自分に合った筏を
歴史上の仏陀が本当に言ったことがわかってくる時代
無量心
慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』
七覚支こそ三十七菩提分法の核
『過去の長い時にわたって真人・正しく悟った人々がいたが、それらすべての覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成しました。』
『未来の長い時にわたって真人・正しく悟った人々がいるであろうが、それらすべての覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成するでしょう。』
『現在においてもまた、真人・正しく悟った人である覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成しておられます。』
ここで、過去、現在、未来のすべての悟った人がしたこととして、四念処と七覚支が挙げられています。
七覚支の一番目の『念』は四念処ですから、七覚支に含まれます。
ということはやはり、七覚支こそが三十七菩提分法の核であるということです。
七覚支は
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
です。
最初の『念』は四念処
そして最後の『捨』は四無量心
四無量心こそ智慧であり、八正道の『正見』です。
七覚支の修行によって智慧が生じます。
その智慧こそ、今まで生きていた見方、見解と180度大転換した見解です。
それを『正見』と言います。
七覚支によってはじめて『正しい見解』が生じ
その『正見』に基づいて八正道が流れていきます。
これが流れに乗った者です。
八正道はガンジス川のようなものだという仏陀の言葉があります。
ガンジス川は必ず大海へと流れ込みます。
八正道も涅槃の大海へと流れ込みます。
八正道が根幹
仏陀は死の直前、最後の直弟子になったスバッダにこう説きます。
『いかなる教えと戒律とにおいてでも、八正道が存在すると認められないところには、第一の道の人も、第二も第三も第四の道の人も認められない』
『しかし、いかなる教えと戒律とにおいてでも、八正道が存在すると認められるところには、第一の道の人も、第二も第三も第四の道の人も認められる』
『わが教えと戒律とにおいては、八正道が認められる。ここに第一の道の人がいるし、第二の第三の第四の道の人がいる』
つまり、仏陀が説いた教えに限らず、すべての教えにおいて、八正道が根幹であり、八正道がない教えには『道の人』=真理を体現した人 はいない、ということです。
仏陀は、古城に至る古道の喩えの時も、過去のもろもろの覚者たちが見つけた古道とは、八正道だと言っています。
また、仏陀は『中道とは八正道である』と言っています。
仏陀によれば八正道は根幹であり、故に後世の私たちは、八正道の本当の意味を解明しないといけないのかもしれません。
仏陀が遺言した修行法
パーリ語『大般涅槃経』には、歴史上の仏陀が亡くなるときの言動が詳しく書かれています。
仏陀は、自らの死が3か月後に決定した際に、近くにいるすべての弟子たちを集めて言いました。
『わたしは法を知って説示したが、お前たちはそれをよく保って、実践し、実修し、盛んにしなさい。』
『その法とは何であるか?
