難の中の難

原始仏教や聖道門は難行で誰も救われない教えで、親鸞の教えつまり浄土真宗は易行道、容易く救われる道ということばかり売り物にしている人がいました。

私は、法然の教えは易行道だけど親鸞の教えは法然の教えを難中の難にしたと思ってきました。

最近、いろいろ浄土真宗本願寺派の動画などを見ていると、その直感は正しかったと思えます。

 

浄土真宗では、悟り、救われることを、信心獲得というそうです。

信心獲得するためには、とにかくお坊さんの話を聴聞することに尽きるようです。

話を聞くだけでよいとはまさしく容易い道のように思えます。

しかしながら、蓮如は、大勢の信徒にこう言ったそうです。

『この中に、信心を得た者が何人いるだろうか。一人か二人いるであろうか。』

集まっていた大勢の信徒たちは肝を潰したということです。

あの蓮如の話を常日頃聴聞している信徒たちもほとんど信心獲得できていないのです。蓮如以下のお坊さんの聴聞ではなおさら難しいでしょう。

無量寿経に『難の中の難』と書かれているようです。

 

石見の才市という最も有名な妙好人でさえ、聴聞に聴聞を重ねてもどうしても信心をいただけないということで非常に苦労したようです。

才市は、『いくら聞いても聞いても信心いただけん。もうやめた。』と言って、仏壇を2ヶ月間閉じた時期があったということです。

本物の妙好人は誰も皆、どんなに聴聞しても信心をいただけず大きな苦難の時期を経ているようです。

 

浄土真宗以外は難行で誰も救われなく、浄土真宗だけは容易く誰もが救われる、自分も何もしなかったが棚からぼた餅みたいに容易く救われた、とばかり言っている人が、あまりにもうさんくさく思えてきます。

 

本当の浄土真宗の教えは真剣なものだということがわかって今回よかったと思っています。

 


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浄土門特に浄土真宗については先入観でかなり馬鹿にしていましたが、碩学の講演を聞いていると、極めて高度な教えであることがわかりました。

動画を幾つとなく見ましたが、三願転入などの教理にしても面白く聞くことができました。

しかし、このような高度な教えが、多額のお布施で愛人を囲っている浄土真宗の坊さんにどれだけわかっているのか、疑問ではあります。

 

また、蓮如の言葉を読んでみると、本当に真摯な人格、教えというのがわかります。

ヤフー掲示板やマニカナで荒らしまくっていた浄土真宗の寺の息子のイメージから、あまりにも浄土真宗のイメージを悪くしていたことがわかりました。

 

蓮如はこのような言葉を言っているようです。

 

 蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

 

自分だけがと思いあがって、自分一人のさとりで満足するような心でいるのは情ないことである。

信心を得て阿弥陀仏のお慈悲をいただいたからには、自分だけがと思いあがる心などあるはずがない。

阿弥陀仏の誓いには、光明に触れたものの身も心もやわらげるとあるのだから、信心を得たものは、おのずとおだやかな心になるはずである

 

仏法について少しでも語るものは、みな自分こそが正しいと思って話をしている。

けれども、信心をいただいたからには、自分は罪深いものであると思い、仏恩報謝であると思って、ありがたさのあまりに人に話をするものなのである

 

 

阿部さんという人の動画と比べ、今まで見てきたのは次のようなものばかりだったので、浄土真宗の教え自体、大したことないと思い込んでいたようです。


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この人は、質問に真正面から答えていませんね。

『なぜ浄土真宗の坊さんは修行をしないのか?』という質問です。

その答えとして、浄土真宗は在家仏教だから。ということでした。

なら何故、その在家仏教に出家であるお坊さんがいるのか、ということです。

信者の布施に頼らずに、自分の力でお金を稼ぐのが『在家』です。

今までこのようなくだらない話しか浄土真宗の坊さんからは聞いたことがなく、阿部さんのように教えの核心を語る話がなかったので、私の中で評価が低かったということです。

仏陀は、修行をして福田になり供養に相応しい者つまり応供=仏を目指すから供養を受ける資格があるという考えでした。

戒律も守らず修行もしない、しかし布施だけはたんまり搾取するというのは、やらずぼったくりということです。

逆に言えば、在家だというのであれば、お金をもらうときはその金額と同価値のサービスなり商品なりと提供しなくてはいけません。

話をするのが浄土真宗の坊さんが提供するサービスなのであれば、例えば一万円の布施をもらうときには、一万円の価値のある話を提供する必要があるのです。

しかし、そんな価値のある話をする坊さんはいません。

面白さでは落語家の話の方が何倍も面白いのです。

在家とごまかすほうがハードル上がります。

 

そもそも、浄土真宗の教えでは、信心獲得してない者の話をいくら聴いても意味ありません。

では、浄土真宗の坊さんに信心獲得している人はどのくらいいるでしょうか。

ほとんどいないと言えるでしょう。

何故言えるかと言えば、蓮如の話を直接聴いている大勢の信徒でも、信心を得ている人は一人か二人いるかどうかだと蓮如は言っているからです。

蓮如のような人がいない現在では、信心を得られている確率は極めて低いと言えるでしょう。

 

とすれば、信心も獲得してない、修行もしない、戒律も破り放題、大した話もできない、というような坊さんばかりが、日本の檀家制度のおかげでぬくぬく暮らせるという図式なのです。

しかし、それも、もうじき終わります。

日本の寺院はかなり厳しいことになっていくでしょう。

寺院に限らず、宗教団体すべてから信者が減っていくでしょう。

宗教団体はすべて、精神の牢獄だと言うことがわかってくるでしょうから。

牢獄なのに、お金もむしりとられます。

馬鹿馬鹿しいにも程があります。

 

知り合いに家族揃って熱心な浄土真宗の信徒さんがいます。

そこのお寺の住職は、ことあるごとにいろいろお金を出させるようです。

今回も、お寺の本堂で歌手かバンドを呼んできてミニコンサートのようなことをするので、1枚3500円のチケットを5枚買わされたらしいです。

仕方ないのでお付き合いで買ったと言っていました。

当日、家族の誰も行かなかったようです。素人の音楽会にわざわざ行く気もなかったのです。

つまり2万円近くが半強制的なお布施ということです。

そこの住職は隣県の繁華街でクラブのママをしている女性を愛人にしているとのことで、そちらにお金がかなり要るのだろうと言っていました。

お母さんが取り分け熱心なのですが、お父さんはお寺を替えたいと言っているそうです。

 

信心獲得しているお坊さんが果たして、信徒からのお布施を愛人手当てに注ぎ込んで恥じないということがあるでしょうか。

煩悩即菩提を都合よく使うのが日本仏教ですが、その檀家も必死で仕事して稼いだお金をお布施しているのです。

愛人を囲いたいなら檀家のお布施に頼らず、自分で稼いだお金でするべきでしょうね。

こういう事例はどこの浄土真宗のお寺でもあるでしょう。

熱心な信者たちが汗水たらして稼いだお金をお布施してもらい、愛人手当てに使うというこの図式は社会の害悪だと思います。

日本の檀家制度はなくならないものかと思いますね。

宗教は純粋に個人のことであり、家に属するものではないのです。