しかし、その大乗仏教も、断見の方向へ傾いていきます。
『無我』としたために、どうしても断見に傾きやすくなったのです。
仏教を唯物論で捉える人がいかに多いか。
仏教学者や僧侶たちも多くは唯物論です。
『お釈迦様は死後の世界を説きませんでした。葬式は、死んだ人のためではなく生きている人のためにあるのです。皆さんの心の中に、記憶の中に、故人はいつまでも生きています。』などという説法をするお坊さんを何人も見てきました。
情けない限りです。
生きている人の記憶の中にだけあるのであれば、葬式に坊さんは要りません。
知り合い同士で思い出話をすればいいだけで、読経など要りませんし、戒名も法名も要りませんね。
仏教は哲学だという人は多いです。
仏教は心理学だという人もいます。
しかし、哲学では誰も幸せにはなりません。
よく、哲学は人間を幸せにするための学問だという人がいます。
しかし、それなら、大学の哲学科に行って哲学を専門的に学んだ人が一番幸せのはずです。
しかし、残念ながらそうではないですね。
それどころか、たぶん、哲学科に行った人が一番苦しそうです。
偏屈でプライドだけ高い傾向にあるので、社会になかなかうまく適応できない人が最も多い学科のように思えます。
仏教を哲学や心理学に過ぎないと捉える人も、別に仏教徒と自称していいとは思います。
そもそも、仏教徒にしてもヒンドゥー教徒にしても、医師や弁護士と違って名乗るのに資格が必要ではありませんから、自由にどうでも名乗ればいいことです。
ただ、死後の世界や輪廻転生を説かない仏教は、仏陀の教えの表面だけを撫でたものにしか過ぎません。
仏陀の基本は、『業=行為=kammaが五蘊を集め形作っていく。身体も環境も。』ということです。
kammaには、身業、口業、意業と3つありますが、仏陀は意業つまり思いが最も重要で大きな影響力があるとしました。それに比べ、身業と口業は些細なものとしたのです。
ジャイナ教の教祖マハーヴィラは、身業が最も重要で、口業と意業は些細なものとしました。
仏陀の教えでは、一瞬一瞬の思いがすべてを形作っていっているのであり、そこをありありと実際に感じなければ、仏陀の真意からはほど遠いと言えます。
そして、今の一瞬一瞬の思いが身体と環境、境遇を形作っていっていることが実感できれば、死後の世界や輪廻転生がまさしくあることがずしんとわかるはずです。