筏とは

id:kougenn  

それでは、まず素朴な疑問をひとつ。 「筏」です。龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。 ショーシャンクさんの示された浄土系、法華系は、明らかに龍樹の大船に乗るための教えで、禅系はどうか分かりませんが、禅も大乗仏教である以上、たぶん同じなのでしょう。 「筏」という観念は、大乗の日本では既に失われていると考えざるを得ず、その中で「自分に合った筏を見つけるべき」というショーシャンクさんのお話は、ある種の、方便にしか過ぎないようにも思えるのですが、いかがでしょうか?
 
筏であっても、大船であっても同じことです。つまり『方法』という意味で言っています。大乗仏教では、小乗仏教は一人悟ろうとするエゴイスト、自分たちは多くの人を乗せる大船だと主張しました。
それを信じられてそれで自分が救われたり気が楽になるのであれば、それはその人に合っているということです。同じように、キリスト教であってもイスラム教であっても信仰することで本当に安心感を得られるのであれば、それはそれでいいではないですか。キリスト教徒の白人女性がイスラム教に改宗することも増えているような記事を前に見たことがあります。女性は顔を覆わなくてはいけないなどとかなり制限がある教えになぜ?と思いましたが、その白人女性は化粧やおしゃれを性の対象としての魅力を高めなければいけないという束縛に感じて、西洋文化よりイスラム教を選んだというようなことが書かれてありました。
その女性にとってはイスラム教が『feel good』だったのでしょう。
ですから、人は、自分に合う筏、船を見つけるべきだと思うのです。
私も、自分に合う筏を見つけようと思っています。
そして、それを歴史上の仏陀が言ったこと、歴史上の仏陀が残してくれた筏とは何なのかを探求しています。
ヤフー掲示板でも何度も言いましたが、私は歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかが知りたいだけであり、だから『それは仏陀が言ったことではない』というように言ってきましたが、歴史上の仏陀が言ってるから正しいとか仏陀が言ったことと違うから間違いだと言ってるわけではありません。
そのことも何度も言ってきました。
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。
声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
舎利弗などは仏陀が最も信頼していた弟子です。
声聞の代表は舎利弗です。仏陀が最も信頼している直弟子たちを罵倒する龍樹とは何者なのでしょう。
キリスト教で言えば、ペテロなどの十二使徒を全否定する教えが主流となったようなもので、いかに変なことであるかわかります。
 
 
ただ、私は歴史上の仏陀が本当に言いたかったことは何か、仏陀が残してくれた筏は何かを探求しているだけなので、龍樹が『feel good』な人がいればその教えを進んでいけばいいと思います。私には興味がないというだけです。
 
世界には、『筏』=方法 がない教えも数多く存在します。
クリシュナムルティが代表的ですね。
彼は『真理に至る道はない』と断言しました。
すべての方法は、精神を縛るものだとしました。
筏を完全否定しました。
そして『ただ見る』ことを説きました。
そして世の中には、そのような教えは数多くあります。
『ただ見る』『ただ気づく』それだけでよく、それ以外は自我だという考えです。
それで悟った気分になっている人もごまんといます。
しかし、クリシュナムルティはその最晩年に『誰も変わらなかった』と漏らします。
世界各地を教えて回って教えを聞いた人は膨大な数になりますが、その中の誰も何も変わらなかったのです。
 
ノンデュアリティも同じく方法論がありません。
つまり筏がないのです。
 
方法がない場合、本を読んだり講演を聞いたりしたときは、悟った気分になったり一時的に気が楽になったりするかもしれませんが、それだけです。
何も変わらないですし、最も悪いことは日常生活で主体性が失われていってしまうことです。
 
私は普通の人はやはり『筏』は必要だと思いますし
自分に合った筏を探すべきだと思います。
 
大乗仏教仏陀が残してくれた筏を捨て去ったため、替わりの方法論として、経典を読誦することや仏の姿をありありと瞑想することなどを真理に至る道としてきました。それが一般大衆には難しかったので、口で唱える念仏こそ正行とする教えが生まれたりしました。
それも方法という意味で筏、船だと思います。
 
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
もし龍樹の言うように、自らの悟りを求めることがエゴイストで卑怯者であるなら、釈尊はそうなりますよ。
最古層のスッタニパータの中でも更に最古層である箇所に釈尊が出家し悟りを求めた動機が赤裸々に書かれています。
それによると
『人々がふるえているのを見て、また人々が相互に抗争をしているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。』
『世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。』
『わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、見つけなかった』
 
このように書かれています。
およそ、原始仏典のどこにも、釈尊が世界の人々を救おうと決心して出家した、などという言葉はありません。
釈尊は、自ら恐怖が起こり、苦を自覚して、その恐怖や苦から逃れたいと思って、この世のすべてを捨てて出家したのです。
奥さんと生まれたばかりの息子を捨てて。
王である父を捨てて。皇太子の責任も放棄して。家臣も捨てて、領民も捨てたのです。
父が死んだときに国王の後継者はいなくなるのです。生まれたばかりの赤ん坊は国王の仕事はできません。
この世で最も放棄してはいけない地位を放棄して家を出たのです。周囲の人全部に迷惑をかけたのです。
もし龍樹が、自らの悟りを求めることがエゴイストだというなら、釈尊は史上最大のエゴイストでしょうね。
その証拠に、悟ったときに、釈尊はこの教えは説かないでおこうと思ったではないですか。それを梵天が頼みに来てやっと説くことにしたのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

自分に合った筏を

id:kougenn  

ぼくは原典で読んだことがないので、サンスクリット語パーリ語の違いも関心はありませんでした。玄奘三浄の漢訳がサンスクリット語を訳したことは知っていたので、パーリ語よりもサンスクリット語という言葉の方が普通に耳に残っています。パーリ語はpipitさんが詳しくてネット辞書のサイトの情報を提供してくださっていたのは覚えています。 今あらたに調べてみると南伝仏教はすべてパーリ語で書かれていたということで、サンスクリット語(文語)とパーリ語(口語)の違いも初めて知りました。 そう言えば、日本に南伝仏教が入ってきたのはヨーロッパから英語訳で入ってきたのが最初だとかで、考えてみれば、日本は東の果ての最後の仏教国で、仏教寺院数から言えば世界一の仏教国かと思っていましたが、ヨーロッパから仏典を輸入してる実は仏教後進国だったのだなあと思ったりしています。 最近、少し、ターボーさんのことが気になっています。ターボーさんの投稿が、とても断片的で、「二人を殺した報い」みたなことは書かれているのですが、ショーシャンクさんが「二人を殺したとはどういう意味ですか?」と質問してもスルーで、自分の感情と感傷のままに、誰も意味が分からないことを、自分さえ分かっていればいいとでも言うように勝手放題に書き散らしているのに、ぼくは少しイラッとして、ほとんど意味もないようなコメをターボーさんに書いただけに、それもあって。 ターボーさんは、ショーシャンクさんの人柄を頼って、あのような投稿をしたんだと思います。 ターボーさんだけでなく、蜘蛛の巣に捕まったように、どんなにジタバタと足掻いても、どうしてもそこに捕らえられたままで逃げられなくて苦しんでいる人は多いと思います。 ショーシャンクさんなら、ターボーさんだけでなく、そういう苦しみを訴える人たちに、どんな言葉を掛けてあげれますか?難しいでしょうか?
 
 
まず、人は誰も、自分自身に合った筏を見つけるしかありません。
これは一番最初にたーぼーさんにも言ったことです。
私が探求している筏が他の人に合うかどうかは分かりませんし、私は今、仏陀が本当に言ったことは何であったかを探求している途中です。つまり、筏を探している途中にしか過ぎません。
Yahoo掲示板の東哲カテに『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っていた人は多くいますが、私は一度も悟ったなどと言っていません。
また、人に教えたくてウズウズしている人も数多くいました。
まずは、『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っている人に、その人の筏を教えてもらって自分に合うかどうか試してみるのもいいことです。
いろいろいましたね、禅系、浄土系、法華系、龍樹系、原始仏教系、アドヴァイタ(ノンデュアル)系。
それぞれ自分に合った筏を見つけるべきですね。
 
ただ、私が最近強く思うのは、人は生まれてからこれまでの潜在意識の中の記憶やデータをクリアにしていかなくてはいけないということです。
そのように溜まりに溜まった記憶の束こそが『矢』であり『私』であり『苦』なのです。
それを『苦』と本当に実感を込めて認識できるまではその束はクリアにはできません。
愛おしいものだからです。自分の存在基盤だからです。
無理やりに記憶を消去しようとすると逆に強く執着して離せなくなります。
『苦』と見極めるしかありません。
 
たーぼーさんも、自らの筏を探すと言われていましたから、今はその途中でしょう。
自分に合った筏が見つかることを祈ってます。
 
 

歴史上の仏陀が本当に言ったことがわかってくる時代

id:kougenn  

ぼくは、仏陀が生きていた初期の頃の仏教は、仏陀は我々が手を伸ばせば手の届く存在だったのだと思います。それが、次第に、大乗仏教になってからの仏陀は、我々がどんなに手を伸ばしても届かない神とか仏とかの遠い存在へと変わって行ったのだと思います。手の届く存在にあった仏陀と、永遠に手が届かない仏陀が、同じ存在であるはずはありません。ぼくは、そんなふうに考えています。
 
 
そうですね。
例えば、仏教の言語と言えばサンスクリット語だとほとんどの人は思っています。
しかし、歴史上の仏陀は、自分の教えをサンスクリット語で説くことを禁止したのをご存知ですか?
 
