中部経典『布喩経』

中部経典『布喩経』には、歴史上の仏陀の教説を理解するために非常に重要な鍵が多くあるように思えます。

特に、三宝や五根・五力、七覚支、そして四無量心の関係が解読できるので、本当に貴重な経だと思います。

 

五根・五力は

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

いわゆる信仰を説かなかったのが仏陀ですので、五根・五力の最初に『信』がきていることに違和感がありました。

 

『布喩経』によると、欲張り、物ほしがり、悪意、怒り、妬み、偽善、冷酷、嫉み、吝嗇、偽り騙し、裏切り、頑なさ、性急さ、驕り、怠慢、これらの心の汚れを捨離していけば(心の浄化

 

仏陀に対して絶対の信を持つに至る。

仏陀の説く法に対して絶対の信を持つに至る。

③サンガに対して絶対の信を持つに至る。(仏法僧の三宝帰依

 

すると、法にともなって、歓喜が湧いてくる。歓喜する者には喜悦が湧いてくる。喜ぶものは身体が軽安となる。軽安となれば楽しみを受ける。楽しみを受けたものは自然と定が生じる。(七覚支のうち、喜⇒軽安⇒定

 

そうなったときに、智慧を生じる。(五力・五根の

 

そのとき、彼は、

慈しみにつながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

悲  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

喜  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

捨  につながる心をもって、あまねく一切を覆うて住する。

       (四無量心

 

これこそ感覚の世界からの出離である。

そのように知る時、

欲望の惑わしから心が解脱し

存在の惑わしから心が解脱し

無智の惑わしから心が自由となって

彼はみずから自由であるとの自覚を生じ

『わが迷いの生はすでに尽きた』と知るに至る。

        (解脱

 

この経により、三十七菩提分法がすべてつながりました。

そして、後世には色界の最下層の境地として、解脱までには至らないとされた四無量心が、慧であり、解脱に至るとされていたことがわかりました。

 

現実遊離が悟り?

あるブログにこういう文章がありました。禅やノンデュアリティに関して書いてありましたので挙げてみます。

 

✳✳✳✳✳

今流行のノンデュアリティ(非二元論)。

らくちんこ道♡じゅんころさんや溝口あゆかさんなどのお話を聞いていると、全ての事象が「起こることが、ただ起こっている」ということに集約されるようだ。

確かに「起こっている」といわれればその通りな訳で、「以上終わり!」なのだが、要はこれに対してその個人が本当に腑に落ち納得できるのかが問題なのである。

3次元的な考え方だと、「その境地に達するにはどうすれば良いか?」という方法論を求めたくなるところだが、起こることと起こらないことが起こることは誰もコントロール出来ないようで、これだとノンデュアリティを語る先生達のお話を直接聞いて学んで理解しようとすることは無意味になる(皆さん魅力的でお話は面白いけど…)。

半年前ぐらいに読んだブログに「全ては自分の考えである。自分が捕まえている考えをひたすら観察自覚し手放すことが悟りや覚醒や解脱や涅槃への道である」みたいなことが書いてあり、悟りの階梯が詳しく説明されていた。

しかし、「全ては自分の考えである。」と答えが出ているのであれば「以上終わり!」で、悟りや覚醒や解脱や涅槃などの階梯もその人がつくった考えなのだから、ひたすら自己を観察自覚し手放し続けても更に先の真理が現れてくることはないと思う。


私の知人で、若い時に悟る事を目指し瞑想や禅などの修行を一時期集中徹底して行った結果、頓悟(段階を踏まずに一気に悟る事)してしまった方がいる。

禅などでは「人の悩みは過去の後悔と未来への不安がほとんどだから、“いまここ”に生きることが出来れば悩みはなくなって楽になる」ようなことが語られる。

しかし、彼は頓悟して正に“いまここ”だけになった結果に実生活が出来なくなり、社会復帰するのに10年以上も掛かってしまった。

この3次元世界で普通の生活を送るためには、過去の経験から現状認識して未来への予想を立てることによって成立するのだから、常に“いまここ”だけになったら生活は出来ないのは当たり前だと思った。

彼は言う「実は、悟った人は脳が壊れているんですよ!」

それを聞いて「ああ成程ね・・・脳が壊れているのなら、彼らの境地を普通の人が理解できないのはわかる」と納得してしまった。

まあ、伝統があるお寺とかで経験がある先生だったら、人の上手な壊し方を知っているのだと思う。
覚醒した後に講演会を開いたり本を書いたり出来る人は、たまたま巧い具合に壊れただけで、そのまま狂ってしまった人も多くいるのかもしれない。

彼からは「瞑想とか座禅とか気軽に行う人が多いけど、壊れる時は一瞬だから森坂さんも気を付けてくださいね!!」と念を押された。


少し前に東京に住む別の友人に連絡を取ったところ、彼は先日ノンデュアリティのアイドル(?)大和田菜穂さんの講演会に知人に誘われて行ったと言っていた。

彼は若い時インドでグルの元で熱心に修業し、いわゆるワンネス体験やいくつかのシッディ(超能力)も使えるようになったのだが、帰国して暫く経ったら見事に競争好きの相対界の普通の人に戻ってしまったようだ。

講演会の感想を聞いたところ、「〝ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ……”ばかりで質問者と噛み合っていなかったのが面白かったけど、まぁそれだけ……でした」と言っていた。

大和田さんのことは、スピリチュアル界では悟った人と同様に語られる事が多いようだが、覚醒し悟った後に講演会等で商売熱心になることも「ただ起きているだけ」なのが何とも奇妙で面白いと思う。

