遠佐さん、こんにちは。
良寛の住む新潟で1500人以上の死者を出す地震がありました。
そのとき、その地震で子供を亡くしてしまった山田杜皐に手紙を書きます。
「地震は信に大変に候。野僧草庵は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」
これが書き出しです。
地震は大変だよね、でも、自分の住居には何ごともなく、自分の親類にも死んだひとがなかったのでめでたいことだと思っている。
と言う意味です。
子供を亡くした人に対して、自分のほうは全員無事だったのでめでたい、と書き送る感性が理解できません。
私ならもし同じことを書き送るのでも、『自分の住居や親類は何ごともなかったですが、地震は本当に大変なことだと思います。』と書いて、『めでたい』と言う言葉は絶対に使わないでしょう。
そして、その後、
災難に逢う時節には災難に逢うがよく候
死ぬ時節には死ぬがよく候
これはこれ災難をのがるる妙法にて候
と言う言葉が出てきます。
この意味については、いろいろな捉え方があるでしょう。
遠佐さんが言われるように、災難を試練と捉えて乗り越えよう、という意味ととらえるのが一般的かもしれません。
私はたぶん良寛はこういう意味で言ったと思っています。
いまで言えば、ワンネス、ノンデュアリティの人が言っている意味です。
災難はあっても災難に遭う『人』はいない
死ぬ『人』はいない
『私』というものがない以上、災難に遭う『私』もないし、死ぬ『私』もない。
このように『私』などないと見極めるのが、災難を逃れる妙法にて候。
つまり
災難に遭って、苦しみ、嘆き悲しみ、その災難を避けようとする『人』などいないということを見極め、
災難と見えていることもただ起こっているだけと見極めなさい、それを避けようとするのは自我の働きだ、と。
このようなことだろうと思います。
そして、それはある一面の悟りではあると思います。
悟りではあるのですが、一面にしか過ぎない。
悟りには、それ以上つまり、向上、があると考えます。
災難が起きていることをあきらめたり、災難を容認するのではなく
我此土安穏としていく働きがなければ、空一辺倒の虚無主義に留まります。