引用したものを貼ります。
釈尊の時代の正統バラモンの言語はサンスクリット語でした。西のギリシャ語に似たア-リア民族の言語で文法の整備された格式高い言語でした。インドエリ-トに相応しい言語でした。もとバラモン教徒から釈尊の弟子となった兄弟の仏弟子が居ました、釈尊の高尚なさとりの内容を卑俗な言語で説くことは仏教の冒涜になると考え、釈尊サンスクリット語で説法するように願いました。釈尊はその要求を却け、だれでも理解できる一般民衆の言語で説くと宣言し、サンスクリット語の採用を禁止しました。この言語方針はのちに仏弟子の幹部に継承されて南伝の上座部系仏教となり、スリランカ・ミャンマ-及びタイ国ら東南アジア仏教となります。』
 
 
サンスクリット語は古代インドのヴェーダなどで使われた聖典専用の言語、バラモン専用の言語です。古代のインド哲学の基礎であるために哲学用語や抽象的な言葉、形而上学の用語などが完璧に備わっている言語です。
しかし、歴史上の仏陀は、サンスクリット語で仏の教えを説くことを禁止しました。
あくまでも、マガダ語やパーリ語など、その地方の大衆が日常会話で使っている言語で説きなさいと命じたのです。
 
これを見ても、後世になればなるほど、仏陀の真意から大きく乖離していったことがわかります。後世の仏教者はサンスクリット語を使って哲学的な思弁に耽るようになりました。
 
 
仏陀の真意は、長い歴史の中で、歴史の堆積物に深く埋もれてしまいました。
 
やっと今になって初めて、歴史上の仏陀が本当は何を言ったかが分かるようになりました。
ごく最近になるまで、仏陀の肉声に一番近いものはどれか、さえ全くわからなかったのです。
明治以前は、最古層で仏陀の肉声に最も近いスッタニパータは阿含経典群にも入っていないため日本に入って来てなく日本人が読むことはできませんでした。
 
 
パーリ語仏典やパーリ語辞典がどんな地方でも入手できるようになったのは、ネットができ、Amazonができてからずっとあと、ごく最近のことです。
今までは、パーリ語原典は専門の仏教学者の独占物であり、一般の大衆はその仏教学者の解釈、フィルター、色眼鏡を通してしか知り得ませんでした。
 
歴史上の仏陀が言ったことを誰でも簡単に調べることができるようになった今から、仏教は様変わりするでしょう。
歴史上の仏陀が言いたかったことは本当は何なのか、それを探求する人も多くなるはずです。
 
今までの仏教者や仏教学者が解説してきたことをいったん白紙にして、最古層の仏典、仏陀の肉声に一番近い仏典のパーリ語原典から見ていけば、いかに仏教が仏陀の真意からかけ離れたものになっているか愕然とするはずです。
 
 
 
 

無量心

id:kougenn  

「喜捨」は、世間で、寄付、お布施という意味の方が一般的になってますね。 確かに、最初に「慈」があって、一対として「悲・喜」があって、最後に「捨」があると読む方が繋がりと座りが良いように思います。 七覚支の最後にも「捨」があって、ショーシャンクさんが捨が一番大切と言うことが分かる気がします。 龍樹が大智度論の中で「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」と面白いことを言っています。 七覚支の「喜」も「快」と読むと確かに意味が繋がってきます。
 
 
 
 upekkhā(捨)は、慈悲喜捨の中で最も理解しづらい語です。
私は、今までの解説書で、upekkhā(捨)について納得できる解説を読んだことがありません。
 
「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」という解釈はとんでもないですね。
慈・悲・喜の3種の心を捨ててどうするのですか。
 
四無量心とは4つの心に分かれているわけではありません。
無量心はひとつです。
無量心とは無量の大海のようなもの。
そして多様性=現象はその大海の上に浮かんでは消える波のようなものです。
慈悲喜捨とは大海の性質です。
あるいは、大海と波の関係の性質を表したものといった方がいいかもしれない。
 
仏教の最初期には無量心は究極の境地とされていました。
しかし、仏陀の死後、どんどん低い境地と見なされるようになりました。
仏陀の真意は失われていったのです。
 
そこで仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教です。
大乗仏典を貫く大きなテーマは慈悲、特に『悲』です。
生きとし生けるものを救おうとする宇宙の働き、これを大乗仏典では解き明かそうとしました。
これは初期大乗の法華経から後期大乗の大日経まで一貫してます。
 
ただ、それも、自分の他に仏があり、その仏の慈悲にすがるというような方向にどんどん流されていき、せっかくの仏陀の真意の復興運動も失われていきました。
 
 
 

慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』

id:kougenn  

「慈悲喜捨」にも「七覚支」にも「喜」が出てきます。文字通り「喜ぶ」という意味なんでしょうが、何かしっくり納得できません。何を喜ぶんでしょうか?
 
 
 
 
慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』は漢字では同じ『喜』ですが
 
慈悲喜捨の『喜』は
muditā
 
七覚支の『喜』は
pīti
 
です。
 
慈悲喜捨の四無量心は、今までは、慈悲と喜捨というように解釈されていますが
私は、慈はスッタニパータにそれだけが出てくることからもわかるように、無量心の原型、最初期には慈無量心が説かれていたと考えます。
『生きとし生けるものが幸せであれ』ということです。すべてを生かす宇宙の働きです。
私はむしろ、悲と喜が対照しているように思えます。
『悲』は苦しんでいるものを救いたいという宇宙の働き
『喜』は真理によって喜びに復帰したものを喜ぶ働き
だと思っています。
 
七覚支は念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨です。
その中の『喜』pīti は身体的感覚に関する快です。
念⇒択法⇒精進 
つまり
四念処⇒択法⇒四正勤 
をすることによって
身体も心も軽くなり安定して身体的な快=喜を感じることです。
 
 
ですから、慈悲喜捨の『喜』と七覚支の『喜』は同じ漢字でも全く意味が違います。
 
 
 
 

七覚支こそ三十七菩提分法の核

パーリ語大般涅槃経』にこうあります。

『過去の長い時にわたって真人・正しく悟った人々がいたが、それらすべての覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成しました。』

 

『未来の長い時にわたって真人・正しく悟った人々がいるであろうが、それらすべての覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成するでしょう。』

 

『現在においてもまた、真人・正しく悟った人である覚者は、五つの蓋いを捨て去って、人を弱くする心の煩悩を明らかに知って、四つのことを心に思い浮かべる修行(四念処)のうちに心をしっかりと安立し、七つの悟りのことがら(七覚支)を如実に修行して、無上の正しい悟りを完成しておられます。』

 

 

ここで、過去、現在、未来のすべての悟った人がしたこととして、四念処と七覚支が挙げられています。

七覚支の一番目の『念』は四念処ですから、七覚支に含まれます。

ということはやはり、七覚支こそが三十七菩提分法の核であるということです。

 

七覚支は

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

です。

最初の『念』は四念処

そして最後の『捨』は四無量心

 

四無量心こそ智慧であり、八正道の『正見』です。

 

七覚支の修行によって智慧が生じます。

その智慧こそ、今まで生きていた見方、見解と180度大転換した見解です。

それを『正見』と言います。

 

七覚支によってはじめて『正しい見解』が生じ

その『正見』に基づいて八正道が流れていきます。

これが流れに乗った者です。

八正道はガンジス川のようなものだという仏陀の言葉があります。

ガンジス川は必ず大海へと流れ込みます。

八正道も涅槃の大海へと流れ込みます。

 