✳✳✳✳✳

 

出典は忘れましたが、ずっと前に、ある禅師が『社会人の人は、あまり禅を熱心にしないほうがいいと思います。リクレーションくらいのつもりがいいでしょう。』と言っているのを読んだことがあります。

その時はその意味が分かりませんでしたが、やはり経験上、現実遊離してしまう人が多かったのだと思います。

『自由意思はない』などと主張するノンデュアリティは禅よりももっと現実から遊離していますし、人間にとって最も大切である意思や主体を失わせていってしまいます。

上のブログの文章は4年前くらいで、そのころはノンデュアリティが流行っていたのでしょうけど、いまはそうでもないようです。ノンデュアリティYouTubeの多くにはコメントができないようになっています。多分、どの動画も批判のコメントが殺到したのだと思います。

ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ』、これは非常に危険なメッセージです。

私は、このアドヴァイタの元祖であるシャンカラはよく知っていますからアドヴァイタの真髄はわかっていますし、シャンカラは好きな覚者の一人です。

シャンカラはワンネスを徹底した人ですが、多様性を説明するのに、『錯覚』と『付託』という概念を用います。

シャンカラは深く洞察した覚者ですが、その表面だけを借りてきて極めて浅薄な理論を展開しているのが現代のノンデュアリティだと思います。

 

 

『底が抜ける』

id:kougenn  

出版は難行だとは思いますが、ぜひとも成し遂げてください。
こないだのターボーさんの話で、もうひとつ話しておきたいと思う話があって、大事な話なのでショーシャンクさんも一緒に考えてみてもらえませんか?
以前、ターボーさんが哲学者の池田晶子が好きだと言ってた記憶がありますが、その池田晶子の話です。ぼくは池田晶子は好きでも嫌いでもなく、文庫になっている本は読んだことがある程度ですが。 「私は自分とは何かを考え過ぎて底が抜けてしまった」という言葉を彼女は残しています。「自分とは何か」というテーマは彼女が生涯、追い続けた問題であり、ソクラテスを主人公にしたシリーズの本を書いているのもソクラテスが「汝自身を知れ」という同じテーマをライフワークにしていたからだと思います。
「自分とは何か」とネット検索をかけてみても、アイデンティティがどうのとか、ややっこしい言い回しで一向に出口のない論理を展開してみたりと読むに耐えないものばかりで、「汝自身を知れ」という言葉もアテネデルフォイの神殿の入り口に彫られていた言葉で、大辞林によれば「自分が無知であることを自覚し、その自覚に立って真の知を得て正しく行為せよ」と「無知の知」と「汝自身」が一緒になって答えになってないようにも思えます。
池田晶子が言った「底が抜けた」とは禅語です。盤珪が十代の頃、儒学の「大学」にあった「明徳」の意味が分からず、十五年考え続け、ある日、突然、ハッと分かり大悟し、盤珪はその時のことを「古桶の底抜け果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」と歌っています。
「底が抜けた」とは、池田晶子が「自分とは何か」の答えを得たということです。ぼくも、ずっと「自分とは何か」を考えてきて、ぼくなりの答えを得て、ぼくの答えは間違っているかもしれないし、池田晶子の得た答えも正解かどうかは分かりません。しかし、おそらく、彼女の答えと、ぼくの答えは、彼女の書いた他の本を読む限り、たぶん、同じであるような気がしています。 先の投稿で、ターボーさんの「あれがあって、これがある」というのを、ぼくは「それは十二縁起のことですよ」と言いましたが、別の側面では、ターボーさんの言ってるいる意味が分かる自分もいました。
ターボーさんは「自分とは何か」と考えたことがありますか?
ショーシャンクさんは「自分とは何か」をどう考えていらっしゃいますか?
 
 
『底が抜けた』という言葉は好きです。
『底が抜ける』とは、『私という中心』が実は幻想であったんだということにはっきり気づき、今まで確固とした存在基盤と信じ込んでいたものが崩れ落ちること、です。
その崩れ落ちたところ、底と思い大地と思っていた存在基盤がなくなったところに開ける空間こそ『自分』でしょう。
時々はそう思えるときはありますが、しかし、人間は感覚を持っています。
感覚を持っているために、瞬間瞬間、五官の感覚の記憶を溜め続けています。
そしてその記憶の束を『自分』と思い込んでいます。
もちろん、そう思わなければ、日常生活は一瞬たりともできません。
赤信号で止まるのも記憶があり思考があるからです。
自分の家、自分の財産、という記憶がないと、見知らぬ家に入り込んでしまうでしょう。誰かに会った記憶がないと、人間関係は崩壊してしまいます。
 
『私はない』とか『無我』だとか、よく仏教の人やノンデュアルティの人は軽々しく言いますが、それは頭の上っ面だけで言ってることなので何も心に響かないのです。とことん突き詰めることがない。頭の片隅だけで『自分はない』などと言ってるノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)の人は、自分の家に見知らぬ人がどんどん入ってきて勝手に冷蔵庫を開けて食べても『自分はないから自分の家と言うこともない。ただ起っているだけ。』と平然としているでしょうか。
 
記憶や思考は必ず必要なものです。1年前にした借金は返さなければいけないのです。『自分などない』とか『細胞はすべて入れ替わってるからその当時の自分などはいない』と言って借金を返さなくていいのであれば楽でしょうけど。
 
