現実遊離が悟り?

あるブログにこういう文章がありました。禅やノンデュアリティに関して書いてありましたので挙げてみます。

 

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今流行のノンデュアリティ(非二元論)。

らくちんこ道♡じゅんころさんや溝口あゆかさんなどのお話を聞いていると、全ての事象が「起こることが、ただ起こっている」ということに集約されるようだ。

確かに「起こっている」といわれればその通りな訳で、「以上終わり!」なのだが、要はこれに対してその個人が本当に腑に落ち納得できるのかが問題なのである。

3次元的な考え方だと、「その境地に達するにはどうすれば良いか?」という方法論を求めたくなるところだが、起こることと起こらないことが起こることは誰もコントロール出来ないようで、これだとノンデュアリティを語る先生達のお話を直接聞いて学んで理解しようとすることは無意味になる(皆さん魅力的でお話は面白いけど…)。

半年前ぐらいに読んだブログに「全ては自分の考えである。自分が捕まえている考えをひたすら観察自覚し手放すことが悟りや覚醒や解脱や涅槃への道である」みたいなことが書いてあり、悟りの階梯が詳しく説明されていた。

しかし、「全ては自分の考えである。」と答えが出ているのであれば「以上終わり!」で、悟りや覚醒や解脱や涅槃などの階梯もその人がつくった考えなのだから、ひたすら自己を観察自覚し手放し続けても更に先の真理が現れてくることはないと思う。


私の知人で、若い時に悟る事を目指し瞑想や禅などの修行を一時期集中徹底して行った結果、頓悟(段階を踏まずに一気に悟る事)してしまった方がいる。

禅などでは「人の悩みは過去の後悔と未来への不安がほとんどだから、“いまここ”に生きることが出来れば悩みはなくなって楽になる」ようなことが語られる。

しかし、彼は頓悟して正に“いまここ”だけになった結果に実生活が出来なくなり、社会復帰するのに10年以上も掛かってしまった。

この3次元世界で普通の生活を送るためには、過去の経験から現状認識して未来への予想を立てることによって成立するのだから、常に“いまここ”だけになったら生活は出来ないのは当たり前だと思った。

彼は言う「実は、悟った人は脳が壊れているんですよ!」

それを聞いて「ああ成程ね・・・脳が壊れているのなら、彼らの境地を普通の人が理解できないのはわかる」と納得してしまった。

まあ、伝統があるお寺とかで経験がある先生だったら、人の上手な壊し方を知っているのだと思う。
覚醒した後に講演会を開いたり本を書いたり出来る人は、たまたま巧い具合に壊れただけで、そのまま狂ってしまった人も多くいるのかもしれない。

彼からは「瞑想とか座禅とか気軽に行う人が多いけど、壊れる時は一瞬だから森坂さんも気を付けてくださいね!!」と念を押された。


少し前に東京に住む別の友人に連絡を取ったところ、彼は先日ノンデュアリティのアイドル(?)大和田菜穂さんの講演会に知人に誘われて行ったと言っていた。

彼は若い時インドでグルの元で熱心に修業し、いわゆるワンネス体験やいくつかのシッディ(超能力)も使えるようになったのだが、帰国して暫く経ったら見事に競争好きの相対界の普通の人に戻ってしまったようだ。

講演会の感想を聞いたところ、「〝ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ……”ばかりで質問者と噛み合っていなかったのが面白かったけど、まぁそれだけ……でした」と言っていた。

大和田さんのことは、スピリチュアル界では悟った人と同様に語られる事が多いようだが、覚醒し悟った後に講演会等で商売熱心になることも「ただ起きているだけ」なのが何とも奇妙で面白いと思う。

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出典は忘れましたが、ずっと前に、ある禅師が『社会人の人は、あまり禅を熱心にしないほうがいいと思います。リクレーションくらいのつもりがいいでしょう。』と言っているのを読んだことがあります。

その時はその意味が分かりませんでしたが、やはり経験上、現実遊離してしまう人が多かったのだと思います。

『自由意思はない』などと主張するノンデュアリティは禅よりももっと現実から遊離していますし、人間にとって最も大切である意思や主体を失わせていってしまいます。

上のブログの文章は4年前くらいで、そのころはノンデュアリティが流行っていたのでしょうけど、いまはそうでもないようです。ノンデュアリティYouTubeの多くにはコメントができないようになっています。多分、どの動画も批判のコメントが殺到したのだと思います。

ここにはあなたも、私もいない、ただそれが起きているだけ』、これは非常に危険なメッセージです。

私は、このアドヴァイタの元祖であるシャンカラはよく知っていますからアドヴァイタの真髄はわかっていますし、シャンカラは好きな覚者の一人です。

シャンカラはワンネスを徹底した人ですが、多様性を説明するのに、『錯覚』と『付託』という概念を用います。

シャンカラは深く洞察した覚者ですが、その表面だけを借りてきて極めて浅薄な理論を展開しているのが現代のノンデュアリティだと思います。