八正道が根幹

 仏陀は死の直前、最後の直弟子になったスバッダにこう説きます。

 

『いかなる教えと戒律とにおいてでも、八正道が存在すると認められないところには、第一の道の人も、第二も第三も第四の道の人も認められない』

『しかし、いかなる教えと戒律とにおいてでも、八正道が存在すると認められるところには、第一の道の人も、第二も第三も第四の道の人も認められる』

『わが教えと戒律とにおいては、八正道が認められる。ここに第一の道の人がいるし、第二の第三の第四の道の人がいる』

 

 

つまり、仏陀が説いた教えに限らず、すべての教えにおいて、八正道が根幹であり、八正道がない教えには『道の人』=真理を体現した人 はいない、ということです。

 

仏陀は、古城に至る古道の喩えの時も、過去のもろもろの覚者たちが見つけた古道とは、八正道だと言っています。

 

また、仏陀は『中道とは八正道である』と言っています。

 

仏陀によれば八正道は根幹であり、故に後世の私たちは、八正道の本当の意味を解明しないといけないのかもしれません。

 

 

 

仏陀が遺言した修行法

パーリ語大般涅槃経』には、歴史上の仏陀が亡くなるときの言動が詳しく書かれています。

 

仏陀は、自らの死が3か月後に決定した際に、近くにいるすべての弟子たちを集めて言いました。

 

『わたしは法を知って説示したが、お前たちはそれをよく保って、実践し、実修し、盛んにしなさい。』

『その法とは何であるか?

それはすなわち、四念処と四正勤と四神足と五根と五力と七覚支と八正道である。

修行僧たちよ、これらの法を、わたしは知って説いたが、お前たちはそれをよく保って、実践し、実修し、盛んにしなさい。』

『さあ、修行僧たちよ。わたしはお前たちに告げよう。

もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい。久しからずして修行完成者は亡くなるだろう。これから3か月過ぎたのちに、修行完成者は亡くなるだろう。』

 

これを見て明らかなように、歴史上の仏陀が亡くなる前に弟子たちに『怠ることなく修行を完成しなさい』と言ったのは、四念処と四正勤と四神足と五根と五力と七覚支と八正道の三十七菩提分法だったのです。

 

ですから、いまこそ、仏陀が残してくれた三十七菩提分法を解明しなければいけません。

『今まで絶対に書けなかったこと』に書いた解釈を載せます。

あとまだ残されたピースはありますが。

  ↓↓↓

 

『仏教についてのひとりごと』で、ある人からどのような瞑想をしているかを聞かれたのですが、その答えが次の文でした。

 

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道の七科三十七菩提分法は重なっている項目が非常に多いですね。
特に、念・精進・定は七科のほとんどに出てきます。

私は、四諦の集諦滅諦は十二縁起の順観逆観だと思っていますので、四諦十二縁起は一体です。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。
私は、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心の完成と捉えて瞑想しています。

ですから、実際の瞑想の順番は
四諦十二縁起⇒四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心 です。
この瞑想を繰り返すことによって初めて正見解(sammā‑diṭṭhi)が生じる。
そのsammā‑diṭṭhiを基に日常生活で八正道を行なう、という順番です。

このうち、喜と軽安は、四念処・択法・四正勤の結果として身心に生じるものと考えています。
つまり、喜(pīti)が生じて、心も身体も軽くなる感じですね。
軽くなったときにsamādhiが生じる。

続きですが
十二縁起の瞑想にしても三十七菩提分法にしてもすべて私独自の解釈ですので
役には立たないとは思いますが、一応。

十二縁起に関しては、無明から五蘊を集めようとする潜在力というか意志がはたらき
実際に五蘊を仮合させ感覚器官が生じ、外物に触れることによって感覚が生じ
それが好き嫌いなどを生じて自我が形成されることを解き明かしたものだと考えていますので
そのありさまをまざまざと観じます。
それは抽象的な観法ですることもあり、自らの実際の自我の成立過程を観じる観法ですることもあって、その両方をしています。

大まかに言えば以上です。
ネットの掲示板で書けるのはここまでです。

 

以上のように答えました。ここはアラシのいる掲示板ではないので、その先を書きます。

 

まず、この解釈の行き着いたのは、仏典『ウダーナヴァルガ』(感興のことば)の次の文が鍵となりました。

 

『四念処を楽しみ、またさとりを得るためのよすが(七覚支)を楽しみ、』

『四神足と八つの部分よりなる道(八正道)を楽しむ』

 

仏陀のこの言葉により、四念処⇒七覚支⇒四神足⇒八正道

という順番に意味があるのではないかと考えたのです。

 

また、ダンマパダの『覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている』という言葉から、覚りのよすが=七覚支はかなり構成の中心ではないかと考えました。現に、七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 ですから、七科三十七菩提分法の中の、四念処と四正勤(精進)と四神足(定)が出てきます。

 

ここで、七科三十七菩提分法を整理します。

七科三十七菩提分法は、七つの種類の瞑想のことで、

四念処・四正勤・四神足・五根・五力・七覚支・八正道

からなります。

七種類の瞑想法なので七科、この項目を全部足せば三十七ありますので三十七菩提分法といいます。

 

【四念処】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

【四正勤】

1.断断   いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。

2.律儀断  すでに生じた悪を断滅するように努力する。

3.随護断   いまだ生じていない善を生じさせるように努力する

4.修断    すでに生じた善を増長させるように努力する。

 

【四神足】

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

【五根】

1、信根   仏法僧(三宝)への絶対の信頼。
2、精進根  仏法僧の法(真理)をもとにした努力。
3、念根   仏法僧の法(真理)をもとにした『意識的に繰り返す想い』。  
4、定根   仏法僧の法(真理)をもとにした精神集中。
5、慧根   精進⇒念⇒定により、顛倒夢想が正しい見解(智慧)となること。

 

【五力】

1、信力   信根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
2、精進力  精進根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
3、念力   念根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
4、定力   定根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。
5、慧力   慧根(基礎能力)を深めて行って内外の力となった完成形。

 

【七覚支】

1、念覚支
2、択法覚支
3、精進覚支
4、喜覚支
5、軽安覚支
6、定覚支
7、捨覚支

 

【八正道】

1、正見
2、正思
3、正語
4、正業
5、正命
6、正精進
7、正念
8、正定

 

 

【四念処の私的解釈】

1、身念処  身は不浄であると観じること

2、受念処  受は苦であると観じること

3、心念処  心は無常であると観じること

4、法念処  法は非我であると観じること

 

身とは肉体です。受とは肉体の感覚です。心とは思考です。法とは、観念です。

眼耳鼻舌身意の対象物を色声香味触法といいます。眼耳鼻舌身意を六根、色声香味触法を六境といいます。眼という感覚器官の対象は色(形)です。耳は声を、鼻は香を、舌は味を、身体の触覚は触れるものを、そして意識は考える対象を、その対象としてます。ですから、法とは、イメージ、記憶ということです。

四念処は、肉体を不浄と観じ、感覚を苦と観じ、湧き上がる思考を無常と観じ、イメージ・記憶を非我と観じます。

自分の美しい肉体をなぜ不浄と観じなければならないかと思う人もいるでしょう。しかし、肉体が美しいというのは人類の幻想です。それは異性の気を惹くため、あるいは対外的に良く扱われたいため起きた幻想です。その幻想を維持するために夥しい化粧品や香水、衣服などが作られました。

しかし、ありのままに見ると、身体のあらゆるところから排せつ物が出ています。どんなに頑張っても、年を取るたびに劣化していきます。死体になると、どんどん腐っていきます。それがありのままの肉体です。

 

肉体の感覚が苦であるというのはどういうことでしょうか。感覚には、苦もあれば楽(快感)もあり、苦でも楽でもない感覚もあります。苦受(苦痛の感覚)が苦であることは当然分かります。棒で強く殴られたら痛いですし苦ですね。これを苦苦といいます。楽受(快感の感覚)は心地よいですね。美味しいものを食べたり、異性に触れたりする楽受は望ましいものでしょう。しかし、楽受の対象は永久ではなく、壊れたり、離れたりします。愛着する対象が壊れるとき苦に変じます。これを壊苦といいます。それ以前に美味しいものを食べて楽受なのはほんの一瞬です。ある量を超えると苦しみに変じます。苦でも楽でもない非苦非楽受も、感覚器官の衰え老化によって苦に変じます。これを行苦といいます。