記憶や思考の必要性ははっきりとわかって、なおかつ、記憶の束という中心ができて苦を受けていること、無量を見失っていること、に気づくことが大切です。
 
『本当の自分とは何か』ですが、存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間でしょうね。それにふと気づくことはありますが、やはり四念処や十二縁起で徹底しなければと思っています。

仏陀の真意

大乗仏教に長年親しんできた私が、いったん仏教なるものの常識をすべて白紙にして、最古層のパーリ語仏典から『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』だけを突き詰めてきました。

積もりに積もった仏教の知識、常識を捨てることは抵抗もありましたが、そのアプローチをして本当に良かったです。

私は、大乗仏教にも上座部仏教(いわゆる小乗仏教)も仏陀の真意とはかけ離れているという直感がありましたが、突き詰めていくと本当にそれを確信しました。

四諦も十二縁起も八正道も四念処も七覚支もつまり三十七菩提分法も戒律も、今までに解釈されていたものとは全く違いました。

最も大事なこと、記憶データの消去、つまり浄化とか懺悔といわれるものが仏教の核からすっぽり抜け落ちていました。

これではどんなに坐禅しても瞑想しても念仏しても、絶対に無量には行き着かない。

記憶の束に気づきそれが苦であることに気づかなければ、精神の変革など絶対にできないのです。

 

例えば、私の好きな仏教者に法然がいます。ある日、泥棒を生業としている男が法然の説法を聞いていたく感激しその場で法然の信者になりました。法然の影響力は非常に大きいと言えるでしょう。しかし、この話には続きがあります。法然に弟子入りしたその泥棒は死ぬまで泥棒をやめることはできなかったのです。念仏の熱心な信者にはなりましたが、泥棒は続けていました。何も変わらなかったのです。

禅の盤珪も優しい人でした。自分は死ぬ思いをして厳しい修行をしましたが、悟ってからは『不生の仏心でござれ』と非常に易しい言葉で説き続けました。確かにその説法を聞いたときには感激するでしょうけど、しかし誰も何も変わらない。

玉城康四郎氏がいうように、何度見性し、印可を受け、数多くの公案を通っても、いつも数日で元の木阿弥に戻ったといいます。

何が抜けているのか、これは本当に謎でした。

仏陀は『教師に握り拳はない』といいました。

すべては秘密にされることもなく後世に伝えられているはずです。

 

なぜ仏陀は、四念処を一乗道と呼んだのか。

なぜ仏陀は、八正道を過去のすべての覚者が辿った古城に至る古道と呼んだのか。

菩提樹下での目覚めの詩偈でなぜ『縁の滅を知って疑いが消滅した』と言ったのか。

『矢』とは何か。

『激流』とは何か。

そして『十二縁起』とは何か。

 

それらのことがはっきりとわかりました。

 

誰一人理解してくれなくてもそれはそれでいいのです。仏陀の真意はこれだという確信が強くなってきましたので、遅れに遅れている自費出版に取り掛かります。

映画『レディ イン ザ ウォーター』にあるように、生きているうちは誰も読まない本であっても物質として残しておけば死んで何十年か後に誰かが見る可能性もあるので。

たーぼーさんの投稿

ターボー (126.193.83.95)  

高原さんこんばんは。
>禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。
それはそういうふうにも言えますよ。 ただこの場合の自分1人が宙に浮かんでいるっていうのは、我々凡夫が思っているこの2メートル弱の体じゃないですよ。 体は消えるんです。 そこがショーシャンクさんが言われる主体があるってとこになるんですけど、ただこの主体ってのは掴めないんですよ。 何故なら忘我だから。
 
続きです。
>ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました
 
そんな風には思ってないです。
いことをし尽くして消化させるっていうのでは、またカルマを増やすだけで、それは自我の作用ですよ。 私の場合は受け止めるって事ですよ。
信じてもらえないかもしれませんが、私最近分かるんですよ。
仏陀の「あれ有りてこれ有り」っていうが。 例えば何か理不尽な事があって腹が立った時に思い返してみると、あああの出来事が原因だなとか、あの時のあの想念が原因だなとか分かるようになってきたんです。 もちろんただの自分の勝手な思い込みって可能性もあるんですが。 そうすると、この世に理不尽な事って無いんだなと、おぼろげながら分かるようになってきました。 そうすると今までなら理不尽な事で腹を立てて、また反発したりして恨みに思って何かの反発行動をしたり、悪い想念を妄想したりって事がなくなってくるんです。カルマが原因で起きた出来事から新しいカルマを作らなくなってくるんです。 そういう事をカルマを消化したと私は思っています。 ただ完璧に出来ているわけではなくて、頭で分かっていても腹が立ってしまう時もあります。 以前よりは、腹が立つって事は、圧倒的に少なくなりました。
 
