浄土教の起源

エドワード・コンゼの『仏教ーその教理と展開』によると、

『紀元前400年以後、バクティの運動がインドに起こり、紀元の初め頃、非常な勢力を得た。バクティとは、人間の形をした尊敬さるべき神々にたいし、信愛を込めて個人的に帰依することである。インド民衆に見られるこのバクティ的傾向は、それ以前にも長い間、仏教に影響を与え続けてきたが、紀元頃非常な勢いで仏教に流れ込んだ。』

とあります。

 

歴史上の仏陀の教えには、神仏に帰依したり、信仰したり、崇拝したり、さらにはその名前を唱えたりすることは一切ありませんでした。

 

ちょうど、紀元の初め頃、インドでは、神の名前を唱えると神の世界(天界)に生まれることができるという信仰が爆発的に流行していたと言います。

 

原始仏典に、仏陀の考えとして、神仏に帰依するという発想がどこにもない以上、やはり、浄土教はバラモン教のバクティから来たものだと言えそうです。

 

 

また、阿弥陀仏は、イランが発祥で、西インドで勢力があったゾロアスター教の太陽神ミイロがその原型という説があります。

阿弥陀仏はサンスクリット語でアミターバ(無量光)です。

ミイロは太陽神であり無限の光の神です。

そして、西方のイランが発祥です。

 

 

いずれにせよ、大乗仏教にバラモン教、またはヒンドゥー教の影響が全くないという仏教学者は一人もいないでしょう。

数珠の球数は108玉ですが、何故108なのでしょうか。

煩悩の数だと言われていますが、煩悩の数が108などという文献はありません。

後付け解釈です。

どの説を見ても、無理矢理108つにしています。

実は、シヴァ神の名前が108あるのです。

ヒンドゥー教徒は、そのシヴァ神の108の異名を唱えるために、数珠のようなもので数を確認していました。それが仏教に取り入れられたのでしょう。

さすがに、シヴァ神の名前の数だとは言えないので、他に理由をつけたのでしょう。

神の名前の数を数珠にするのはその用途がわかりますが、煩悩の数を数珠にしてどうするというのでしょう。

ひとつひとつ煩悩を確認しながら消していく瞑想をしていたのでしょうか。

誰もそのような行法をした記録がありません。

 

仏教徒は、バラモン教、またはヒンドゥー教というと反射的に排斥するほど毛嫌いしています。

しかし、歴史上の仏陀は、ヴェーダの達人と呼ばれていたのですし、最古層のスッタニパータにはバラモン教の用語が頻繁に肯定的に使われています。

 

仏陀は肉食を禁止しませんでしたが、大乗仏教では肉食禁止となったのは、ジャイナ教の影響です。

そもそもバラモン教は肉食禁止ではありませんでした。

バラモン教では、牛も生け贄として、祭りの後で皆で食べていました。

しかし、牛は牛乳を取ったり、耕作に使ったりして、極めて貴重な財物でした。

ですから、牛を生け贄として差し出す風習に反感を持っていた人は多いのです。

そして、牛を生け贄としないジャイナ教や仏教が民衆の間に人気となって行きます。

民衆の支持がなくなっていったバラモン教は、牛の生け贄禁止、肉食禁止としていきます。

バラモン教もジャイナ教の影響を強く受けていったのです。