中部経典『小サッチャカ経』                                                                                                                                                                                                                                                  

中部経典の第35は、『小サッチャカ経』です。

 

サッチャカとは人の名前です。

ジャイナ教徒で、議論を好み、賢者を自称し、多くの人に善人と認められていた人のようです。

議論において自信満々な人であったようです。

 

仏陀が

 

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

と言うことを説いていると聞き、

論破してやろうと企みます。

 

そして、仏陀と会った時に

『識は私の我である。受は私の我である。想は私の我である。もろもろの行は私の我である。識は私の我である。』という、仏陀とは正反対の説をぶつけます。

 

仏陀は言います。

『王は自己の領土において、殺すべき者を殺したり、追放すべき者を追放したりする力を行使できます。』

『あなたは〈色は私の我である〉と言いましたが、その色に対して〈私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。〉というように力を行使するのか?』

 

これにより、サッチャカは黙ってしまいます。

 

そして

色は無常である

受は無常である

想は無常である

もろもろの行は無常である

識は無常である

 

色は無我である

受は無我である

想は無我である

もろもろの行は無我である

識は無我である

一切の行は無常である

一切の行は無我である

 

ということに同意します。

 

仏陀はさらに、サッチャカにこう言います。

 

私の弟子は、

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなるもろもろの行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見ます。

 

私の弟子はこれだけをもって、教えに従う者となり、疑いを渡りきる者、自身を得る者、他に依存しない者として師の教えに住んでいます。

 

 いかなる色も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる受も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる想も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる行も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 いかなる識も、過去・未来・現在の、内部であれ外部のものであれ、粗大なものであれ微細なものであれ、劣ったものであれ勝れたものであれ、遠くにおいてであれ近くにおいてであれ、そのすべてを〈これは私のものではない、これは私ではない、これは私の我ではない〉と、このように如実に、正しく、慧をもって見、執着せず、解脱する者になります。

 

 

比丘は、これだけをもって、阿羅漢であり、煩悩が尽き、住み終え、なすべき事をなし、負担を下ろし、自己の目的に達し、生存の束縛を断ち、正しく知って、解脱する者になります。 

 

 

この『小サッチャカ経』で大変重要なのは、五蘊非我を観ずるだけで解脱し阿羅漢になれると断言していることです。

 

四念処を涅槃に至る一乗道と言った仏陀ですが、五蘊非我も涅槃に至る道ということです。

実は、四念処も五蘊非我もほとんど同じと考えていいでしょう。