 
 
id:kougenn  
「あれ有りてこれ有り」とは十二縁起のことですよ、「識に縁って名色あり、名色に縁って六処あり」。
ターボーさんは「あれ有りてこれ有り」と、ショーシャンクさんの「アインシュタインの石」が混同混乱しているんではないでしょうか?
「あのことがあったから、このことが起こった」と分かるとありますが、因果応報とは我々に簡単に分かる出来ることではないと思います。我々に起こることは、「煙草を飲み過ぎで癌になった」とか原因と結果が明らかな場合もありますが、ほとんどは意味もなく起こります。 京都アニメーションの放火で、33人の人が亡くなりましたが、あのような身元も分からなくなるような悲惨な亡くなり方をしなければならない因果があったかどうかは、何人かの人は過去にこんなことをしたからと結び付けられるかも知れませんが、中には「こんな人がなぜこんな亡くなり方を」と説明のつかない人もいらっしゃると思います。 浦島太郎が竜宮城にいけたのは苛められている亀を助けたからですが、誰もが亀を助ければ竜宮城に行ける訳ではありません。因果応報の物語として「里見八犬伝」があり、「因果の糸に手繰り寄せられて」英雄たちが巡り合い様々な困難を乗り越えていくのが面白いのは物語だからです。
「この世に理不尽なことはないとおぼろげながら分かるようになってきました」とターボーさんはおっしゃっていますが、ぼくに言わせれば、この世は理不尽なことだらけです。京都アニメーションの火事などは、その理不尽の典型ではないでしょうか?あの火事は道理で説明できますか? 仏陀はこの世の理不尽、無常に深く絶望して出家したんではないでしょうか。
こないだ「葉隠」の「死ぬこととと見つけたり」の話をしましたね。仏陀も、家族も財産もすべてを捨てて出家した時に一度死んでいるのです。

『捨』の発見

相応部経典第3篇「四つの専念の確立」に関する集成第1章第10節にこうありました。

 

四つの専念の確立(四念処)に心をつなぎとめている者には、前後の広大な階梯についての知識が期待される。』として

 

身体において、身体を観察しているが、対象としての身体を持っている。身体に対する執着を持っている。心の退縮がある。あるいは、心を外に放つ。』

アーナンダよ。その修行者は、浄心を起こすべき何かに心を置くべきである。彼が、浄心を起こすべき何かに心を置けば、喜びが生じる。喜びが生じると、喜悦が生じる。心が喜ぶと、身体が軽くなる。軽い身体は安楽を感じる。安楽から、心が安定する。』

彼はこのように深慮する。「わたしは、わたしが心に置いたものは、その目的を獲得した。さあ。ここで、それを心から取り去ろう」』

 

 

これは大変なことに気がつきました。

四念処と七覚支は合わせて説明されていることが非常に多く、

そのため七覚支の「念」が四念処であることはわかっていました。

七覚支は

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

です。

念は四念処、精進は四正勤ですから

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

となります。

 

私は今まで、七覚支の最後「捨」は四無量心の「捨」だと思っていました。

パーリ語も同じupekkha です。

 

しかし、相応部経典のこの箇所からは、

四念処⇒心に何かを置く⇒喜悦が生じる⇒身体が軽くなる⇒安楽を感じる⇒心が安定する⇒心に置いたものを心から取り去る

 

という流れであることが分かります。

 

つまり

択法とは、心に何か置くということ、真理の観念を選択しその真理を心に置くこと、なのです。

軽安は、文字通り、身体が軽くなり安楽を感じること。

定は心が安定すること。

そして、捨は、心に置いたものを捨てることだったのです。

 

 

浄心を起こすべき何かに心を置くべきであること

定に至ったら、つまり目的を獲得したら、それを捨てること

 

これは『筏』の考え方ですね。

 

 

 

自己こそ自分の主

ターボー (126.182.13.4)  

高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。
 
 
少し気になる部分があったので、たーぼーさんのコメントをこちらでも上げておきますね。
『自分という塊はどこにもなく』はその通りです。
気になったのは、『私たちは本来は主体がなく』の部分です。
 
ここに今までの仏教解釈の過ちがあります。
 
『私たちは主体がなく』どころではなく、私たちは絶対の主体そのものです。
無限の大海そのもの、無量心そのものです。
それ以外になったことはないのですが、感覚を持ったために記憶の束という中心があると思い込んでいます。そのために無量を見失ってしまったのです。
長者窮子なのです。
 
人類は仏陀が言った『諸法非我』を『諸法無我』としました。
非我といい、無我と言っても、『私という中心がない』と言う意味であればいいのです。同じ意味です。
しかし、『無我』という言葉が、『私たちには主体がなく因縁そのもの』と言う意味になってしまった。
つまり、最も大事な『主体』をなくしてしまったのです。
後世に作り上げられた仏教なるものがそのようにねじ曲げてしまった。
 
真実は、『私という限定がなく』『ただ無限の主体がある』のです。
 
自己こそ自分の主である(ダンマパダ160)
実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。(ダンマパダ380)
 
 
歴史上の仏陀は、自己などというものはない、とは一言も言っていません。
自己こそ自分の主、主体なのです。
 
 
 
id:kougenn  
NHKの「心の時代」で「禅に学ぶ」という番組をやっていたので、録画して見ていました。ターボーさんも禅をやっていたんですよね。禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。 ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました。 あなたは「主体がない」と言ってますが、ショーシャンクさんは「主体はある」とおっしゃっていて、要は、ターボーさんはショーシャンクさんと根本の所で仏教とカルマの理解が全く違っていて、今までショーシャンクさんに賛同する発言をしてきたのも、どこまでが本当の気持ちだったのしょうか?
 
