ととのえられた自己が主

ターボー (126.182.82.5)  

>声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。 声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
 
ショーシャンクさんおはようございます。
私はこの声を聞いた人とは、無知の知に気づいた人だと思ってますが、今はこの「声を聞いた」という解釈が間違いの元だったと思っています。 「声を聞いた」=自分ではない別の人格としての神の声を聞いた。という解釈をしてしまい、分からない事は神に問えば良いという神に対する依存になってしまったと思っています。 神に問うという発想ではなく、自分一個で完結して「考える」という発想であるべきだったと思います。 神に問うという発想だったから、自分の主体性がなく、依存になってしまい、その私自身の心の影が現象に投影されて彼女との付き合い方に反映されたと今は思っています。 ですから神にも依存しない。これは大事な事だと思います。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
声聞とは、釈尊の肉声を聞いた弟子のこと、すなわち直弟子のことを指しています。
仏陀の教えの他と際立っているところは、自らを拠り所として他を拠り所としないことです。
自己こそ自分の主なのです。ととのえられた自己こそ得難き主なのです。(ダンマパダ160)
仏伝には、神も悪魔も出てきますが、神とはととのえられた心から出てくる思い、悪魔とはととのえられていないこころから出てくる思いつまり煩悩のことを指します。
仏陀が菩提樹下で悟ってでも教えは説かないでおこうと思ったときに、梵天が勧請します。梵天は後世には色界最下層の神となってしまいますが、仏陀の在世中には、梵天とはブラフマン、宇宙の根源のことです。それは自らの根源でもあるのですが、すなわち、仏陀は自分の心の根源からの声を聞いて教えを説く決心をしたということです。
 
自分の他に頼るものはない、絶対の主体性を確立せよ、というのが歴史上の仏陀のメッセージです。他力を頼るとか、自力なんて無効だとか、は歴史上の仏陀は全く説いたことがありません。
 
自らの主体性を失わせるような教えには気をつけてください。
そういう安易な教えが世の中には満ちています。
仮城の喩えのように、そういうものをリラックスする道具に使うことはいいのですが、最終的には絶対の主体、無限の大海へと流れつかないといけないでしょう。