このような説明よりも、受(感覚)が苦であるもっと直接的な理由は、感覚が束縛だからです。否応なく感覚しなければならないのです。強く殴られたらどんなに感じないようにしようと思っても痛みを感じてしまいます。一点に固定化されてしまう。束縛であり苦しみです。

心は無常であること。これは、湧き上がる思考を見ればわかりますね。とりとめのない思いが次々に湧いて出ます。外部からの刺激によって記憶の束が反応することが多いです。連想であったり、前にその人から受けた良いあるいは悪い経験であったり、です。眼で見るもの、耳で聞くものは次々に入ってきますから、思考も瞬瞬その都度反応していき、とめどもない思いが毎日大量に湧き上がるままになっています。外部からの刺激が変わればまた違う思考が出てきますから、コロコロ変わって無常です。

法が非我であること。つまり、これまで積み上げてきた記憶の束や、積み上げてきた観念、イメージを私ではないと観じること、これは、四念処観で最も難しい観法なので一番最後に来ています。この観法を実感するためには、十二縁起を理解する必要が出てくるかもしれません。これは後で説明します。

 

四念処は、身、受、心、法につき、不浄、苦、無常、非我をそれぞれ観じる瞑想法ですが、つまるところは、非我を観じていくのです。不浄であり苦であり無常であるというありのままのリアリティを洞察して、それらへの執着、愛着、自己同化から離れ、厭離の心を生じさせ、身・受・心・法につきどれも私ではないということを徹底させるのです。

仏陀は、四念処観は涅槃に至る一乗道だと言いました。

また仏陀は、四念処が自帰依法帰依(自燈明法燈明)の内容としています。

 四念処観だけ徹底していけば涅槃に至るものであり極めて重要な瞑想法です。

 

 

さて、ダンマパダの

覚りのよすがに心を正しくおさめ、執着なく貪りを捨てるのを喜び、煩悩を滅ぼし尽くして輝く人は、現世において全く束縛から解きほごされている

という仏陀の言葉ですが、この中の『覚りのよすが』という語句がキーワードです。

覚りのよすが』とは、三十七菩提分法のことであり、そして七覚支のことであると考えます。

つまり、七覚支は三十七菩提分法の要約、短縮形、あるいは中核ではないかということです。

七覚支は、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨 です。

そして、七覚支の中の、念は四念処、精進は四正勤、定は四神足、捨は四無量心です

そうすると

四念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒四神足⇒四無量心

となります。

こまかくしていくと

身念処⇒受念処⇒心念処⇒法念処⇒択法⇒四正勤⇒喜⇒軽安⇒欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足⇒四無量心

 

四念処の最後、法念処は、私の解釈では、積み上げてきた記憶の束や観念の束が私ではないと観じることです。

『法』という言葉は、①真理 ②観念 ③事物 と、大きく分けて3つの意味があり、どれを取るかによって意味が全く違ってきます。仏教の解釈が混とんとしているのも、頻繁に使われていて極めて重要な『法』という言葉に全く違う意味があるからです。

七覚支の 念⇒択法⇒精進 も、その『法』の意味をどうとらえるかで解釈は全く違うものになっています。

択法の私の解釈は、法(観念)が真理(無量)に合っているかどうかを選択することです。

法念処は、積み上げてきた法(観念・記憶)のことです。

その積み上げてきた五官の記憶の束は、『私という中心』を形成し、無量から離れさせています。真理に触れたことのない人はほとんどすべて積み上げてきた観念・記憶は無量と反対のものです。真理に触れたことのある人に限りほんの少し無量に沿った観念があるくらいです。択法とは、無量に反する観念・記憶の束を捨て、無量に沿う観念を選択することです。

次の精進は、四正勤です。『いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。すでに生じた悪を断滅するように努力する。いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。すでに生じた善を増長させるように努力する。』ということです。

ここでいう善、ここでいう悪とは何でしょうか。善とは、真理(無量)に沿った考え・観念のことで、悪とは真理(無量)に沿わない考え・観念のことです。

ということは、 『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』となります。

 

つまり、法念処や択法で、自分の中に積み上がった観念を総点検して、真理(無量)に沿った観念と沿わない観念に分けて、『いまだ生じていない【無量に沿わない観念】を生じさせないように努力する。すでに生じた【無量に沿わない観念】を断滅するように努力する。いまだ生じていない【無量に沿う観念】を生じさせるように努力する。すでに生じた【無量に沿う観念】を増長させるように努力する。』のです。

この解釈で初めて、七覚支の 念⇒択法⇒精進 がつながります。これ以外の解釈では、念⇒択法⇒精進 が意味のないものとなってしまいます。

 

そして、念⇒択法⇒精進 を進めていけば、無量に沿う観念が増えていくため、喜が生じます。心の中で大多数を占める『無量に沿わない観念』を断滅していきますから、心も身体も軽くなって落ち着いていきます(軽安)。『無量に沿わない観念』とは、貪瞋痴の三毒のどれかなので、あればあるほど重く苦しくなっていくものだからです。

 

ここまでで、念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安 です。

 

軽安の次は定(samādhi)です。

念⇒択法⇒精進 は心の大掃除で、今まで積み重ねてきた膨大な誤った観念を徹底的に除去していきます。心も身体も軽くなって初めて、集中することができます。集中しようとする強い意欲が湧きます。これが欲神足です。

欲神足⇒精進神足⇒心神足⇒慧神足

1、欲神足  意識を集中統一しようとする強い意欲を持つ。

2、精進神足 すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。

3、心神足  想像(真理の観念)に意識を集中する。

4、慧神足  真理の観念への集中により得られた智慧に意識を集中する。

 

定が進むことによって、顛倒妄想の見方が180度大転換し、はじめて智慧=正しい見方が生じる。

そして、その 智慧=正しい見方 こそ 四無量心。

(もともと無量心であるということが正しい見方)

これにより

念⇒択法⇒精進⇒喜⇒軽安⇒定⇒捨

の七覚支が完成です。

五根も五力も

信⇒精進⇒念⇒定⇒慧

です。

これは、今まで述べた修行体系のおおすじを表しています。

仏陀の説かれた真理に絶対の信頼を置くことです。

その真理を繰り返してついには智慧とすることです。

この三十七菩提分法(八正道を除く)によって 智慧=正しい見方 が生じます。

その正しい見方が、八正道の正見です。

つまり、八正道とは、八つの道徳項目などでは全く無くて

七覚支などによって生じた 智慧=正しい見方 に基づいた思考、言葉、行為、生活のことであり、顛倒妄想を大転換して智慧が生じてはじめて実践できるものです。

ただの道徳をいくら守っても涅槃、解脱には行き着きません。

これが私の解釈です。

 

 

慈悲喜捨

id:kougenn  

高原です。たまたま、ネットで「日本仏教における因果応報の研究」(新田 新 著)という論文を開いたので読んでいました。 そこに「仏教を大陸の先進文化としてだけでなく、自利および利他業を説く『宗教』として受け止めたのは聖徳太子(574-622)だったであろう。太子の仏教理解は後世の日本仏教の方向を決定付けたと思われる」とし、聖徳太子は菩薩になろうとした日本最初の人でもありました。 「ここ(維摩経義旒)で太子は菩薩行の本質という大乗仏教の根本問題を論じている。その中心は菩薩と病の関係である。太子は言う。菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。この疑問は『仏国品』における菩薩行についての疑問を一層深化したものである」と言い「太子は自己の力で日本を仏国土とし、痴愛に悩む衆生を救おうとした。しかし衆生の痴愛は無限である。救済する自分と救済されるべき衆生との乖離は余りに大きい。恐らく太子は菩薩行に倦怠と絶望を感じていたに違いない」とし「かくして太子は余りに高い理想(十七条憲法)を掲げたために、大きな苦悩を自ら抱え込むことになった。晩年の太子が政治の第一線から退いて著述に専念したのも、理想と現実との矛盾に苦しみ、現実に絶望したからであろう。『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」と書いています。 菩薩について、ショーシャンクさんは、人間が菩薩になることが可能だと思いますか? 釈迦も菩薩にはならなかったし、弟子にも菩薩になるようには一言も言ってないと思います。 この論文を読んでいても、本当に、人が菩薩になろうと思ったら、涅槃とかと正反対の地獄道のように険しい道に思えるのですが。
 
 
 
菩薩とは、本来は『修行者』という意味しかありません。
悟ってなく、悟りに向かって努力している者を菩薩と呼びました。
ですから、釈尊の前世なども菩薩と呼びます。まだ悟ってないからです。
また、釈尊の人生でも菩提樹下で悟る前は菩薩、つまり修行者です。
 
