一つの樹を伐るのではなく林を伐れ

ダンマパダ283にこうあります。

 

一つの樹を伐るのではなくて、林を伐れ。

危険は林から生じる。

林とその下生えとを切って、林から脱れた者となれ。

修行者らよ。

 

 

これは非常に重要な言葉です。

ここに仏陀の教説を解くカギがあります。

 

『一つの樹』とは何でしょうか。

『林』とは何でしょうか。

『下生え』とは何でしょうか。

『林』というのが『樹』の集合体であることは確かです。

 

この文章は、林とその下生えを伐らなければ一つの樹を伐っても意味がないということです。

一つの樹を伐っても、林とその下生えからまた樹は生えてくるのです。

 

『一つの樹』とは、一つ一つの想念、思考、思い。

『林と下生え』とは、私という中心を形成している記憶の束、思考の束、観念の束のことです。

 

坐禅などで、ひとつひとつの思考を切っていったとして、その果てに無思考な状態が現れたとします。思考がないので限定もなく自由な感覚です。

しかし、一時的に思考がなくなっても、思考はどうしても日常生活をしていくには必要なものですから、坐禅をやめて日常生活に戻ったら途端に思考が湧いて出ます。

玉城康四郎氏がその著作の中で言っているように、何度見性しても印可をいくら受けても『数日で元の木阿弥に戻った』ということです。

 

それは一つ一つの樹を伐っていただけで、その根本である『林と下生え』はそのままだからです。

 

ゆえに『林と下生え』を切る方法が必要となります。

それは『ただ見る』だけでも、『ただ気づく』だけでも、『林と下生え』を根本から壊すことはできないと思います。

 

 

id:kougenn  

下生えとは根っ子のことですよね。おっしゃる通り、根っ子の部分まではなかなか取り切れないんでしょうし、確かに、日常生活は刺激的で、嫌が応にも様々なことで振り回されたりもします。 ショーシャンクさんの投稿で「思考」ということを考えていて、ここ最近、ぼくはろくに「思考」してないんではないんだろうかと考えていました。以前、何人かの女性との会話の途中「私、何も考えていないよ」と同じことを言われ、それは「難しいことは考えない」という意味だったんでしょうけど、今のぼくは彼女たち以上に何も考えていないと思って、いよいよ馬鹿になったんじゃないかと思うくらいです。これはスッパニパータにある「怠惰」ということなのかとも思い、ぼくは、ショーシャンクさんのようにはなかなか難しいので、とりあえず様子見かなとは思ってます。 先週、テレビの「情熱大陸」という番組に社会学者で東大教授の上野千鶴子が出てて「家族のような、っていうのが、すごく嫌なんだ。凄く抵抗がある」と言って「みんな、家族is,bestという呪縛に縛られてる。大学に入ったのも、家族から離れたい一心からだった」と言い、そして「生まれ変わっても女(の方)が楽しいと思うけどね、人生は一回でたくさん。二回も三回も繰り返したくないです」と、仏教徒とも思えない普通の人の上野千鶴子が、家を出て輪廻から解脱したいと言った仏陀と同じことを言ってると思って、数千年の時間は流れても、そういう悩みとか願いは変わらないのかなと面白かったです。 「家族」という言葉で、ぼくがいつも思うのは、アニメの「ちびまる子ちゃん」の、さくらももこです。 アニメで、ほほえましい暖かい家庭を描いたさくらももこでしたが、実際の、さくらももこの家庭は、家族構成はアニメの通りでしたが、家族は悲惨な出来事が重なり崩壊した家庭で、さくらさんは夢の家庭をアニメで描いたのでした。 どんな家庭に生まれてどんな親を持つかはサイコロを振るようなもので、ぼくの子供 の頃の自分の家庭も、慈しみ合うどころか、憎しみ合っていた家族で、家の中でずっと自分の居場所はありませんでした。 大人になってからも、自分が家族という共同体に入るのが怖くて、結婚する時も妻とは「子供は持たない」ということを同意で結婚しました。
 
 
まず、思考、想念というものは絶対に必要なものですね。主体的な想念と他動的というか従属的な想念があり、私を含めほとんどすべての人は他動的な想念しか出していません。
他動的というのは、何か見たり聞いたりしたことに対して反応してしまう想念です。
自分がこの想念を出そうと意図したのではなく、機械的に沸き上がってくる想念です。
 
無思考型の瞑想や『ただ見る』『ただ気づく』ということだけでは、最も大事な主体を失ってしまうことになります。
クリシュナムルティは天才的で、真理に至るいかなる方法もいかなる道もないと断言し、マントラなどの伝統的な方法を全否定しました。
しかし、方法もなく『ただ見る』ことに徹していても、その下生えを壊していないと機械的な思考、外界の反応である思考は延々と湧いて出るでしょう。
例えば、部屋の真ん中に腐った食べ物が置いてあるとします。そのせいで部屋中が臭いのですが、その部屋にいる人は臭いを感知するたびにうちわで消していきます。それで臭いは一時的には鼻につかなくなりますが、また自然と湧いて出ます。
部屋の中心に腐ったものがある限りは無駄なことです。
同じく、強固に『私』と思い込んでいる観念の束がある限り、その中心から分離の思い、限定の思い、欠乏の思いが湧き出ます。
 
仏教と言うものが仏陀の本当に言ったことを捻じ曲げてしまって、結局、中心たる『矢』を抜く方法を捨ててしまったので、仏教はどこにも行き着かない教えになったように思えます。