『人生についてのひとりごと』
https://shawshank-blog.hatenablog.jp/
『今まで絶対に書けなかったこと』
https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/
『株についてのひとりごと』
https://shawshank-blog.hatenadiary.com/
『法律についてのひとりごと』
『人生についてのひとりごと』
https://shawshank-blog.hatenablog.jp/
『今まで絶対に書けなかったこと』
https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/
『株についてのひとりごと』
https://shawshank-blog.hatenadiary.com/
『法律についてのひとりごと』
中部経典『布喩経』には、歴史上の仏陀の教説を理解するために非常に重要な鍵が多くあるように思えます。
特に、三宝や五根・五力、七覚支、そして四無量心の関係が解読できるので、本当に貴重な経だと思います。
五根・五力は
信⇒精進⇒念⇒定⇒慧
です。
いわゆる信仰を説かなかったのが仏陀ですので、五根・五力の最初に『信』がきていることに違和感がありました。
『布喩経』によると、欲張り、物ほしがり、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉み、吝嗇、偽り騙し、裏切り、頑なさ、性急さ、驕り、怠慢、これらの心の汚れを捨離していけば(心の浄化)
①仏陀に対して絶対の信を持つに至る。
②仏陀の説く法に対して絶対の信を持つに至る。
③サンガに対して絶対の信を持つに至る。(仏法僧の三宝帰依)
すると、法にともなって、歓喜が湧いてくる。歓喜する者には喜悦が湧いてくる。喜ぶものは身体が軽安となる。軽安となれば楽しみを受ける。楽しみを受けたものは自然と定が生じる。(七覚支のうち、喜⇒軽安⇒定)
そうなったときに、智慧を生じる。(五力・五根の慧)
そのとき、彼は、
慈しみにつながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。
悲 につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。
喜 につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。
捨 につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。
(四無量心)
これこそ感覚の世界からの出離である。
そのように知る時、
欲望の惑わしから心が解脱し
存在の惑わしから心が解脱し
無智の惑わしから心が自由となって
彼はみずから自由であるとの自覚を生じ
『わが迷いの生はすでに尽きた』と知るに至る。
(解脱)
この経により、三十七菩提分法がすべてつながりました。
そして、後世には色界の最下層の境地として、解脱までには至らないとされた四無量心が、慧であり、解脱に至るとされていたことがわかりました。
あるブログにこういう文章がありました。禅やノンデュアリティに関して書いてありましたので挙げてみます。
✳✳✳✳✳
今流行のノンデュアリティ(非二元論)。
らくちんこ道♡じゅんころさんや溝口あゆかさんなどのお話を聞いていると、全ての事象が「起こることが、ただ起こっている」ということに集約されるようだ。
確かに「起こっている」といわれればその通りな訳で、「以上終わり!」なのだが、要はこれに対してその個人が本当に腑に落ち納得できるのかが問題なのである。
3次元的な考え方だと、「その境地に達するにはどうすれば良いか?」という方法論を求めたくなるところだが、起こることと起こらないことが起こることは誰もコントロール出来ないようで、これだとノンデュアリティを語る先生達のお話を直接聞いて学んで理解しようとすることは無意味になる(皆さん魅力的でお話は面白いけど…)。
半年前ぐらいに読んだブログに「全ては自分の考えである。自分が捕まえている考えをひたすら観察自覚し手放すことが悟りや覚醒や解脱や涅槃への道である」みたいなことが書いてあり、悟りの階梯が詳しく説明されていた。
しかし、「全ては自分の考えである。」と答えが出ているのであれば「以上終わり!」で、悟りや覚醒や解脱や涅槃などの階梯もその人がつくった考えなのだから、ひたすら自己を観察自覚し手放し続けても更に先の真理が現れてくることはないと思う。
私の知人で、若い時に悟る事を目指し瞑想や禅などの修行を一時期集中徹底して行った結果、頓悟(段階を踏まずに一気に悟る事)してしまった方がいる。
禅などでは「人の悩みは過去の後悔と未来への不安がほとんどだから、“いまここ”に生きることが出来れば悩みはなくなって楽になる」ようなことが語られる。