それが日本に入ってきて、『仏になったら生まれ変わることができないから、わざと自分は悟らずに菩薩のままでいて衆生を救う』という思想が出てきました。
頭でこねくり回したような考えです。
 
『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」というような文章しか書けないのであれば、その人は仏教などしないほうがよほどましですね。
 
『世間虚仮、唯仏是真』は、仏陀の真意とも通じるものです。
『現象はすべて泡のようなもの、ニルヴァーナ=仏の境地だけが真実』ということです。
この言葉を仏教の根幹としたのは聖徳太子は凄いと思いますね。
決して、『苦悩と絶望の表白』などではありません。
 
菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。
 
まあ、よくこんなくだらないことを書けるものです。
病人を救いたい医師が患者と一緒に病気になって永遠に病の床に伏せなければならないのであれば、病人を救えるはずもないですね。
 
こんなくだらないことを書くのであれば、書いた新田新という人が率先して衆生のために病の床に伏せばいいではないですか。口先だけで何を言っても何の意味もありません。
 
 
 
ターボー (126.35.19.127)  
>>『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」というような文章しか書けないのであれば、その人は仏教などしないほうがよほどましですね。 『世間虚仮、唯仏是真』は、仏陀の真意とも通じるものです。 『現象はすべて泡のようなもの、ニルヴァーナ=仏の境地だけが真実』ということです。 この言葉を仏教の根幹としたのは聖徳太子は凄いと思いますね。 決して、『苦悩と絶望の表白』などではありません
ショーシャンクさんこんばんは。 私も全く同感です。 もう日本の仏教学者で信用出来そうな人が少ないです。 聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」とは、私はヤフー掲示板でショーシャンクさんと議論した空に実体があるかどうかという話だと思います。 つまり宇宙意識がこの世の実体であると、確信した時の言葉だと思います。
 
 
 
id:kougenn  
名前、間違いでした。新田章という人でした。wikiでは哲学者となってて、多くはありませんがニーチェと仏教の著作があるようです。先に上げた論文に「平成27年度、博士学位請求論文」とあったのですが、この論文が認められて、つい最近、文学博士号をとったようです。 ショーシャンクさんのおっしゃるような、最初は「修行者」という意味しかなかった「菩薩」という言葉が、観世音菩薩や地蔵菩薩と言われる「衆生を救う」存在という意味が遥かに強くなっています。 ぼくは維摩経義疏という本は読んでませんが、「菩薩と病」はその人が言っている訳ではなく、維摩経義疏の中で聖徳太子が言っていることのようです。続きがあって、 「太子は、この菩薩と病の関係について旧義と新義とを挙げている。旧義においては、衆生の実病は永遠である。これに対して新義には2種があり、1種は生死煩悩の常病であるが、もう1種は除滅の可能な病だとする。太子は新義を採り、維摩が寝ているのは第二の病(除滅可能の病のみ)を癒さんがためだとする。太子は衆生の痴愛を2種に分かつことによって、菩薩を永遠の苦悩と憂鬱から救うのだが、梅原猛も言うように、太子のこの解釈には無理があり、新義より旧義の方が正しいと思われる。衆生の病は容易に癒しえぬ果てしないものであり、そうであるからこそ菩薩はそれを救おうとして仮の病の相を取るのである。とすれば、菩薩は永遠に苦悩と憂鬱を免れないはずである」 つまり、聖徳太子は「菩薩は治る可能性のある衆生を癒せば良い(治らない病はほっておけば良い)」という新しい解釈をしたのですが、この論文の書き手と梅原猛氏は「聖徳太子の解釈は間違いで、旧義(治らない病の人も含めてすべての病人を癒さなければならない)が正しい」と言っているのです。 ショーシャンクさんが言われた医者と患者の関係には「大悲」は存在しませんが、菩薩と衆生の間には「大悲」があるので、菩薩は病める衆生に常に寄り添い、共に悲しみ、共に苦しまなければならないというのです。 ショーシャンクさんも「頭でこねくり回したような考えです」とおっしゃいましたが、菩薩の解釈にしても、仏教は誰も出来ないような無茶苦茶なことを仏道だと言ってきたから、どんどん、おかしな方に曲がって行ったのだと思います。
 
日本に入ってきてから仏教は極めて抒情的になっていきました。
私は、様々な理由から、仏陀の真意は無量心だと思っています。
その無量心は後には、慈悲喜捨の四無量心と言われるようになりました。
慈悲喜捨の中で最もその根幹をなすのは捨=upekkhā です。
 
捨=upekkhāがわからないと無量心はわからないし、慈にせよ悲にせよ、『捨』が根底にない慈、悲は執着となります。
 
そもそも中心がなくならなければ無量は現れませんし、記憶の束である中心を持ったままで、他人に慈悲を施そうとしても、そのようなものはニセモノです。
慈悲は対象に施すようなものではなく、無量心の状態だからです。
 
しかし、残念ながら、捨=upekkhā について、心の底から納得ができる解釈を私はどんな仏教書からも得られませんでした。
 
菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。』というような言葉が氾濫している日本の仏教書からは得るところはないですね。
 
 
 
 
ターボー (126.35.19.127)  
ショーシャンクさんこんばんは。 昨日書いた私のコメントは訂正します。 私は昨日、聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」という言葉を聖徳太子が宇宙意識がこの世の実体であると確信した時の言葉だと書きましたが、これは間違いです。 これだと空観のみになってしまいます。 ん〜まだ悟りが抜けないです。悟りに関してはかなり内省して、仏陀の「あれあれば(因)これあり(果)」で落としてきたつもりなのですが、何か形而上の命題で書きたい投稿があると、やはりその落としたつもりの記憶を引っ張りだしてしまう癖が抜けないです。 おそらく、まだ内省が浅いのだと思ってます。 もっと集中力がつけばもっと深くまで考えられると思うのですが。 因みに高原さんがお書きになっている、聖徳太子が書いた新義の菩薩の徐滅可能な病いとは、私はこの悟りを落とす事だと思います。 生まれた記憶がある人はいないでしょうが、悟りの場合だけは別で大人になってから生まれ変わった記憶が残る為に、それが自我(自分)を構成する強烈な核の記憶になり中々落とすのが難しいです。
 
 
 
id:kougenn  
ショーシャンクさんの言葉について考えていました。 「中心」とは「自我」というか「我執」のことですね。 「捨」については調べてみました。 「捨」を普通に読めば「捨てる」という意味なので、ぼくもそう読んでいましたが、「捨」にはむしろ「捨てる」という一般的な意味と違う意味があって、少し驚きました。 人々(生きとし生けるもの)に平静な心を持つこと。 自分の執着に対して無関心になる。 心が平静で苦楽に傾いたり揺らがないこと。 以上が主な「捨」の意味ですが、この意味は「静けさの境地に入ること」ということなのかなと「捨」の意味をまた別の見方で見てみました。
 
 
『無量心』を考える時、私は大海と波の喩えを使います。
波は、形があるようで実は常に変化し、生じては滅しています。
『滅するものであるから有とはいえない。生じたものであるから無とはいえない。』
つまり『空』です。仏陀が語った『空』の本来の意味はこういうことです。
 
波は現象ともいえ、多様性ともいえるでしょう。
 
しかし、波がどうであれ、大海は不動です。波のあり様には影響を受けません。
波のあり方によって左右されることはありません。
これこそが『捨』=upekkhā だと思っています。
これは私独自の解釈ですので参考にする必要も信じる必要もありません。
他の誰もこのようなことは言っていません。
しかし、私はこれを確信してます。
                 (2019年6月10日13時30分)
 
 
 
 
id:kougenn  
ショーシャンクさんの文で「滅するものであるから有とは言えない、生じたものであるから無とは言えない」とありますが。 何かその文脈に違和感を感じて、「滅するものであるから無とは言えない、生じたものであるから有とは言えない」の方が意味が通じるような気がするのですが、どうなんでしょうか? ぼくの方に資料がないので調べられません。すみません。
 
 
時間があるときに出典を明らかにしたいと思いますが
たぶん相応部経典あたりではなかったかと思います。
 
趣旨はこうです。
空や有無中道など後世になって様々な解釈がなされ理論が形作られていきましたが
仏陀が本当に言ったことは非常に簡潔なことです。
つまり、
『生じたものは必ず滅する。泡のようなものであり空である。』
 