 
 
 
 

一つの樹を伐るのではなく林を伐れ

ダンマパダ283にこうあります。

 

一つの樹を伐るのではなくて、林を伐れ。

危険は林から生じる。

林とその下生えとを切って、林から脱れた者となれ。

修行者らよ。

 

 

これは非常に重要な言葉です。

ここに仏陀の教説を解くカギがあります。

 

『一つの樹』とは何でしょうか。

『林』とは何でしょうか。

『下生え』とは何でしょうか。

『林』というのが『樹』の集合体であることは確かです。

 

この文章は、林とその下生えを伐らなければ一つの樹を伐っても意味がないということです。

一つの樹を伐っても、林とその下生えからまた樹は生えてくるのです。

 

『一つの樹』とは、一つ一つの想念、思考、思い。

『林と下生え』とは、私という中心を形成している記憶の束、思考の束、観念の束のことです。

 

坐禅などで、ひとつひとつの思考を切っていったとして、その果てに無思考な状態が現れたとします。思考がないので限定もなく自由な感覚です。

しかし、一時的に思考がなくなっても、思考はどうしても日常生活をしていくには必要なものですから、坐禅をやめて日常生活に戻ったら途端に思考が湧いて出ます。

玉城康四郎氏がその著作の中で言っているように、何度見性しても印可をいくら受けても『数日で元の木阿弥に戻った』ということです。

 

それは一つ一つの樹を伐っていただけで、その根本である『林と下生え』はそのままだからです。

 

ゆえに『林と下生え』を切る方法が必要となります。

それは『ただ見る』だけでも、『ただ気づく』だけでも、『林と下生え』を根本から壊すことはできないと思います。

 

 

id:kougenn  

下生えとは根っ子のことですよね。おっしゃる通り、根っ子の部分まではなかなか取り切れないんでしょうし、確かに、日常生活は刺激的で、嫌が応にも様々なことで振り回されたりもします。 ショーシャンクさんの投稿で「思考」ということを考えていて、ここ最近、ぼくはろくに「思考」してないんではないんだろうかと考えていました。以前、何人かの女性との会話の途中「私、何も考えていないよ」と同じことを言われ、それは「難しいことは考えない」という意味だったんでしょうけど、今のぼくは彼女たち以上に何も考えていないと思って、いよいよ馬鹿になったんじゃないかと思うくらいです。これはスッパニパータにある「怠惰」ということなのかとも思い、ぼくは、ショーシャンクさんのようにはなかなか難しいので、とりあえず様子見かなとは思ってます。 先週、テレビの「情熱大陸」という番組に社会学者で東大教授の上野千鶴子が出てて「家族のような、っていうのが、すごく嫌なんだ。凄く抵抗がある」と言って「みんな、家族is,bestという呪縛に縛られてる。大学に入ったのも、家族から離れたい一心からだった」と言い、そして「生まれ変わっても女(の方)が楽しいと思うけどね、人生は一回でたくさん。二回も三回も繰り返したくないです」と、仏教徒とも思えない普通の人の上野千鶴子が、家を出て輪廻から解脱したいと言った仏陀と同じことを言ってると思って、数千年の時間は流れても、そういう悩みとか願いは変わらないのかなと面白かったです。 「家族」という言葉で、ぼくがいつも思うのは、アニメの「ちびまる子ちゃん」の、さくらももこです。 アニメで、ほほえましい暖かい家庭を描いたさくらももこでしたが、実際の、さくらももこの家庭は、家族構成はアニメの通りでしたが、家族は悲惨な出来事が重なり崩壊した家庭で、さくらさんは夢の家庭をアニメで描いたのでした。 どんな家庭に生まれてどんな親を持つかはサイコロを振るようなもので、ぼくの子供 の頃の自分の家庭も、慈しみ合うどころか、憎しみ合っていた家族で、家の中でずっと自分の居場所はありませんでした。 大人になってからも、自分が家族という共同体に入るのが怖くて、結婚する時も妻とは「子供は持たない」ということを同意で結婚しました。
 
 
まず、思考、想念というものは絶対に必要なものですね。主体的な想念と他動的というか従属的な想念があり、私を含めほとんどすべての人は他動的な想念しか出していません。
他動的というのは、何か見たり聞いたりしたことに対して反応してしまう想念です。
自分がこの想念を出そうと意図したのではなく、機械的に沸き上がってくる想念です。
 
無思考型の瞑想や『ただ見る』『ただ気づく』ということだけでは、最も大事な主体を失ってしまうことになります。
クリシュナムルティは天才的で、真理に至るいかなる方法もいかなる道もないと断言し、マントラなどの伝統的な方法を全否定しました。
しかし、方法もなく『ただ見る』ことに徹していても、その下生えを壊していないと機械的な思考、外界の反応である思考は延々と湧いて出るでしょう。
例えば、部屋の真ん中に腐った食べ物が置いてあるとします。そのせいで部屋中が臭いのですが、その部屋にいる人は臭いを感知するたびにうちわで消していきます。それで臭いは一時的には鼻につかなくなりますが、また自然と湧いて出ます。
部屋の中心に腐ったものがある限りは無駄なことです。
同じく、強固に『私』と思い込んでいる観念の束がある限り、その中心から分離の思い、限定の思い、欠乏の思いが湧き出ます。
 
仏教と言うものが仏陀の本当に言ったことを捻じ曲げてしまって、結局、中心たる『矢』を抜く方法を捨ててしまったので、仏教はどこにも行き着かない教えになったように思えます。

