仏陀の真意

大乗仏教に長年親しんできた私が、いったん仏教なるものの常識をすべて白紙にして、最古層のパーリ語仏典から『歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか』だけを突き詰めてきました。

積もりに積もった仏教の知識、常識を捨てることは抵抗もありましたが、そのアプローチをして本当に良かったです。

私は、大乗仏教にも上座部仏教(いわゆる小乗仏教)も仏陀の真意とはかけ離れているという直感がありましたが、突き詰めていくと本当にそれを確信しました。

四諦も十二縁起も八正道も四念処も七覚支もつまり三十七菩提分法も戒律も、今までに解釈されていたものとは全く違いました。

最も大事なこと、記憶データの消去、つまり浄化とか懺悔といわれるものが仏教の核からすっぽり抜け落ちていました。

これではどんなに坐禅しても瞑想しても念仏しても、絶対に無量には行き着かない。

記憶の束に気づきそれが苦であることに気づかなければ、精神の変革など絶対にできないのです。

 

例えば、私の好きな仏教者に法然がいます。ある日、泥棒を生業としている男が法然の説法を聞いていたく感激しその場で法然の信者になりました。法然の影響力は非常に大きいと言えるでしょう。しかし、この話には続きがあります。法然に弟子入りしたその泥棒は死ぬまで泥棒をやめることはできなかったのです。念仏の熱心な信者にはなりましたが、泥棒は続けていました。何も変わらなかったのです。

禅の盤珪も優しい人でした。自分は死ぬ思いをして厳しい修行をしましたが、悟ってからは『不生の仏心でござれ』と非常に易しい言葉で説き続けました。確かにその説法を聞いたときには感激するでしょうけど、しかし誰も何も変わらない。

玉城康四郎氏がいうように、何度見性し、印可を受け、数多くの公案を通っても、いつも数日で元の木阿弥に戻ったといいます。

何が抜けているのか、これは本当に謎でした。

仏陀は『教師に握り拳はない』といいました。

すべては秘密にされることもなく後世に伝えられているはずです。

 

なぜ仏陀は、四念処を一乗道と呼んだのか。

なぜ仏陀は、八正道を過去のすべての覚者が辿った古城に至る古道と呼んだのか。

菩提樹下での目覚めの詩偈でなぜ『縁の滅を知って疑いが消滅した』と言ったのか。

『矢』とは何か。

『激流』とは何か。

そして『十二縁起』とは何か。

 

それらのことがはっきりとわかりました。

 

誰一人理解してくれなくてもそれはそれでいいのです。仏陀の真意はこれだという確信が強くなってきましたので、遅れに遅れている自費出版に取り掛かります。

映画『レディ イン ザ ウォーター』にあるように、生きているうちは誰も読まない本であっても物質として残しておけば死んで何十年か後に誰かが見る可能性もあるので。