そして、世界は有なのか無なのか、と問われ
『生じているのだから、無とは言えない』
『滅していくものだから、有とは言えない』
と答えた、ということです。
 
この世界を観念的に『無』という人はいますが
実際に生じているではないか、ということです。
でもそれであればこの世界は『有』ではないかという人はいますが
滅していくのであるから、『有』とは言えない、
と答えたということです。
 
つまり、仏陀は理論を観念的にこねくり回した人ではなく
誰が見ても厳然たる事実そのままを直視していった人なのです。
 
つまり、生じては滅するものを『私』と見なしてはいけない、ということ、
生じては滅するものを『私』と見なすから『苦』であるということ、
これが仏陀の根本だと思います。
 
 
id:kougenn  
理解しました。 「生じているものだから、(あるんだから)無とは言えない」 「滅していくものだから、(なくなるんだから)有とは言えない」 言葉のニュアンスで、この言い方ならよく分かりました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

コメント欄

ターボー (126.35.203.25)  

ショーシャンクさんこんばんは。 私が30年も悟りを捨てられなかったのは、やはり2人を殺してしまったという罪悪感にあると思うのです。 そしてその当時の一体化していた自分と彼女を殺してしまったのは事実だと思います。 しかも自分がその罪悪感を持っているという事にさえ気づかなかった。 自分がそれほどの罪悪感を抱えているという事さえ気づかないまま、自分で自分を縛っていたのが現状だと思います。 玉木康四郎さんの仏道探求という本の中で、イエスキリストは最後の最後になって神に楯突いたという記述がありました。 私もその意見に同感でイエスキリストは、最後の場面で神に楯突いたのだと思います。 その動機は、私のように交際していた彼女を裏切れなかったというような私欲の動機ではなく、遠藤周作さんの「沈黙」にあるように私ような私欲(執着の愛)を捨てきれない弱い人間の為に抵抗してくれたのかもしれません。 私は今年の3月に、二個の重い(鉄アレイ)を粗大ゴミに出してから、物凄く心が楽になりました。 つまり地獄というのは、ここにあると思うのです。 地獄というのは、あの世の出来事ではなく、自分が抵抗した為に一体化していた前世の自分と彼女を殺して、その罪悪感に心の奥底(本源の自己)では気づいていたのに、表層の自己(自我)では気づいてなく、現象としてしっかりと罪を償わされました。 「全ての現象は思いが作る」この場合の思いとは自我の自己が気づいてない(雑念が多く集中力がないから、そこまで入っていけない為)心の奥底の思いが現象を作るのだと思います。
 
 
id:kougenn  
ただ「捨てよう」と思っていては、絶対に離れていかなくても、自分の中で、ある条件が揃えば、つきものが取れるように自然に剥がれていくものなんだと思う。 「無償の愛」とか「自己犠牲」とか美辞麗句に酔って、「愛」とか「犠牲」とかそういう胡散臭い言葉や、他人との関係性に答えを求めようすればするだけ、核心から遠くなってゆきます。 すべての答えは自己の中にあることに気がつかなければ、どんな境地にも行き着くことはありません。
 
 
ターボー (126.35.203.25)  
kougennさんのコメントを読んで、限界まで突っ込んだ投稿を書いたんですが、投稿出来ないです。 何故? この世界が消滅してしまうから?
 
 
コメントの内容の規制は一切していませんので、どんな内容でも投稿できるはずです。もう一度投稿してみてください。

イエス・キリストと十字架

ターボー   

ショーシャンクさんこんばんは。 私が30年も悟りを捨てられなかったのは、やはり2人を殺してしまったという罪悪感にあると思うのです。 そしてその当時の一体化していた自分と彼女を殺してしまったのは事実だと思います。 しかも自分がその罪悪感を持っているという事にさえ気づかなかった。 自分がそれほどの罪悪感を抱えているという事さえ気づかないまま、自分で自分を縛っていたのが現状だと思います。 玉木康四郎さんの仏道探求という本の中で、イエスキリストは最後の最後になって神に楯突いたという記述がありました。 私もその意見に同感でイエスキリストは、最後の場面で神に楯突いたのだと思います。 その動機は、私のように交際していた彼女を裏切れなかったというような私欲の動機ではなく、遠藤周作さんの「沈黙」にあるように私ような私欲(執着の愛)を捨てきれない弱い人間の為に抵抗してくれたのかもしれません。 私は今年の3月に、二個の重い(鉄アレイ)を粗大ゴミに出してから、物凄く心が楽になりました。 つまり地獄というのは、ここにあると思うのです。 地獄というのは、あの世の出来事ではなく、自分が抵抗した為に一体化していた前世の自分と彼女を殺して、その罪悪感に心の奥底(本源の自己)では気づいていたのに、表層の自己(自我)では気づいてなく、現象としてしっかりと罪を償わされました。 「全ての現象は思いが作る」この場合の思いとは自我の自己が気づいてない(雑念が多く集中力がないから、そこまで入っていけない為)心の奥底の思いが現象を作るのだと思います。
 
 
ターボーさん、この一連のコメントの中で出てくる、彼女との経緯を知らないので、全くわからない部分があります。『2人を殺してしまった』という文が何を意味しているのかがわからないのです。2人というのはターボーさんと初恋の彼女のことでしょうか。『罪悪感』も何に対しての罪悪感かがわかりません。
 
イエス・キリストのことが出てきましたので、触れますと、私はイエス・キリストが最後の最後になって神に楯突いたとは思いません。
キリストはずっと前から、自分が十字架にかけられて死ぬこと、そして3日後に復活することをわかっていました。それが自分の生まれる前から神によって定められていることを受け入れていました。
映画『パッション』を観ればよくわかりますが、その当時の十字架の刑は、人間に最大の苦痛を与えるように考えられた残酷極まりない刑です。
最後の晩餐のあと、つまり十字架刑の前の晩に、キリストは一人、丘の上でひたすら神に祈り、問いかけます。本当に、この残酷な刑を受け入れて死ななければならないのだろうか、他の道はないのだろうか、と。
しかし、それが定められたものだと知り、それを受け入れる決意をします。
十字架上で言った『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、旧約聖書詩篇22篇1節の言葉であり、その預言が成就するために言ったのだという聖書学者の説があり、私もその方が正しいような気がします。
遠藤周作はどうも人間の弱さ、信仰の薄弱さにばかりフォーカスしているように思えます。
 
私はキリスト教とは全く無縁ですが、私が理解しているところでは、キリスト教において最も重要であるのは『復活』であって、神として復活するために肉なるもの、弱きもの、罪なるもの、を十字架刑にしたのだと思います。
 
 
 
ターボー (126.35.203.25)  
ショーシャンクさんこんばんは。 ちょっと私とは、イエスの解釈が違うようです。 私は「仏道探求」の玉木康四郎さんと同じ解釈です。 wikiで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を検索してみると以下のようです。 タイトルの「Eli, Eli, Lema Sabachthani?」とは、ヘブライ語で「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味で、イエス・キリストが処刑される際に言った言葉である。 この「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」を玉木康四郎さんは、イエスが最後の最後になって神に楯突いた場面だと見ましたが、私もそう思います。 つまりイエスの復活とは、禅でいう「大死一番、絶後再臨」だというのが私の解釈です。 おそらく玉木康四郎さんも遠藤周作さんも、その解釈だと思います。 ただその動機が遠藤周作さんは、イエスが私の様な私欲(執着の愛)を捨てきれない弱き者の為に、イエスは復活したという解釈だと思います。それが「沈黙」で遠藤周作さんがモチーフにした 弱き者の神イエスだと思います。
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
『イエスが最後の最後になって神に楯突いた』というのではすべてが台無しになってしまいます。
最後の最後になってそれまでと違って『神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや』と神に疑問を投げかけ神を疑い、神に抗い、神に不満を吐露し、神に楯突いたのであれば、イエスは肉に負けたということになります。それでは、大死一番とは真逆です。神に死に切れてないということになります。
 
イエス・キリストの生涯のすべては『復活』にあるのです。
十字架刑をはじめそれまでのすべてのイエスの生涯は、人類に『復活』を見せるためにあったというのが私独自の解釈です。
それは、弟子たちを見ればわかります。
十字架刑の時は散り散りに逃げ惑っていた弟子たちが、イエスの復活を見てからがらりと変わります。
あの、なんとも情けないペテロが、イエスの復活を見て全く変わり、全身全霊で信仰に生きるようになり最後は十字架に自ら望んで逆さにかけられます。
 