高原さんからターボーさんへの投稿

id:kougenn  

ターボーさん、返事、ありがとうございました。
葉隠」はご存知でしょうか?「(武士道とは)死ぬことと見つけたり」というやつです。 ターボーさんの「座布団の上で死に切ってこい」という意味は「神仏にすべてを委ねよ」というターボーさんの解釈とは違う意味だと思います。たぶん「死ぬことと見つけたり」と似た意味だと思います。 「葉隠」の「死ぬこと」とは実際に死ぬことと違います。「自分が既に死んだと思え」という意味です。 自分が死んでいると思えば、自分の義を貫くのに例え自分の仕える殿様にだって、正しいことは正しい、間違っていることは間違ってると遠慮したり臆することもなく意見することが出来るし、戦場でも既に自分は死んでいるのだから死を怖れたり臆病になったりもせず、勇敢に自分の使命を果たすために戦うことができる。本来のあるべき自分として「死んだ(つもり)」ということで生ききるができる。 自分が「死んだつもり」とはそういうことです。この世で何も怖れることもなく、自分というものの正義、信念を曲げることなく貫くことです。 「主体がなくカルマによって操られている」というのは、ある意味、本当だと思います。我々は、自分の中から起こるカルマ、欲望、煩悩の声を、自分の真の声、願望だと錯覚しながら一生を終える人がほとんどだと思います。それはカルマの奴隷の人生ですよね。 でも、そんな奴隷の人生を例え何度送ったとしても意味があるんですか? 仏陀はそれを切れと言ったんです。矢を抜き、激流を渡れと。仏陀は、それが我々人間には出来ると言ったんです。
 
 
ターボー (126.182.13.4)  
高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。

運命なんてない

ターボー (126.182.82.5)  

>>自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。 自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。 そういう安易な教えが世の中には満ちています。 仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。>>
 
ショーシャンクさんこんばんは。
確かに主体性は大事ですね。私も痛感しています。
ただ禅の方達が言われるような、我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である。 実を言うと私は、この発言も分からなくはないのです。 これだと主体性がなく、運命論になってしまい主体的な元気が出ないのですが(笑) 主体性がある方は、我は神なり=創造主なりといくのでしょうけれど、今現在の私を正直に話すならば、両方わかるよという感じなんです。
もっとはっきり言うと、自分では主体的に考えて行動しているつもりなんですが、それも含めて全て織り込み済みで運命論になっているように最近思ってます。 例えて言うと孫悟空が暴れまわっているつもりでも、実はお釈迦様の手の平で転がされてる感じといいますか(笑) 煩悩に負けて神の意志に反する行動をとると、頭がキンキン痛む感じです。 現時点では私の場合ですが、主体性と運命論は相反しないと思ってます。それは自分の未熟さがあるからかもしれませんが。
 
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
もし禅の人に『我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である』などという人がいれば、それは全くのニセモノです。
現代にはそのようなふわふわした思想が蔓延してますね。
大乗仏教の中で、歴史上の仏陀の考えに最も近いのは臨済だと思っています。臨済は絶対の主体性を説きました。
自らの中に絶対の主体性を見いだして自由の大海へと到達することができるかどうかです。
宇宙といい現象界といい、すべての形成されたものは泡のようなもの、我なる大海に浮かんでは消える波です。
自らが創造の主体であることを見極めること、これが究極だと思います。
 
 
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私なりに考えたんですが、どうして禅の方に運命論的な考えが蔓延するかというと、禅でよく言われる「座布団の上で死に切ってこい」私はこの発言が関係しているのではないかと思っています。 最初から自分より大きな者(神仏)に委ねて死にきれという結論が老師によって決められている。 自分(自我)の主体など幻想であるから、自分より大きな者に委ね切ってしまえば楽ちんだとなると、自然と操り人形みたいな運命論になってしまうと思います。 これはまた私のトラウマになった抵抗と関係してくるかのですが、私の場合はそういった師匠がなく抵抗してしまったが為に主体性という発想も失わなかったとも言えるのではないかと最近思っています。 しかしこれは鏡に写った自分の姿と喧嘩するようなもので不毛だと思ってもいますが。犬がよく鏡に映る自分の姿に吠えてるシーンがありますけど、私はあれを見ると自分はこれをやってしまったんだなと思ってしまいます(笑) いずれにせよ、このような発想になるという事は、まだ極めてないという事なんでしょうね。
 
 
運命なんてないです。あらわれたもの、形成されたもの、現象といわれるもの、はすべて泡のようなもので、現れては消えてゆくものです。そしてその泡は自らの影です。定まった運命などないからこそ、世界の大予言者と言われる人たちもその予言の的中率は20%を遥かに下回っていて、その予言のほとんどが外れています。それくらいの的中率なら予想屋の方が確率は高いです。
いかに定まった運命などないか、そして勢いがそういう方向に向かっていても自分の意思でいくらでも変えられるということです。
 
すべては縁起によって起こっている、自分の意思などない、自分の主体などない、というような教えが蔓延っています。
その考えで心が落ち着くのであればそうしたらいいとは思います。
ただ、私は絶対にそんな考えは拒否しますね。
 
自らの尊厳の最も大切な部分、自分が創造の主体だということを破壊してしまえば、その人はやる気を失い環境の奴隷になって『ああ、これも仕方ないですね』『ああ、それも運命だから仕方ないですね』『世間様がいいように』となるだけです。
 
 
ターボー (126.182.82.5)  
まぁ元々仏教とは運命論ではなく、因果論ですよね。 一口に仏教といっても色々あって混乱してます。 結局は自分の好きにやるしかないなと思ってますが。 戒律であれはダメ、これはダメっていうのは息苦しくて好きではないです。 もうメチャクチャ自己流でやってます。
最近、ショーシャンクさんのおかげなのか分かりませんが、無駄な想念がかなり少なくなってきて楽になりました。 ただ考え事をしてないから、トラックの運転中に眠いです(笑) 交感神経と副交感神経で、仕事中でも睡眠モードの副交感神経になってるのかなと思ってます。
 
