浄土真宗本願寺派において、江戸時代の三業惑乱以来の大騒動になっているのが、『新しい領解文』問題です。
【領解文】
もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。
たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。
この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。
このうへは定めおかせらるる
【新しい領解文】
南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身をまかす このままで
救い取られる 自然の浄土
仏恩報謝の お念仏
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです
み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます
生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます
さて、私は、浄土真宗の門外漢もいいところの外野ですが、岡目八目とも言いますので、外野からの感想を。
領解文は蓮如の作です。
さすがに、蓮如の文章には、無駄がなく、真髄を凝縮していますね。
それに比べ、『新しい領解文』は支離滅裂です。
『私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声』
これは、明らかに天台本覚思想ですね。
私は、鎌倉仏教は天台本覚思想を土台にできたと思っていますが、しかし、それを超克していないとそのまま天台本覚思想となります。
煩悩即菩提と因果倶時は、本覚思想から来たものですので、そのままでは、恐るべき邪見となります。
たぶん、このままだと本覚思想となってしまうので、
『み教えを依りどころに生きる者 となり 少しずつ 執われの心を 離れます』
という文章があるのでしょう。
しかし、『少しずつ 執われの心を 離れます』というのは、完全に、『私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声』と矛盾します。
『執われの心』というのは、煩悩のことです。
煩悩そのままに救うのではなかったのでしょうか。
そして、『少しずつ 執われの心を 離れます』というのであれば、信心獲得はどうなるのでしょうか。
『たのむ一念』のとき、信の一念のとき、つまり信心をいただいたとき、信心を獲得したとき、煩悩そのままで救われるというのが親鸞そして蓮如の教えのはずです。
少しずつ煩悩をなくしていくというのは自力の行ということでしょう。
これに対して、本願寺派の人たちはどう思っているのでしょうか。