それはすなわち、四念処と四正勤と四神足と五根と五力と七覚支と八正道である。
修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちはそれをよく保って、実践し、実修し、盛んにしなさい。』
『さあ、修行僧たちよ。わたしはお前たちに告げよう。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから3か月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう。』
これを見て明らかなように、歴史上の仏陀が亡くなる前に弟子たちに『怠ることなく修行を完成しなさい』と言ったのは、四念処と四正勤と四神足と五根と五力と七覚支と八正道の三十七菩提分法だったのです。
ですから、いまこそ、仏陀が残してくれた三十七菩提分法を解明しなければいけません。
『今まで絶対に書けなかったこと』に書いた解釈を載せます。
あとまだ残されたピースはありますが。
↓↓↓
『仏教についてのひとりごと』で、ある人からどのような瞑想をしているかを聞かれたのですが、その答えが次の文でした。
四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。
私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。
七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。
ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。
このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。
続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。
十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。
大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。
以上のように答えました。ここはアラシのいる掲示板ではないので、その先を書きます。
まず、この解釈の行き着いたのは、仏典『ウダーナヴァルガ』(感興のことば)の次の文が鍵となりました。
『四念処を楽しみ、またさとりを得るためのよすが(七覚支)を楽しみ、』
『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむ』
仏陀のこの言葉により、四念処⇒七覚支⇒四神足⇒八正道
という順番に意味があるのではないかと考えたのです。
また、ダンマパダの『覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている』という言葉から、覚りのよすが=七覚支はかなり構成の中心ではないかと考えました。現に、七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですから、七科三十七菩提分法の中の、四念処と四正勤(精進)と四神足(定)が出てきます。
ここで、七科三十七菩提分法を整理します。
七科三十七菩提分法は、七つの種類の瞑想のことで、
四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
からなります。
七種類の瞑想法なので七科、この項目を全部足せば三十七ありますので三十七菩提分法といいます。
【四念処】
1、身念処 身は不浄であると観じること
2、受念処 受は苦であると観じること
3、心念処 心は無常であると観じること
4、法念処 法は非我であると観じること
【四正勤】
1.断断 いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。
2.律儀断 すでに生じた悪を断滅するように努力する。
3.随護断 いまだ生じていない善を生じさせるように努力する
4.修断 すでに生じた善を増長させるように努力する。
【四神足】
1、欲神足 意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。
2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
3、心神足 想像(真理の観念)に意識を集中する。
4、慧神足 真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。
【五根】
1、信根 仏法僧(三宝)への絶対の信頼。
2、精進根 仏法僧の法(真理)をもとにした努力。
3、念根 仏法僧の法(真理)をもとにした『意識的に繰り返す想い』。
4、定根 仏法僧の法(真理)をもとにした精神集中。
5、慧根 精進⇒念⇒定により、顛倒夢想が正しい見解(智慧)となること。
【五力】
1、信力 信根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
2、精進力 精進根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
3、念力 念根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
4、定力 定根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
5、慧力 慧根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
【七覚支】
1、念覚支
2、択法覚支
3、精進覚支
4、喜覚支
5、軽安覚支
6、定覚支
7、捨覚支
【八正道】
1、正見
2、正思
3、正語
4、正業
5、正命
6、正精進
7、正念
8、正定
【四念処の私的解釈】
1、身念処 身は不浄であると観じること
2、受念処 受は苦であると観じること
3、心念処 心は無常であると観じること
4、法念処 法は非我であると観じること
身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。
眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。
四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。
自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。
しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。
肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。
このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。
心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。
法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。
四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。
仏陀は、四念処観は涅槃に至る一乗道だと言いました。
