応供

id:tomatomatan  

お久しぶりです。 ヤフー掲示板でしまとりという名前で書き込みしておりました。
求法者を菩薩として、なにか利他の気持ちの強い人物像とする、とか、仏教の流れは面白いですね。 声聞と縁覚という、本来は求法の大道を歩いていたはずの者たちを、成仏できない自己中心的な人物像として後世に貶したのもどうかとは感じますが、上部座仏教が広がっていく中で、求法しているから庶民より偉いというような差別心や、庶民は来世来来世で悟ればよい。自分たちの悟りが先だ、と喜捨して当然という態度だったかもしれませんからね。 人と人との間のことは、いろいろ考えられます。 実際に今でも宗教は、庶民からお金を巻き上げるシステムとして機能してしまう面もありますから。 無我については、悟ると、この世の現象のすべてが幻想のようなものであったとわかるようですね。ならば、自我や我執が強くなるはずはないので、つまり中途半端な見性なのでしょう。
ショーシャンクさんの求法を、こうしてブログで読めること、大変ありがたいです。 ありがとうございます。m(_ _)m
 
 
しまとりさん、お久しぶりです。
そうですね。プロの宗教家、つまり宗教でお金をもらったり、食べていっている人たちはもう一度それがどういうことなのか考えてほしいですね。
私たちのような商売人が人様から100円もらおうとすれば、その人に100円以上の価値がある商品なりサービスなりを提供しなければなりません。50円の価値しかないものを100円で売ろうとしても買ってくれる人はいないでしょう。
 
仏の別称を応供といいます。供養を受けるのに相応しい者という意味です。仏になって初めて供養を受けるのに相応しい人になれるのですから、プロの僧侶はそれこそ必死に悟って仏となるように修行に打ち込まなければいけないはずです。
しかし現状の宗教は、おっしゃるように、庶民からお金を巻き上げるシステムになっていますね。
これからはお寺もどんどん発信していって、多くの人に価値のあるものを提供していくところだけが生き残る時代にはなっていくでしょうけど。