 
戒律というのは、サンガという集団生活において自堕落な者が出て熱心な修行者に迷惑をかけないように規律を決めたもので、何ら本質的なものではありません。随犯随制といって、修行者の誰かが問題を起こしたときにそれを禁止する戒律を作っていったのです。
ですから、サンガという修行者の集団がないときは戒律はありませんでした。
校則のようなもので、校則を完璧に守ったからといっていい大学に入れるわけではなく、ただその学校の風紀が乱れないように定めただけのことです。
 
その校則が守れないのであればその学校に入らなければいいのであって、親鸞やそれに続く後世のほとんどの僧がそうであるように戒律を堂々と破るのであれば僧なんかになって信者のお布施でのうのうと生きようと思わず、在家として世俗の仕事を一生懸命して自分でお金を稼ぎそのお金で自分の欲望を満たせばいいのです。
頭を剃って僧衣のいいのを着て信者からお布施をもらって生きてるくせに『非僧非俗』などとごまかす精神は好きになれません。
 
 
 

応供

id:tomatomatan  

お久しぶりです。 ヤフー掲示板でしまとりという名前で書き込みしておりました。
求法者を菩薩として、なにか利他の気持ちの強い人物像とする、とか、仏教の流れは面白いですね。 声聞と縁覚という、本来は求法の大道を歩いていたはずの者たちを、成仏できない自己中心的な人物像として後世に貶したのもどうかとは感じますが、上部座仏教が広がっていく中で、求法しているから庶民より偉いというような差別心や、庶民は来世来来世で悟ればよい。自分たちの悟りが先だ、と喜捨して当然という態度だったかもしれませんからね。 人と人との間のことは、いろいろ考えられます。 実際に今でも宗教は、庶民からお金を巻き上げるシステムとして機能してしまう面もありますから。 無我については、悟ると、この世の現象のすべてが幻想のようなものであったとわかるようですね。ならば、自我や我執が強くなるはずはないので、つまり中途半端な見性なのでしょう。
ショーシャンクさんの求法を、こうしてブログで読めること、大変ありがたいです。 ありがとうございます。m(_ _)m
 
 
しまとりさん、お久しぶりです。
そうですね。プロの宗教家、つまり宗教でお金をもらったり、食べていっている人たちはもう一度それがどういうことなのか考えてほしいですね。
私たちのような商売人が人様から100円もらおうとすれば、その人に100円以上の価値がある商品なりサービスなりを提供しなければなりません。50円の価値しかないものを100円で売ろうとしても買ってくれる人はいないでしょう。
 
仏の別称を応供といいます。供養を受けるのに相応しい者という意味です。仏になって初めて供養を受けるのに相応しい人になれるのですから、プロの僧侶はそれこそ必死に悟って仏となるように修行に打ち込まなければいけないはずです。
しかし現状の宗教は、おっしゃるように、庶民からお金を巻き上げるシステムになっていますね。
これからはお寺もどんどん発信していって、多くの人に価値のあるものを提供していくところだけが生き残る時代にはなっていくでしょうけど。

ととのえられた自己が主

ターボー (126.182.82.5)  

>声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。 声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私はこの声を聞いた人とは、無知の知に気づいた人だと思ってますが、今はこの「声を聞いた」という解釈が間違いの元だったと思っています。 「声を聞いた」=自分ではない別の人格としての神の声を聞いた。という解釈をしてしまい、分からない事は神に問えば良いという神に対する依存になってしまったと思っています。 神に問うという発想ではなく、自分一個で完結して「考える」という発想であるべきだったと思います。 神に問うという発想だったから、自分の主体性がなく、依存になってしまい、その私自身の心の影が現象に投影されて彼女との付き合い方に反映されたと今は思っています。 ですから神にも依存しない。これは大事な事だと思います。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
声聞とは、釈尊の肉声を聞いた弟子のこと、すなわち直弟子のことを指しています。
仏陀の教えの他と際立っているところは、自らを拠り所として他を拠り所としないことです。
自己こそ自分の主なのです。ととのえられた自己こそ得難き主なのです。(ダンマパダ160)
仏伝には、神も悪魔も出てきますが、神とはととのえられた心から出てくる思い、悪魔とはととのえられていないこころから出てくる思いつまり煩悩のことを指します。
仏陀が菩提樹下で悟ってでも教えは説かないでおこうと思ったときに、梵天が勧請します。梵天は後世には色界最下層の神となってしまいますが、仏陀の在世中には、梵天とはブラフマン、宇宙の根源のことです。それは自らの根源でもあるのですが、すなわち、仏陀は自分の心の根源からの声を聞いて教えを説く決心をしたということです。
 
自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。
 
自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。
そういう安易な教えが世の中には満ちています。
仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。
 
 
 

たーぼーさんの返信

ターボー (126.182.82.5)  

<<最近、少し、ターボーさんのことが気になっています。ターボーさんの投稿が、とても断片的で、「二人を殺した報い」みたなことは書かれているのですが、ショーシャンクさんが「二人を殺したとはどういう意味ですか?」と質問してもスルーで、自分の感情と感傷のままに、誰も意味が分からないことを、自分さえ分かっていればいいとでも言うように勝手放題に書き散らしているのに、ぼくは少しイラッとして、ほとんど意味もないようなコメをターボーさんに書いただけに、それもあって。 ターボーさんは、ショーシャンクさんの人柄を頼って、あのような投稿をしたんだと思います。 ターボーさんだけでなく、蜘蛛の巣に捕まったように、どんなにジタバタと足掻いても、どうしてもそこに捕らえられたままで逃げられなくて苦しんでいる人は多いと思います。 ショーシャンクさんなら、ターボーさんだけでなく、そういう苦しみを訴える人たちに、どんな言葉を掛けてあげれますか?難しいでしょうか? >>
 