そして、イエスは復活を示すことで、人は皆、復活しなければならないというメッセージを送ったのだと思います。禅語でいえば、確かに『大死一番絶後蘇生』でしょう。しかし、最後の最後になって神を疑い神に楯突いたのであれば大死一番どころではありません。
 
エスが十字架上で言った『渇く』という言葉を言ったのも、『聖書の言葉が実現するため』であり、兵士が服をくじ引きで分け合ったのも『聖書の言葉が実現するため』だったのです。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』も『渇く』も『服をくじ引きで分け合った』も旧約聖書に出てくる預言です。
 
私も『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』はどう解釈すればいいかをずいぶん考えました。
エスのすべての行動は、旧約聖書の預言を成就して復活を見せるためにあったというのが私の解釈です。
 
 
 
 
 
 

記憶と思考と快楽

ターボー   

>>中心を持ってしまうことが苦であること、つまり生きている間にどんどん記憶やデータを溜め込んでいって中心を形成していること自体が束縛であり苦であることを本当に実感しなければ、それをクリアにはできません。 なぜかというと、そのような記憶の束を『愛おしいもの』『楽しいもの』『貴重なもの』『かけがえのないもの』『快楽に満ちたもの』さらに踏み込んでいえば、自分の存在そのものとして捉えているからです。 それゆえに愛おしくてたまらないのです。 そしてそれを苦と見切るまでは、手放すことはできませんし、無理に手放そうとするとかえって執着を強めてしまいます。
 
ショーシャンクさんこんばんは。 全く仰ってる通りだと思います。 ちょっと日本にどれだけいるか分かりませんが、私のように悟りを捨てられないで苦しんでいる人の為、また自分で更にしっかり内省して完全に捨て切る為にも、この話題に拘りたいのです。 禅的な手法で悟りを捨てる場合は、只管打坐の場合は起きてくる悟りの想念(妄想)に手を付けないという手法が採られるように思います。 これはこれで一つの手法として、有効と思いますが私のように悟りを捨てられないのではなく、突き詰めると彼女との縁が捨てられなかった場合は、やはりしっかり内省してその苦しみの元が何処にあるのかを見る、つまりは仏陀が言うところの矢を抜かないと中々想念(妄想)が収まらないと思うのです。 色々な記憶が自分の存在を構成しているというのも、その記憶が何故起きたのか、つまり仏陀が言うところの「あれあれば(因)これあり(果)」この因果関係をしっかり内省して解明しないことには、中々記憶がなくならないように思うのです。 私は、悟りの想念がなくなってきたので、これはいいと思って、そのやり方で随分とあの出来事が原因で、その心の影としてあの現象(苦しみや悲惨な出来事)が起きたのかと分かったことがあります。 まだ内省出来ているのは、自分の全人生の中で10分の1程度ですけど、思いだすと腹が立つ思い出や不愉快になる思い出など、強く自我=自分を作り上げていた想念(妄想)から手を付けてます。 今まで思い出すと怒りが込み上げてきていたのが、かなり和らいできて、それが最近の想念の少なさになってきたのかと思っています。 ショーシャンクさんが引用されていた、ヘーゲルの「歴史とは絶対精神の自己展開である」という言葉が私にも少しずつ分かってきました。 また歴史の一部である仏教史も絶対精神の自己展開であるということもおぼろげながら分かってきました。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
文章の中でよくわからない部分があるのですが。
 
『私のように悟りを捨てられないで苦しんでいる』
『起きてくる悟りの想念(妄想)』
 
ここがよくわかりません。
『悟りを捨てる』とか『悟りの想念』とはどういう意味ですか?
 
 
ターボー   
こんばんは。 「悟りを捨てる」「悟りの想念」とはどういうものかとお訪ねですが、それはショーシャンクさんが仰ってるように、記憶の束が自分の中心を強固にしている(作り出している)という事です。 私たちは、体に自己同化して中心を持っていますから、自分が主で記憶するとつい思ってしまうのですが、事実は逆で記憶の束が自我を支えていると言うことです。 自分が悟ったと悟りを持ってしまっているのです。 悟れば自己を忘れますから、悟りがないのですが、自我が戻ると悟りの記憶も蘇るのです。 そしてその記憶を忘れない(捨てない)という事は、自我をより強めてしまうのです。 悟りに自我(自己存在)を依存している状態になって、悟る前より自我が強くなってしまったりするのです。 面白い事に、私はヘビースモーカーで毎日タバコを2箱吸っていたのですが、想念が少なくなってくると自然とタバコの本数が減るのです。 つまり「あらゆる現象は心の影である」という仏陀の教えに照らすと、記憶の束とは、現象面で言えば記憶のタバコじゃないかと (笑)私は結構本気でそう思っています。 だからタバコに依存するって事は記憶に依存しているって事で、現象面からタバコを禁煙するというアプローチと、記憶をほじくり返して妄想に浸らないという心理面からのアプローチの両面作戦が取れると思います。 これ結局心の表層では自我を無くしたいと思いながらも、心の奥底では自分が消滅してしまうっていうのを、何処か恐れているように思います。だから記憶とタバコに依存してしまうのだと思います。 今一日でタバコ一箱くらいですけど、もう辞めようと思ってます。
 
 
わかりました。ターボーさんが言う『悟りを捨てる』という言葉は、見性した体験、悟った体験の記憶が他のあらゆる記憶と同じように自我という中心を形成しているので、その記憶もクリアにする(捨て去る)ということですね。
 
タバコは私もヘビースモーカーでした。
学生のときは凝ってパイプを愛用したこともありました(笑)普通の紙巻きたばこでは5分くらいで終わってしまうのですが、パイプですと1時間の交響曲を聴く間楽しめるので最高でした。
しかし、20代後半くらいでタバコは一切やめて、それからは1本も吸ってません。
 
要は人にも物にも依存しないということが究極の主体性です。
嗜好品としては、私は赤ワインもコーヒーも楽しむことがありますが、例えば、これから先それらが何年なくなっても苦にはならないです。あれば楽しめますがなければないで全然大丈夫です。
すべてのものは依存した途端に苦に変じます。
特に嗜好品は、快感の記憶が鮮烈に残り、その記憶を反復することによって快楽となり、その快楽を味わいたいという欲求がどんどん強くなることによって習慣性となって依存となるのです。それがないと精神が保てなくなったら強度の依存です。
 
人もそうです。私は誰かと何時間でもおしゃべりを楽しむことはできます。しかし、人がいなくても、ひとりでそれ以上に楽しむことができるので、人に依存することはありません。
 
思考は依存を強めようとしてきます。
人にも物にもなにものにも依存しないと決めたら、新しい地平が開けるはずです。
 
 
ターボー (126.35.203.25)  
kougennさんのコメントを読んで、限界まで突っ込んだ投稿を書いたんですが、投稿出来ないです。 何故? この世界が消滅してしまうから?
 
投稿できないような制限は一切してませんので、できるはずですが?
 
 
 
 
 
 
 

第一歩

ターボー   

ショーシャンクさん、こんばんは。 仰ることはよく分かります。 「無償の愛」=見返りを期待しない愛だけが、真実の愛だという事でしょうけど、これは口で言うほど簡単ではないと思います。 相手を利用する愛(金銭面を含め)が無償の愛でないのは誰でも分かりますが、自己を犠牲にする愛もショーシャンクさんが仰る様に自己愛の場合が多々あるという事に、中々当人は気づきにくいと思うのです。 表面的には自己を犠牲にしている様に見えても、心の奥底では何らかの見返りを求めている。それを無意識に計算しているのが人間だと思います。 高原さんが仰るように、恋愛とは真剣にやればやるほど、酔っ払っているようなものだと思います。 つまり特定の誰かだけを愛するという形が、既に真実の愛ではなく、執着なんだと思います。 地球の裏側に住んでいる人だろうが、隣の家に住んでいる人だろうが平等に愛するという無縁の愛だけが、真実の愛なんだろうと思います。私などは、とても凶悪犯罪を犯した人や自分に危害を加えた人など愛せないと思う人が多いです。 だから私は、自分の事が愛せなかった(許せなかった)のだと思います。 実はあの時に一体化していた自分と彼女の2人を殺してしまったという罪悪感をこの30年抱えていたように思うのです。 今年に入ってから、初恋の彼女の事をずっと思い出していて、その当時2人で聞いていた歌などを仕事の運転中に聞いていたりしてたんですが、今年の3月くらいに急に吹っ切れて何か心が急に軽くなったような感じがあったのです。 思い返してみると、ちょうど同じ時期に長年どうしても捨てられなかった重い(これは想いだと思います)鉄アレイを2個粗大ゴミに出していました。 「現象は全て心の影である」おそらくあの時にその彼女との絆を捨てたのだと思います。 私はずっと悟りを忘れられずに苦しんでいたのですが、私が本当に忘れられなかったのは初恋の彼女であり、神に楯突いてでも守りきった初恋の彼女との縁が切れなかったのだと思います。 最近は凄く心が軽くなり、頭の中の想念も少なくなり、また悟りの事を思い出すことも、ほぼ無くなりました。 仏陀が言っていた苦の矢を抜くという大切さを痛感しました。 中々しっかり内省しないと、矢が刺さっている事にも気づかないのだなぁと思いました。
 