また仏陀は、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容としています。
四念処観だけ徹底していけば涅槃に至るものであり極めて重要な瞑想法です。
さて、ダンマパダの
『覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている』
という仏陀の言葉ですが、この中の『覚りのよすが』という語句がキーワードです。
『覚りのよすが』とは、三十七菩提分法のことであり、そして七覚支のことであると考えます。
つまり、七覚支は三十七菩提分法の要約、短縮形、あるいは中核ではないかということです。
七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
そして、七覚支の中の、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心です。
そうすると
四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心
となります。
こまかくしていくと
身念処⇒受念処⇒心念処⇒法念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足⇒四無量心
四念処の最後、法念処は、私の解釈では、積み上げてきた記憶の束や観念の束が私ではないと観じることです。
『法』という言葉は、①真理 ②観念 ③事物 と、大きく分けて3つの意味があり、どれを取るかによって意味が全く違ってきます。仏教の解釈が混とんとしているのも、頻繁に使われていて極めて重要な『法』という言葉に全く違う意味があるからです。
七覚支の 念⇒択法⇒精進 も、その『法』の意味をどうとらえるかで解釈は全く違うものになっています。
択法の私の解釈は、法(観念)が真理(無量)に合っているかどうかを選択することです。
法念処は、積み上げてきた法(観念・記憶)のことです。
その積み上げてきた五官の記憶の束は、『私という中心』を形成し、無量から離れさせています。真理に触れたことのない人はほとんどすべて積み上げてきた観念・記憶は無量と反対のものです。真理に触れたことのある人に限りほんの少し無量に沿った観念があるくらいです。択法とは、無量に反する観念・記憶の束を捨て、無量に沿う観念を選択することです。
次の精進は、四正勤です。『いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。すでに生じた悪を断滅するように努力する。いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。すでに生じた善を増長させるように努力する。』ということです。
ここでいう善、ここでいう悪とは何でしょうか。善とは、真理(無量)に沿った考え・観念のことで、悪とは真理(無量)に沿わない考え・観念のことです。
ということは、 『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』となります。
つまり、法念処や択法で、自分の中に積み上がった観念を総点検して、真理(無量)に沿った観念と沿わない観念に分けて、『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』のです。
この解釈で初めて、七覚支の 念⇒択法⇒精進 がつながります。これ以外の解釈では、念⇒択法⇒精進 が意味のないものとなってしまいます。
そして、念⇒択法⇒精進 を進めていけば、無量に沿う観念が増えていくため、喜が生じます。心の中で大多数を占める『無量に沿わない観念』を断滅していきますから、心も身体も軽くなって落ち着いていきます(軽安)。『無量に沿わない観念』とは、貪瞋痴の三毒のどれかなので、あればあるほど重く苦しくなっていくものだからです。
ここまでで、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安 です。
軽安の次は定(samādhi)です。
念⇒択法⇒精進 は心の大掃除で、今まで積み重ねてきた膨大な誤った観念を徹底的に除去していきます。心も身体も軽くなって初めて、集中することができます。集中しようとする強い意欲が湧きます。これが欲神足です。
欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足
1、欲神足 意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。
2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
3、心神足 想像(真理の観念)に意識を集中する。
4、慧神足 真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。
定が進むことによって、顛倒妄想の見方が180度大転換し、はじめて智慧=正しい見方が生じる。
そして、その 智慧=正しい見方 こそ 四無量心。
(もともと無量心であるということが正しい見方)
これにより
念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨
の七覚支が完成です。
五根も五力も
信⇒精進⇒念⇒定⇒慧
です。
これは、今まで述べた修行体系のおおすじを表しています。
信は仏陀の説かれた真理に絶対の信頼を置くことです。
その真理を繰り返してついには智慧とすることです。
この三十七菩提分法(八正道を除く)によって 智慧=正しい見方 が生じます。
その正しい見方が、八正道の正見です。
つまり、八正道とは、八つの道徳項目などでは全く無くて
七覚支などによって生じた 智慧=正しい見方 に基づいた思考、言葉、行為、生活のことであり、顛倒妄想を大転換して智慧が生じてはじめて実践できるものです。
ただの道徳をいくら守っても涅槃、解脱には行き着きません。
これが私の解釈です。
慈悲喜捨
コメント欄
イエス・キリストと十字架
ショーシャンクさんこんばんは。 ちょっと私とは、イエスの解釈が違うようです。 私は「仏道探求」の玉木康四郎さんと同じ解釈です。 wikiで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を検索してみると以下のようです。 タイトルの「Eli, Eli, Lema Sabachthani?」とは、ヘブライ語で「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味で、イエス・キリストが処刑される際に言った言葉である。 この「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」を玉木康四郎さんは、イエスが最後の最後になって神に楯突いた場面だと見ましたが、私もそう思います。 つまりイエスの復活とは、禅でいう「大死一番、絶後再臨」だというのが私の解釈です。 おそらく玉木康四郎さんも遠藤周作さんも、その解釈だと思います。 ただその動機が遠藤周作さんは、イエスが私の様な私欲(執着の愛)を捨てきれない弱き者の為に、イエスは復活したという解釈だと思います。それが「沈黙」で遠藤周作さんがモチーフにした 弱き者の神イエスだと思います。
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記憶と思考と快楽
第一歩
必要とされたいからではなく
仏陀の真意