こんばんは。ターボーです。
心配して下さりありがとうございます。
ただこれは私にしか分からない問題なんです。 私は30年十字架を背負ってきたんです。 全てはあの時に抵抗した為に、周りの人を巻き込んでしまったからです。 クンダリーニ エネルギーが尾骶骨から上がってきた時に、私は自分(自我)の危機を感じて自分から攻撃に行ったのです。 例えて言うと、日本がアメリカに石油を断たれて自存自衛で真珠湾攻撃を敢行したようなもんです。 聖戦だったというつもりはありませんが、その当時の若すぎて宗教的な知識も全くない状態の私では、今から考えてもやらざるおえない戦争だったと思います。 何を言っているか分からないでしょうが、戯れ言として聞いておいてください。
だから、今のダラけた出家じゃなくて昔の仏教者がやった世俗との縁を完全に断ち切って仏道を志すっていうの、私は分かりますよ。その気持ちが。 そうしないと、周りの人を巻き込んでしまって、それが思い残す念になって、ニルバーナに安住出来ないです。 最も今の私は、出家してまで自分を極めようなどとは、今現在は思ってないですが、本当に仏道を極めよう自分を極めようとするならその選択肢しかないと思います。 だから仏陀が妻子を捨てて、地位も財産も捨てて出家したのも理解出来ます。凄い人だなぁと思います。 とても俺にはそこまで出来ないよって感じです。
 
 
おはようございます。
これは、高原さんの投稿へのたーぼーさんの返信です。
 

化城の喩え

id:kougenn  

仏陀の説いた筏とは、凄く深淵なものだと思っているので、それが「feel good」や「安心」くらい気持ちでは、ぼくの中ではそれが筏とは思いたくないです。イスラム教に入信したとしても白人女性が性の対象と見られなくなるとも思えないし、大乗の大船に乗った人が得る安心が、 ホッと煙草を一服やった程度の安心感とあまり違わない安心だったら意味がないと思います。 それと、もうひとつ。先の投稿でも書かれている「記憶の束」。 それが「矢」であるかどうかは、考えたことはありませんでしたが、「記憶の束」は、おっしゃる通りの「苦」であると思ってきて、実際にそうでした。 「記憶の束」という言い方を聞くと、PCのメモリーのような感じを受けますが、「記憶」とは自分の人生そのもので、自分そのもの、ずっと自分自身がそれに引きずられ束縛されているものです。それこそが「我執」です。 ショーシャンクさんの言葉を借りれば、記憶をクリアになって行くにつれ、自分という存在に対する重要感も次第に薄れて行きます。 自分のことが、あんなに好きで、大切でたまらなかったのが、別に「好きでも嫌いでもない」ようになって行きます。 「あれが欲しい」「これがしたい」と自分の中から起こってくる声が聞こえなくなって、例え、おねだりが聞こえても気にならなくなっていったりします。
 
 
確かにその通りではあるのです。
ただ、最近思うのは、人はそれぞれ目指すところや望みが違うのです。またそれぞれの薬も違うのです。
例えば殺人を犯した人がいてその人が罪悪感に苛まされて自殺しようと思い詰めていた時に『阿弥陀仏はあなたのような悪人こそ救ってくださる』と言われたら心底ほっとするでしょう。また例えば小さい時から神経が過敏で人の悪いところが気になって許せなくて精神が強迫観念に囚われている人が、『私なんてない。相手もない。すべてはただ起こっているだけ。』という言説を聞いて心が軽くなったとしたら、それはそれで有効だったということでしょう。
法華経に化城喩品というのがあります。お釈迦様が長い旅路を歩む修行者に、幻のお城を化作して、そこで疲れた旅人を休ませるという喩え話です。
どの教説も筏であり、薬であり、幻の城であるのです。
向こう岸に着けば筏はもう要らず、病が治れば薬は不要です。
せっかく城で安らいでいる人を、『こんな城で安らいでるのは間違いだ。こんな城は壊して早く出ていけ。』とは私は言いたくないですね。
ヤフー掲示板のアラシという人たちはみな、自分の教説と違うことを言えば、押しかけてきてはその城を壊そうとしてましたが、そういう精神自体本当につまらないものです。
 
それはさておき、探求すればするほど、歴史上の仏陀が言いたかったことは、素晴らしい高みにあり、これこそ人類を救ってくれるのではないかと思うくらい貴重なものであることが最近ひしひしとわかってきました。
 
仏陀の残してくれた筏の全貌に迫りたいとますます思います。
 
『記憶の束』を私ではないと、クリアにしていくこと、deleteしていくこと、これは今までの仏教が全く説いていなかったことです。
仏陀が本当に言ったことを探求していくにつれて、とんでもないことがわかってきました。
仏陀の真意は全く伝わってこなかったのではないか、本当にそんな気がします。
 
数々の謎だったこと、例えば、禅で見性し印可を受けた人の人格が普通の人より悪くなることがあるのはなぜか、『無我』『無我』と連呼する人に限って普通の人より自我や我執が強いのはなぜか、他力本願自力無効と声高に言う人に限って攻撃的なのはなぜか、『自分は目覚めている』『自分はいつも気づいている』という人に限って癇癪を起しやすかったり感情のコントロールも出来ないのはなぜか・・・・
その謎に迫れるような気がします。