双麻さん、はじめまして。
『仏陀の真意』を読んでいただきましてありがとうございます。
分かっていただける方がおられてとてもうれしいです。
私もずっと、双麻さんと同じような違和感を仏教に対して持っていました。
モヤモヤという感覚です。
私が仏教に興味を持ったのは、中学や高校の時でしたから、かなり長い間モヤモヤしていたことになります。
大乗仏教から原始仏教、そして上座部仏教などの部派仏教、どのジャンルのどのような仏教書を読んでも、モヤモヤ感は強くなる一方でした。
仏陀の理法がどこにあるのか、仏陀の真意は何なのか、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、大乗仏教や上座部仏教の本を読んでもモヤモヤしていました。
原始仏典を解説している仏教書も数多く出版されていますが、どれを読んでも、例えば四諦の法にしても、『これが仏陀が真髄とした四諦の法の真意なのか?』と唖然とするような解説ばかりでした。
四諦の法は、仏陀が、象の足跡という比喩を使ったほど、すべての理法を包含する理法なのです。
仏陀が命がけで修行したときに、三明の最後、漏尽智は四諦の法に依って至ったのです。
仏陀の理法の根幹が四諦の法ですが、どの仏教書の解説もどんよりして全く心に響かないものばかりでした。
十二縁起の法はもっと酷く、まともに解説してある仏教書もほとんどありませんでした。あったとしても、十二個の項目を羅列しただけでお茶を濁していました。
正直な仏教学者は、『十二縁起は順番に矛盾が生じてしまう』と書いているものもありました。
確かに、十二縁起のどの解説を見ても、大きな矛盾が出てくるのです。
十二縁起というのは、仏陀が三明によって悟った後、七日後の夜に、十二縁起を順逆観じて、疑念がすべて消滅し、悪魔の軍勢を粉砕して、天空の太陽のように輝いたのです。それほど、成道に決定的なものをもたらせた重大な瞑想法です。
仏陀の瞑想の内容そのものなのです。
しかし、それによって瞑想できるような解説はただのひとつもありませんでした。
何か、根本的なことが間違っている、そう思わざるを得ませんでした。
それで、私は、それまで構築したすべての仏教知識を白紙にして、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを探求することにしました。
現代において文献学が急速に発展してきて、歴史上の仏陀の肉声に近いものはどれかが明らかになって来ました。
あるいは、グレゴリー・ショペンのように、紀元前後のインド仏教のありのままをあかし今までの仏教史認識を一変させるような発見も相次いでいます。
私のような一般人にも良書や情報が簡単に入手できる時代になりました。
これから、仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求する人たちが増えてくると思います。
その流れはこれからの何十年かで大きなものになっていくでしょう。
私の本は、琵琶湖のような大きな湖に投じた小石のようなものでごくごく小さな波紋を生じてすぐ消えるものにしか過ぎません。
しかし、私の死後も同じように、今までの価値観や仏教概念にとらわれず、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを先入観なしで探求していく人たちはあちらこちらで出てくるでしょうね。
私などよりもっともっと優秀な人たちが独自に仏陀の真意に迫っていくでしょう。
仏陀の理法は人類の至宝です。
あの、仏陀とその直弟子の時代、仏陀の理法は活き活きとしていました。
その仏陀の理法が甦るときは近いです。
仏教史は極めて特異です。
仏陀の死後、第一結集で仏陀が語ったことは確認し決定したのに、500年も後になって歴史上の仏陀の姿も声も知らない人たちが突如新しい経典を『如是我聞』と前置きして作り始めました。
そのような大乗仏典と原始仏典がほぼ同時に漢訳され中国に入っていったので、中国ではどちらの経典も仏陀の金言だと認識して、大乗仏教が主流となりました。
大乗仏教側は部派仏教を小乗仏教と貶し、部派仏教は大乗仏教は非仏説つまり仏陀が説いたものではないと否定します。
現代でも、両者の関係はうやむやになったままです。
大乗仏教側は、自分たちの根拠を疑われる文献学を憎んでいます。
しかし、私はそれはおかしいと思っています。
文献学や考古学で歴史上の仏陀の肉声が明らかになるのは非常に喜ばしいことです。
その上で、500年も経ってなぜいきなり大乗仏典が作られていったのか、その根拠を明らかにすることによってのみ、大乗仏教の価値の全貌があらわれると思っています。
大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったと私は思っています。
そして、それは、部派仏教のあり方に強烈な不満を持った人たちによるものだったと思っています。
そのすべてがあきらかになったとき、原始仏教と大乗仏教がともに仏陀の真意を基盤にすることが理解されるのだと思います。
その時、小乗と貶す人はなくなり、大乗非仏説と否定する人もいなくなるでしょう。
その時代が来る頃には私は生きてはいないでしょうけど、これから何十年、何百年かして、そうなることでしょう。
そして、仏陀の悟りの全貌が明らかになるでしょう。
私も、今までの仏教書を読んでいたときには、仏陀の悟りはいわく言いがたいもの、言葉として表現できないもの、あるいは言葉で語ってはいけないもの、というように思っていました。
これは今の仏教が龍樹仏教だからです。
龍樹は、言葉を戯論としました。
言葉を迷妄の根元としました。
しかし、仏陀にはそういう考えはありません。
私は、仏陀が自分自身の悟りについて詳しく語っていることを知り、びっくりしました。
ちゃんと言葉で語っているのです。
何らの先入観を持たずに、直接、原始仏典に向き合うことがいかに大事か、わかりました。