しかし、彼は頓悟して正に“いまここ”だけになった結果に実生活が出来なくなり、社会復帰するのに10年以上も掛かってしまった。
この3次元世界で普通の生活を送るためには、過去の経験から現状認識して未来への予想を立てることによって成立するのだから、常に“いまここ”だけになったら生活は出来ないのは当たり前だと思った。
彼は言う「実は、悟った人は脳が壊れているんですよ!」
それを聞いて「ああ成程ね・・・脳が壊れているのなら、彼らの境地を普通の人が理解できないのはわかる」と納得してしまった。
まあ、伝統があるお寺とかで経験がある先生だったら、人の上手な壊し方を知っているのだと思う。
覚醒した後に講演会を開いたり本を書いたり出来る人は、たまたま巧い具合に壊れただけで、そのまま狂ってしまった人も多くいるのかもしれない。
彼からは「瞑想とか座禅とか気軽に行う人が多いけど、壊れる時は一瞬だから森坂さんも気を付けてくださいね!!」と念を押された。
少し前に東京に住む別の友人に連絡を取ったところ、彼は先日ノンデュアリティのアイドル(?)大和田菜穂さんの講演会に知人に誘われて行ったと言っていた。
彼は若い時インドでグルの元で熱心に修業し、いわゆるワンネス体験やいくつかのシッディ(超能力)も使えるようになったのだが、帰国して暫く経ったら見事に競争好きの相対界の普通の人に戻ってしまったようだ。
講演会の感想を聞いたところ、「〝ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ……”ばかりで質問者と噛み合っていなかったのが面白かったけど、まぁそれだけ……でした」と言っていた。
大和田さんのことは、スピリチュアル界では悟った人と同様に語られる事が多いようだが、覚醒し悟った後に講演会等で商売熱心になることも「ただ起きているだけ」なのが何とも奇妙で面白いと思う。
✳✳✳✳✳
出典は忘れましたが、ずっと前に、ある禅師が『社会人の人は、あまり禅を熱心にしないほうがいいと思います。リクレーションくらいのつもりがいいでしょう。』と言っているのを読んだことがあります。
その時はその意味が分かりませんでしたが、やはり経験上、現実遊離してしまう人が多かったのだと思います。
『自由意思はない』などと主張するノンデュアリティは禅よりももっと現実から遊離していますし、人間にとって最も大切である意思や主体を失わせていってしまいます。
上のブログの文章は4年前くらいで、そのころはノンデュアリティが流行っていたのでしょうけど、いまはそうでもないようです。ノンデュアリティのYouTubeの多くにはコメントができないようになっています。多分、どの動画も批判のコメントが殺到したのだと思います。
『ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ』、これは非常に危険なメッセージです。
私は、このアドヴァイタの元祖であるシャンカラはよく知っていますからアドヴァイタの真髄はわかっていますし、シャンカラは好きな覚者の一人です。
シャンカラはワンネスを徹底した人ですが、多様性を説明するのに、『錯覚』と『付託』という概念を用います。
シャンカラは深く洞察した覚者ですが、その表面だけを借りてきて極めて浅薄な理論を展開しているのが現代のノンデュアリティだと思います。
大乗仏教に長年親しんできた私が、いったん仏教なるものの常識をすべて白紙にして、最古層のパーリ語仏典から『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』だけを突き詰めてきました。
積もりに積もった仏教の知識、常識を捨てることは抵抗もありましたが、そのアプローチをして本当に良かったです。
私は、大乗仏教にも上座部仏教(いわゆる小乗仏教)も仏陀の真意とはかけ離れているという直感がありましたが、突き詰めていくと本当にそれを確信しました。
四諦も十二縁起も八正道も四念処も七覚支もつまり三十七菩提分法も戒律も、今までに解釈されていたものとは全く違いました。
最も大事なこと、記憶データの消去、つまり浄化とか懺悔といわれるものが仏教の核からすっぽり抜け落ちていました。
これではどんなに坐禅しても瞑想しても念仏しても、絶対に無量には行き着かない。
記憶の束に気づきそれが苦であることに気づかなければ、精神の変革など絶対にできないのです。
例えば、私の好きな仏教者に法然がいます。ある日、泥棒を生業としている男が法然の説法を聞いていたく感激しその場で法然の信者になりました。法然の影響力は非常に大きいと言えるでしょう。しかし、この話には続きがあります。法然に弟子入りしたその泥棒は死ぬまで泥棒をやめることはできなかったのです。念仏の熱心な信者にはなりましたが、泥棒は続けていました。何も変わらなかったのです。
