『底が抜ける』

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出版は難行だとは思いますが、ぜひとも成し遂げてください。
こないだのターボーさんの話で、もうひとつ話しておきたいと思う話があって、大事な話なのでショーシャンクさんも一緒に考えてみてもらえませんか?
以前、ターボーさんが哲学者の池田晶子が好きだと言ってた記憶がありますが、その池田晶子の話です。ぼくは池田晶子は好きでも嫌いでもなく、文庫になっている本は読んだことがある程度ですが。 「私は自分とは何かを考え過ぎて底が抜けてしまった」という言葉を彼女は残しています。「自分とは何か」というテーマは彼女が生涯、追い続けた問題であり、ソクラテスを主人公にしたシリーズの本を書いているのもソクラテスが「汝自身を知れ」という同じテーマをライフワークにしていたからだと思います。
「自分とは何か」とネット検索をかけてみても、アイデンティティがどうのとか、ややっこしい言い回しで一向に出口のない論理を展開してみたりと読むに耐えないものばかりで、「汝自身を知れ」という言葉もアテネデルフォイの神殿の入り口に彫られていた言葉で、大辞林によれば「自分が無知であることを自覚し、その自覚に立って真の知を得て正しく行為せよ」と「無知の知」と「汝自身」が一緒になって答えになってないようにも思えます。
池田晶子が言った「底が抜けた」とは禅語です。盤珪が十代の頃、儒学の「大学」にあった「明徳」の意味が分からず、十五年考え続け、ある日、突然、ハッと分かり大悟し、盤珪はその時のことを「古桶の底抜け果てて、三界に一円相の輪があらばこそ」と歌っています。
「底が抜けた」とは、池田晶子が「自分とは何か」の答えを得たということです。ぼくも、ずっと「自分とは何か」を考えてきて、ぼくなりの答えを得て、ぼくの答えは間違っているかもしれないし、池田晶子の得た答えも正解かどうかは分かりません。しかし、おそらく、彼女の答えと、ぼくの答えは、彼女の書いた他の本を読む限り、たぶん、同じであるような気がしています。 先の投稿で、ターボーさんの「あれがあって、これがある」というのを、ぼくは「それは十二縁起のことですよ」と言いましたが、別の側面では、ターボーさんの言ってるいる意味が分かる自分もいました。
ターボーさんは「自分とは何か」と考えたことがありますか?
ショーシャンクさんは「自分とは何か」をどう考えていらっしゃいますか?
 
 
『底が抜けた』という言葉は好きです。
『底が抜ける』とは、『私という中心』が実は幻想であったんだということにはっきり気づき、今まで確固とした存在基盤と信じ込んでいたものが崩れ落ちること、です。
その崩れ落ちたところ、底と思い大地と思っていた存在基盤がなくなったところに開ける空間こそ『自分』でしょう。
時々はそう思えるときはありますが、しかし、人間は感覚を持っています。
感覚を持っているために、瞬間瞬間、五官の感覚の記憶を溜め続けています。
そしてその記憶の束を『自分』と思い込んでいます。
もちろん、そう思わなければ、日常生活は一瞬たりともできません。
赤信号で止まるのも記憶があり思考があるからです。
自分の家、自分の財産、という記憶がないと、見知らぬ家に入り込んでしまうでしょう。誰かに会った記憶がないと、人間関係は崩壊してしまいます。
 
『私はない』とか『無我』だとか、よく仏教の人やノンデュアルティの人は軽々しく言いますが、それは頭の上っ面だけで言ってることなので何も心に響かないのです。とことん突き詰めることがない。頭の片隅だけで『自分はない』などと言ってるノンデュアリティ(似非アドヴァイタ)の人は、自分の家に見知らぬ人がどんどん入ってきて勝手に冷蔵庫を開けて食べても『自分はないから自分の家と言うこともない。ただ起っているだけ。』と平然としているでしょうか。
 
記憶や思考は必ず必要なものです。1年前にした借金は返さなければいけないのです。『自分などない』とか『細胞はすべて入れ替わってるからその当時の自分などはいない』と言って借金を返さなくていいのであれば楽でしょうけど。
 
記憶や思考の必要性ははっきりとわかって、なおかつ、記憶の束という中心ができて苦を受けていること、無量を見失っていること、に気づくことが大切です。
 
『本当の自分とは何か』ですが、存在基盤と思い込んでいる記憶の束が抜け落ちたときに開ける無限の空間でしょうね。それにふと気づくことはありますが、やはり四念処や十二縁起で徹底しなければと思っています。