運命なんてない

ターボー (126.182.82.5)  

>>自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。 自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。 そういう安易な教えが世の中には満ちています。 仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。>>
 
ショーシャンクさんこんばんは。
確かに主体性は大事ですね。私も痛感しています。
ただ禅の方達が言われるような、我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である。 実を言うと私は、この発言も分からなくはないのです。 これだと主体性がなく、運命論になってしまい主体的な元気が出ないのですが(笑) 主体性がある方は、我は神なり=創造主なりといくのでしょうけれど、今現在の私を正直に話すならば、両方わかるよという感じなんです。
もっとはっきり言うと、自分では主体的に考えて行動しているつもりなんですが、それも含めて全て織り込み済みで運命論になっているように最近思ってます。 例えて言うと孫悟空が暴れまわっているつもりでも、実はお釈迦様の手の平で転がされてる感じといいますか(笑) 煩悩に負けて神の意志に反する行動をとると、頭がキンキン痛む感じです。 現時点では私の場合ですが、主体性と運命論は相反しないと思ってます。それは自分の未熟さがあるからかもしれませんが。
 
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
もし禅の人に『我々は主体がなくカルマによって操られているだけの操り人形である』などという人がいれば、それは全くのニセモノです。
現代にはそのようなふわふわした思想が蔓延してますね。
大乗仏教の中で、歴史上の仏陀の考えに最も近いのは臨済だと思っています。臨済は絶対の主体性を説きました。
自らの中に絶対の主体性を見いだして自由の大海へと到達することができるかどうかです。
宇宙といい現象界といい、すべての形成されたものは泡のようなもの、我なる大海に浮かんでは消える波です。
自らが創造の主体であることを見極めること、これが究極だと思います。
 
 
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私なりに考えたんですが、どうして禅の方に運命論的な考えが蔓延するかというと、禅でよく言われる「座布団の上で死に切ってこい」私はこの発言が関係しているのではないかと思っています。 最初から自分より大きな者(神仏)に委ねて死にきれという結論が老師によって決められている。 自分(自我)の主体など幻想であるから、自分より大きな者に委ね切ってしまえば楽ちんだとなると、自然と操り人形みたいな運命論になってしまうと思います。 これはまた私のトラウマになった抵抗と関係してくるかのですが、私の場合はそういった師匠がなく抵抗してしまったが為に主体性という発想も失わなかったとも言えるのではないかと最近思っています。 しかしこれは鏡に写った自分の姿と喧嘩するようなもので不毛だと思ってもいますが。犬がよく鏡に映る自分の姿に吠えてるシーンがありますけど、私はあれを見ると自分はこれをやってしまったんだなと思ってしまいます(笑) いずれにせよ、このような発想になるという事は、まだ極めてないという事なんでしょうね。
 
 
運命なんてないです。あらわれたもの、形成されたもの、現象といわれるもの、はすべて泡のようなもので、現れては消えてゆくものです。そしてその泡は自らの影です。定まった運命などないからこそ、世界の大予言者と言われる人たちもその予言の的中率は20%を遥かに下回っていて、その予言のほとんどが外れています。それくらいの的中率なら予想屋の方が確率は高いです。
いかに定まった運命などないか、そして勢いがそういう方向に向かっていても自分の意思でいくらでも変えられるということです。
 
すべては縁起によって起こっている、自分の意思などない、自分の主体などない、というような教えが蔓延っています。
その考えで心が落ち着くのであればそうしたらいいとは思います。
ただ、私は絶対にそんな考えは拒否しますね。
 
自らの尊厳の最も大切な部分、自分が創造の主体だということを破壊してしまえば、その人はやる気を失い環境の奴隷になって『ああ、これも仕方ないですね』『ああ、それも運命だから仕方ないですね』『世間様がいいように』となるだけです。
 
 
ターボー (126.182.82.5)  
まぁ元々仏教とは運命論ではなく、因果論ですよね。 一口に仏教といっても色々あって混乱してます。 結局は自分の好きにやるしかないなと思ってますが。 戒律であれはダメ、これはダメっていうのは息苦しくて好きではないです。 もうメチャクチャ自己流でやってます。
最近、ショーシャンクさんのおかげなのか分かりませんが、無駄な想念がかなり少なくなってきて楽になりました。 ただ考え事をしてないから、トラックの運転中に眠いです(笑) 交感神経と副交感神経で、仕事中でも睡眠モードの副交感神経になってるのかなと思ってます。
 
 
戒律というのは、サンガという集団生活において自堕落な者が出て熱心な修行者に迷惑をかけないように規律を決めたもので、何ら本質的なものではありません。随犯随制といって、修行者の誰かが問題を起こしたときにそれを禁止する戒律を作っていったのです。
ですから、サンガという修行者の集団がないときは戒律はありませんでした。
校則のようなもので、校則を完璧に守ったからといっていい大学に入れるわけではなく、ただその学校の風紀が乱れないように定めただけのことです。
 
その校則が守れないのであればその学校に入らなければいいのであって、親鸞やそれに続く後世のほとんどの僧がそうであるように戒律を堂々と破るのであれば僧なんかになって信者のお布施でのうのうと生きようと思わず、在家として世俗の仕事を一生懸命して自分でお金を稼ぎそのお金で自分の欲望を満たせばいいのです。
頭を剃って僧衣のいいのを着て信者からお布施をもらって生きてるくせに『非僧非俗』などとごまかす精神は好きになれません。