檀家制度にあぐらをかく日本仏教

 高原 (121.109.220.213)    
ショーシャンクさん、ご無沙汰しております。お久しぶりです。
今回の新しい領解文の発見は、これまでずっと隠されていた文書を明らかにすることで、浄土真宗の幹部クラスの方でしょうが、あえて世に問われたんだと思います。
たいへんな混乱が起きてるようで浄土真宗の分断が起こり始めているようで、賛成派の僧には懲罰処分も下されているようで、浄土真宗のカルト教団化を危ぶむ僧の人もいて、時代がまさに変わり始めているんだと思います。
Youtubeの議論も見させて頂きましたが、「少しずつ執われの心を離れます」という新領解文が親鸞の「煩悩凡夫のままで極楽浄土に迎えて下さる」に反する言葉で「道徳と宗教は違う。
煩悩を消すというのは理想論だ。道徳の押し付けである」という声あり、浄土真宗の信者さんにとっては釈尊の教えは理想論のインチキに過ぎず、執着というものは絶対に消せないというのが不変の絶対法則のようです。
執着を消すことを最初から出来ないと諦めてる自体で、ひどく低俗で進歩のない宗教だと思います。
浄土真宗が変わろうとしているのは良いことだと思います。
というか、宗教自体というか、我々の娑婆が、確かに変わろうとしているようにも感じます。

 

高原さん、お久しぶりです。

『新しい領解文』は、浄土真宗本願寺派教団の実質的なトップの石上総長(形式上のトップは門主)が、自分の著書の中の言葉をそのまま抜き出して作ったものです。

ですから、蓮如が作った今までの領解文とは内容が全く違って、お粗末極まりないものです。

全くわかっていない、信心も獲得してない人が書いた内容ですね。

 

これも結局、日本の檀家制度でのうのうとしていた教団が腐っていたことの証明でしょう。

 

 

歴史上の仏陀は、神仏に祈ることも、神仏の名前を唱えることも、一切説きませんでした。

ですから、基本的に、私は浄土教には何の興味もありませんでした。

 

そもそも、日本仏教にははじめからサンガというものがありませんでした。

日本に仏教が伝来し、積極的に輸入していったのは、ちょうど明治維新のときに西洋文明をまるごと輸入し鹿鳴館時代が現出したようなものです。

先進国の文化、そして文明という位置づけです。

中国式の寺院を建築することによって、先進国の建築技術が取り入れられていったのです。

仏教は日本にとって、言葉の基ともなる文化そのものでしたし、同時に先進国の最先端文明でした。

僧侶はトップクラスの文化人であり、国家公務員でした。

もうここから、仏陀の仏教とは全く異質なものだと言えるでしょう。

仏教の出家とは、あらゆる仕事や地位を放棄する生き方です。

しかし、日本仏教の出家というのは、僧侶という社会ステータスのある地位に着くことであったのです。

 

インドでは、出家者が農業をはじめあらゆる生産活動に従事してはいけませんでした。

それが仏陀の定めた戒律なのです。

ひたすら修行をして仏=福田(ふくでん)=応供を目指さなければいけないのです。

修行ができ仏となった僧侶にお布施することで、在家信者は大きな功徳が得られるということでした。

ですから、仏陀の在世中は先を争って在家のものが仏陀やサンガに寄進したのです。

修行ができたお坊さんにお布施したら、良き田に種を植えるようなもので大きな収穫が得られ、徳のない坊さんにお布施をするのは、荒れ地に種を蒔くようなものでなんの収穫も得られない、というのが基本的な考えでした。

 

中国も最初は、戒律を守り、生産活動はせずにひたすら修行するスタイルでした。

しかし、出家者が膨大に増えたために、布施をもらう出家者と布施をする在家のバランスが崩れていき、出家者が布施で生活できなくなりました。

寺の運営ができなくなったのです。

そこで禅の百丈は、『一日作さざれば一日食らわず』と、それまでの戒律を180度変え、農業などの生産活動に従事することを掟としました。

 

日本では、最初から、サンガというものはなく、仏陀の定めた戒律もありませんでした。

そもそも、仏教の戒律とは、歴史上の仏陀が定めたものだけを言うのであって、それ以外は仏教の戒律ではありません。

しかし、日本では、仏陀が定めたのではない戒律を戒律としました。

基本的に文化人待遇でしたから、身分の高い人たちが僧侶となって出世することが当たり前になっており、最初から戒律など極めていい加減でした。

ある学者によると、日本の僧侶のうち、一生女犯してないのは、明恵だけだと言います。

それでも、公には、戒律遵守が大切とはなっていましたが、それさえも破壊したのが親鸞でした。

形式的でも残っていた戒律を徹底的に壊しましたし、修行も必要ないとしてしまいました。

これは、天台本覚思想のように恐るべき退廃を招きます。

もともと何でもありの日本仏教ですが、親鸞の出現によって、仏陀の影も形もなくなりました。

 

そして、江戸時代の檀家制度によって、日本仏教は見るも無惨な有り様となります。

寺から檀家へ強制的に布施や寄進を求められ、従わなければ村八分のような仕打ちをされるシステムになります。

そういう檀家制度で、寺院は経済的に恵まれてきました。

特に浄土真宗は檀家が多く、戒律は全くなく、坊さんがいくら煩悩まみれでもいいのですから、やりたい放題です。

修行は必要ないどころか、修行をやってはいけないのです。

檀家からの布施で愛人を囲ってる坊さんもリアルで複数知っています。

熱心な浄土真宗の門徒がかわいそうです。そこは一家で自営ですが本当に真面目に休まず働いています。

そのお金をことあるごとに奪っていくだけの役がそのお寺です。

戒律は破壊しつくし、修行は全くせず、信心も獲得してないのでろくな法話もできず、それでも檀家制度に寄生しているだけで、お布施で裕福に暮らせます。

これ、社会に必要ですか?

 

このような檀家制度はもうじき崩壊します。

日本の寺院の数は今の3分の1になるでしょう。

 

今回の、『新しい領解文』問題で、教団トップの横暴が明るみになりましたから、特に浄土真宗は激減していくと思います。

 

 

今回、私はさまざまな浄土真宗の動画を見て、その教えを見直す部分もありました。

動画を見ると、あの無学の妙好人たちも皆ひたすら聴聞を重ねたようです。

他人の何倍も聴聞を重ねて、これ以上聞けないというほどに聴聞したようです。

私のイメージでは、無学で素直な人が教学もわからず、ただ阿弥陀を信じればいいと思ってすぐに妙好人になれたと思っていました。

 

教学も深いものがあり、それがわかったのは今回とても良かったと思っています。

 

蓮如の凄さが今回わかりました。

坊主のくせに結婚を5回もして、80代で20代の女性を妻にするなど、うさんくさい奴だと思っていましたが、文章を追って見ると、零細の貧乏教団を何十年かで全国的な大教団にした、その理由がわかります。

 

信心獲得を最重要とし、聴聞を最優先にしました。

 

大乗仏教には修行法がなく、宗祖たちは、座禅や称名念仏や唱題をもって自らの宗派の修行法としたのですが、大乗仏典例えば法華経では修行法は法華経を受持、読、誦、解説、書写の5つです。

聴聞を最重要にしたのはかなり参考になりました。