たーぼーさんの投稿

ターボー (126.193.83.95)  

高原さんこんばんは。
>禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。
それはそういうふうにも言えますよ。 ただこの場合の自分1人が宙に浮かんでいるっていうのは、我々凡夫が思っているこの2メートル弱の体じゃないですよ。 体は消えるんです。 そこがショーシャンクさんが言われる主体があるってとこになるんですけど、ただこの主体ってのは掴めないんですよ。 何故なら忘我だから。
 
続きです。
>ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました
 
そんな風には思ってないです。
いことをし尽くして消化させるっていうのでは、またカルマを増やすだけで、それは自我の作用ですよ。 私の場合は受け止めるって事ですよ。
信じてもらえないかもしれませんが、私最近分かるんですよ。
仏陀の「あれ有りてこれ有り」っていうが。 例えば何か理不尽な事があって腹が立った時に思い返してみると、あああの出来事が原因だなとか、あの時のあの想念が原因だなとか分かるようになってきたんです。 もちろんただの自分の勝手な思い込みって可能性もあるんですが。 そうすると、この世に理不尽な事って無いんだなと、おぼろげながら分かるようになってきました。 そうすると今までなら理不尽な事で腹を立てて、また反発したりして恨みに思って何かの反発行動をしたり、悪い想念を妄想したりって事がなくなってくるんです。カルマが原因で起きた出来事から新しいカルマを作らなくなってくるんです。 そういう事をカルマを消化したと私は思っています。 ただ完璧に出来ているわけではなくて、頭で分かっていても腹が立ってしまう時もあります。 以前よりは、腹が立つって事は、圧倒的に少なくなりました。
 
 
 
id:kougenn  
「あれ有りてこれ有り」とは十二縁起のことですよ、「識に縁って名色あり、名色に縁って六処あり」。
ターボーさんは「あれ有りてこれ有り」と、ショーシャンクさんの「アインシュタインの石」が混同混乱しているんではないでしょうか?
「あのことがあったから、このことが起こった」と分かるとありますが、因果応報とは我々に簡単に分かる出来ることではないと思います。我々に起こることは、「煙草を飲み過ぎで癌になった」とか原因と結果が明らかな場合もありますが、ほとんどは意味もなく起こります。 京都アニメーションの放火で、33人の人が亡くなりましたが、あのような身元も分からなくなるような悲惨な亡くなり方をしなければならない因果があったかどうかは、何人かの人は過去にこんなことをしたからと結び付けられるかも知れませんが、中には「こんな人がなぜこんな亡くなり方を」と説明のつかない人もいらっしゃると思います。 浦島太郎が竜宮城にいけたのは苛められている亀を助けたからですが、誰もが亀を助ければ竜宮城に行ける訳ではありません。因果応報の物語として「里見八犬伝」があり、「因果の糸に手繰り寄せられて」英雄たちが巡り合い様々な困難を乗り越えていくのが面白いのは物語だからです。
「この世に理不尽なことはないとおぼろげながら分かるようになってきました」とターボーさんはおっしゃっていますが、ぼくに言わせれば、この世は理不尽なことだらけです。京都アニメーションの火事などは、その理不尽の典型ではないでしょうか?あの火事は道理で説明できますか? 仏陀はこの世の理不尽、無常に深く絶望して出家したんではないでしょうか。
こないだ「葉隠」の「死ぬこととと見つけたり」の話をしましたね。仏陀も、家族も財産もすべてを捨てて出家した時に一度死んでいるのです。