高原さんからターボーさんへの投稿

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ターボーさん、返事、ありがとうございました。
葉隠」はご存知でしょうか?「(武士道とは)死ぬことと見つけたり」というやつです。 ターボーさんの「座布団の上で死に切ってこい」という意味は「神仏にすべてを委ねよ」というターボーさんの解釈とは違う意味だと思います。たぶん「死ぬことと見つけたり」と似た意味だと思います。 「葉隠」の「死ぬこと」とは実際に死ぬことと違います。「自分が既に死んだと思え」という意味です。 自分が死んでいると思えば、自分の義を貫くのに例え自分の仕える殿様にだって、正しいことは正しい、間違っていることは間違ってると遠慮したり臆することもなく意見することが出来るし、戦場でも既に自分は死んでいるのだから死を怖れたり臆病になったりもせず、勇敢に自分の使命を果たすために戦うことができる。本来のあるべき自分として「死んだ(つもり)」ということで生ききるができる。 自分が「死んだつもり」とはそういうことです。この世で何も怖れることもなく、自分というものの正義、信念を曲げることなく貫くことです。 「主体がなくカルマによって操られている」というのは、ある意味、本当だと思います。我々は、自分の中から起こるカルマ、欲望、煩悩の声を、自分の真の声、願望だと錯覚しながら一生を終える人がほとんどだと思います。それはカルマの奴隷の人生ですよね。 でも、そんな奴隷の人生を例え何度送ったとしても意味があるんですか? 仏陀はそれを切れと言ったんです。矢を抜き、激流を渡れと。仏陀は、それが我々人間には出来ると言ったんです。
 
 
ターボー (126.182.13.4)  
高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。