ある、親鸞系の人のYouTubeを見ていて、疑問に思ったことを書いておきます。
その人は無量寿経などの浄土三部経を、仏陀の出世の本懐だとし、最高最深だとします。
それはいいのです。
大乗仏教の場合、不立文字を標榜する禅宗以外は所依の経典を立てます。
そして、その経典が、最高最深であるとします。
華厳宗では華厳経、天台宗や日蓮宗では法華経、真言宗では大日経、が最高だとそれぞれの宗派で主張します。
それはそれでいいと思いますし、その解説に納得できる部分も多いです。
ただ、浄土系のYouTubeを見ていて、論理的に疑問に思いました。
その動画では、『法華経は難解難入の教えでほとんど誰も実行できない。ゆえに、法華経の中に「法華経を信受できない人には如来の余の深法で導きなさい」とある。これは、すべての人が救われる教えで深法である無量寿経に導いているのだ。』と解説していました。
なかなか面白い解説です。
もちろん、この人は大乗仏典はすべて仏陀が説いたものだという前提に立っています。
その上で、あまりにも難しすぎてほとんど誰も救われない法華経は、簡単で誰でも出来すべての人が救われる教えである無量寿経に導くための経典だと解説していました。
難解難入の法華経と違い、すべての人が理解できすべての人が救われる無量寿経が仏陀の出世の本懐なのだということです。
ここで大きな疑問が沸きます。
そうであれば、なぜ仏陀は、最初から最後まで無量寿経(浄土教)のみを説かなかったのでしょうか。
すべての人が簡単に救われる教えがあるのであれば、わざわざ、ほとんど誰も救われない難解な教えなど説く意味がありません。
この論理的な矛盾はどう解説するのか、聞いてみたいものです。
ちなみに法然は、このような矛盾に満ちたことは言っていません。
法然の考えでは、末法の娑婆世界は苦渋に満ち修行できる場ではなく、まずこの世では、称名念仏をして極楽浄土に往生することに専念し、極楽浄土に生まれてから成仏を目指して修行するということになっています。
しかし、親鸞では、極楽浄土と成仏がほぼ同じように捉えられており、つまり易行により究極の成仏まで行くとされます。
それであれば、なぜお釈迦様は、これのみを説かなかったのでしょうか。
難しくて効果もないものをわざわざ説いたというのは論理的な矛盾です。
誰でもできて簡単だから正しい、という論理は、TVショッピングを思い出させます。
「ダイエットしたいあなたに。
痩せたいからって、食欲を我慢したり、きつい運動を毎日するのは誰もできませんよね?
そこで、1日1粒これさえ飲めば、誰でも簡単にすぐに痩せられます。」
というような論理です。
このYouTube動画では、煩悩を断つことなどできないと仏陀は知っていたのだが、それがわかっても、やらせてみないとわからないから聖道仏教を説いたそうです。
肉食妻帯も悪人正機も、仏教の真髄だそうです。
それなら何故、仏陀は妻帯をやめ、弟子にも妻帯を禁止したのでしょうか。
悪人正機なら何故、仏陀は不善法を断ち善法を勧めたのでしょうか。
聞けば聞くほど矛盾点が見つかります。
もう、無理矢理に、歴史上の仏陀が浄土門を説いたというような結論にするのは、やめた方がいいと思います。
部派仏教に批判的な人たちが、バラモン教のバクティの教えに影響を受けて、それを仏教に取り入れたのが真実でしょう。
それはそれでいいと思います。
無理矢理に歴史上の仏陀が浄土教を究極の教えとして説いた、などということを証明したいのであれば、原始仏典のどこに阿弥陀仏が出てくるのか、どこに神仏を信仰し拝むという考えが出てくるのか、示してほしいものです。