禅の盤珪も優しい人でした。自分は死ぬ思いをして厳しい修行をしましたが、悟ってからは『不生の仏心でござれ』と非常に易しい言葉で説き続けました。確かにその説法を聞いたときには感激するでしょうけど、しかし誰も何も変わらない。
玉城康四郎氏がいうように、何度見性し、印可を受け、数多くの公案を通っても、いつも数日で元の木阿弥に戻ったといいます。
何が抜けているのか、これは本当に謎でした。
仏陀は『教師に握り拳はない』といいました。
すべては秘密にされることもなく後世に伝えられているはずです。
なぜ仏陀は、四念処を一乗道と呼んだのか。
なぜ仏陀は、八正道を過去のすべての覚者が辿った古城に至る古道と呼んだのか。
菩提樹下での目覚めの詩偈でなぜ『縁の滅を知って疑いが消滅した』と言ったのか。
『矢』とは何か。
『激流』とは何か。
そして『十二縁起』とは何か。
それらのことがはっきりとわかりました。
誰一人理解してくれなくてもそれはそれでいいのです。仏陀の真意はこれだという確信が強くなってきましたので、遅れに遅れている自費出版に取り掛かります。
映画『レディ イン ザ ウォーター』にあるように、生きているうちは誰も読まない本であっても物質として残しておけば死んで何十年か後に誰かが見る可能性もあるので。
相応部経典第3篇「四つの専念の確立」に関する集成第1章第10節にこうありました。
『四つの専念の確立(四念処)に心をつなぎとめている者には、前後の広大な階梯についての知識が期待される。』として
『身体において、身体を観察しているが、対象としての身体を持っている。身体に対する執着を持っている。心の退縮がある。あるいは、心を外に放つ。』
『アーナンダよ。その修行者は、浄心を起こすべき何かに心を置くべきである。彼が、浄心を起こすべき何かに心を置けば、喜びが生じる。喜びが生じると、喜悦が生じる。心が喜ぶと、身体が軽くなる。軽い身体は安楽を感じる。安楽から、心が安定する。』
『彼はこのように深慮する。「わたしは、わたしが心に置いたものは、その目的を獲得した。さあ。ここで、それを心から取り去ろう」』
これは大変なことに気がつきました。
四念処と七覚支は合わせて説明されていることが非常に多く、
そのため七覚支の「念」が四念処であることはわかっていました。
七覚支は
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
です。
念は四念処、精進は四正勤ですから
四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
となります。
私は今まで、七覚支の最後「捨」は四無量心の「捨」だと思っていました。
パーリ語も同じupekkha です。
しかし、相応部経典のこの箇所からは、
四念処⇒心に何かを置く⇒喜悦が生じる⇒身体が軽くなる⇒安楽を感じる⇒心が安定する⇒心に置いたものを心から取り去る
という流れであることが分かります。
つまり
択法とは、心に何か置くということ、真理の観念を選択しその真理を心に置くこと、なのです。
軽安は、文字通り、身体が軽くなり安楽を感じること。
定は心が安定すること。
そして、捨は、心に置いたものを捨てることだったのです。
浄心を起こすべき何かに心を置くべきであること
定に至ったら、つまり目的を獲得したら、それを捨てること
これは『筏』の考え方ですね。
ダンマパダ283にこうあります。
一つの樹を伐るのではなくて、林を伐れ。
危険は林から生じる。
林とその下生えとを切って、林から脱れた者となれ。
修行者らよ。
これは非常に重要な言葉です。
ここに仏陀の教説を解くカギがあります。
『一つの樹』とは何でしょうか。
『林』とは何でしょうか。
『下生え』とは何でしょうか。
『林』というのが『樹』の集合体であることは確かです。
この文章は、林とその下生えを伐らなければ一つの樹を伐っても意味がないということです。
一つの樹を伐っても、林とその下生えからまた樹は生えてくるのです。
『一つの樹』とは、一つ一つの想念、思考、思い。
『林と下生え』とは、私という中心を形成している記憶の束、思考の束、観念の束のことです。
坐禅などで、ひとつひとつの思考を切っていったとして、その果てに無思考な状態が現れたとします。思考がないので限定もなく自由な感覚です。
しかし、一時的に思考がなくなっても、思考はどうしても日常生活をしていくには必要なものですから、坐禅をやめて日常生活に戻ったら途端に思考が湧いて出ます。
玉城康四郎氏がその著作の中で言っているように、何度見性しても印可をいくら受けても『数日で元の木阿弥に戻った』ということです。
それは一つ一つの樹を伐っていただけで、その根本である『林と下生え』はそのままだからです。
ゆえに『林と下生え』を切る方法が必要となります。
それは『ただ見る』だけでも、『ただ気づく』だけでも、『林と下生え』を根本から壊すことはできないと思います。