 
無償の愛などという宗教的な言辞は忘れてください。
無償の愛だの、無我だの、というような宗教的な言辞では、人は何一つ変わらないのです。
悟りすましたような人が言う無我だのという言葉を聞いて、一時的にはいい気分になることはあるかもしれませんが、そんなものはほんの一瞬です。
誰かの講演を聴いても、その時は感動したとしても講演会場を後にして何時間か経てばその興奮も冷めてしまうでしょう。そして何も変わりません。
クリシュナムルティが最晩年に言ったように『誰も何も変わらなかった』ですね。
 
中心を持ってしまうことが苦であること、つまり生きている間にどんどん記憶やデータを溜め込んでいって中心を形成していること自体が束縛であり苦であることを本当に実感しなければ、それをクリアにはできません。
なぜかというと、そのような記憶の束を『愛おしいもの』『楽しいもの』『貴重なもの』『かけがえのないもの』『快楽に満ちたもの』さらに踏み込んでいえば、自分の存在そのものとして捉えているからです。
それゆえに愛おしくてたまらないのです。
そしてそれを苦と見切るまでは、手放すことはできませんし、無理に手放そうとするとかえって執着を強めてしまいます。
 
いままでのすべての宗教が失敗したのはそういうことです。
例えば、性欲をコントロールすれば神の国に行けるという教えがあった場合、その教えを信じる人は神の国に行くために性欲を捨てようとします。とても強く惹かれるものでありながら捨てようとした場合何が起きるかというとより一層強い執着となるのです。
 
仏教徒は無我という言葉を盛んに使いますが、頭の中で無我の理論(龍樹の言うようなすべては縁起だから無自性であり実体がなく無我である)ということを覚えたにしても、座禅をして思考をなくしたときに無我を悟り印可を受けたとしても、中心のなりたち、そして今現在も一瞬一瞬、感覚とその記憶、思考により中心がどんどん形成されていることに気が付き、それが苦であると心底痛感し、それをクリアにしていかなければ無量には達することができないのです。
それがいま、はっきりわかりました。
 
ですから、中心が存在しているのに、無償の愛を持たなければ、などと自分を強制してしまうと自分の精神は引き裂かれてしまうのです。
これが宗教的な人間の現状です。
 
宗教など忘れて、自己重要感を高めるために人に依存しないこと、これをしていけば劇的に変わります。
自己重要感を自分だけで高めるようにすること、これが第一歩です。
 

必要とされたいからではなく

ターボー    

ショーシャンクさんおはようございます。 ショーシャンクさんが以前から仰っていた龍樹が勝手に仏陀の悟りを龍樹独自の物に作り変えたという言葉が、私にはずっと分かりませんでした。 しかし、華厳経を読んでみると正に目から鱗が落ちる思いでした。 「心は諸々の如来を作る」 この世の現象世界が全て心の影を表したものであるということは、前回書いた想念は環境より上位にあると同じであり、また私自身も頭(理屈)では分かるのです。 しかし、やっとたどり着いた悟りの境地までも心の影(表れ)であるという事は、全く考えもしませんでした。 仏を絶対視していました。 実は昨日書いたように、私はその当時初恋の彼女と恋愛をしていました。中学の同級生でとても可愛く中学の時には席が隣になったこともありました。私が高校を中退してから17歳の時に2年ぶりくらいに街で再開して、交際を始めたのですが、その彼女との付き合い方が仏の姿として現れたのではないかと思うのです。 彼女も高校を中退していたので、私達は一緒に飲食店で働きはじめました。そうする内に、彼女の精神が少しずつ私にもたれかかってきて(依存)いる事に気付きました。感覚的に私に心を預けていることが分かるのです。私はその当時は、自分は彼女に依存していないと思っていました。時々セルフチェックをして、彼女に依存しているか確認してました。彼女が私に一方的に依存しているだけで自分は何者にも依存せずに、真っ直ぐ立って支えていると当時は思っていました。しかしながら今からしっかり考えますと、相互依存だったのではないかと思うのです。私は彼女に頼られ心を支える事で、何か自分が大きな男になったような気分になり、気持ちよくなってしまっていたのです。自分の自己重要感を満たしてくれる存在として彼女に依存していたと言えるのではないかと思うのです。しかし、今から考えますと本当の心は彼女が私から離れていく恐怖心があったと思うのです。彼女が私にもたれかかってくる事で彼女が私から逃げられない、私から離れられないと心の奥底で安心感を持っていたのではないかと思うのです。実は当時もそのことは、薄っすらとは気づいていましたが、自分の汚い所を見たくなくて、意図的に考えないようにしていました。そして弱い女の心を支える事が男の務めだと勘違いした信念を持ち、彼女がどれだけ依存してきても支えきれるだけの男にならなければと、自分の身体と精神を鍛える事に邁進しました。 しかし、今から考えますと本当に彼女の事を思うならば、彼女の精神状態など見ながら徐々に甘やかすだけではなく、厳しく接する時は厳しく接して、少しずつ彼女を自立する方向に持っていくべきだったと思います。彼女の我儘を何でも聞いてしまい、どんどん私に依存させてしまいました。親バカの親が子供を甘やかして、子供がいつまで立っても自立出来ないケースがよくありますが、その恋愛バージョンをやってしまったと思うのです。ですから「心は諸々の如来を造る」如来と言えども現れた現象は全て自分の心の影だとすれば、確かにその当時の私は龍樹の相互依存の関係性だったと思うのです。 では、何故禅などの悟りも龍樹的になるかと言えば、よく禅者がいう悟りの機縁という事が関係していると思います。過去の有名な禅者の本などを見ても、何らかの音であったり、人から叩かれた事であったり、人それぞれ様々な縁を機縁として悟っています。私は、ずっと禅者がいう「縁に触れて」という言葉の意味が分からなかったのですが、つまり何らかのそれは音だったり、光だったり、叩かれた痛みだったりとの対象との一体化だと思うのです。私の場合は物や音などの対象ではなく、自分の彼女との一体化であり、禅者の方と同じ心の影として相依性縁起として如来の姿を感じとったのだと思います。
 
 
 
例えば、世間を見渡しても、美人でもっといい男と一緒になれるはずなのにというような女性が、とんでもなくだめな男とばかりくっつくことはよくあることです。経済力もなく職もころころ変わり飛び抜けた外見でもなく社交性もなくときどき自分に暴力まで使うという、いわば最低の男といっしょになる女性がいるものです。
それはなぜかわかりますか?
それは『この人は自分がいなければ生きていけないんだ』『私が絶対に必要な人なんだ』という感覚を与えてくれるからです。
つまり、その女性の自己重要感を満たしてくれるのです。経済力もあり社交的でもある男であれば、自分でなくてもいくらでも他の女性と一緒になることができるでしょう。そういう人となら彼女の欠乏した自己重要感を満たさないのです。
 
ゆえに、人はただひとりあらねばならない、のです。
ただひとりある、ということは誰にも依存しないということです。
 
もっといえば、人に自分の自己重要感を高めてもらわないといけないという状況から脱することです。
人から褒めてもらうこと、感謝されること、必要とされること、これによってしか自己重要感が満たされずそれがない場合には欠乏感、渇望の感情が強く湧き出るのであれば、その人は自由ではなく束縛されているのです。
 
自分だけで無量感そのものであることができること、それが究極です。
ゆえに『愛するものを作るな』と仏陀は言います。
 
人は精神が無量の状態にある時だけ、人に対して本当に優しくなれるのです。
お金が欲しいから、認めてほしいから、褒められたいから、必要とされたいから、自己重要感を満たしてほしいから、優しくふるまうのではなく
ただただ無量の大海であることによって優しいのです。
 
 
私は、禅の方法を筏と考える人はそれでいいと思いますし、その人なりの筏を見つければいいと思います。
私の言っていることが正しいか間違っているかなんて自分にもわかりません。
ただ、自分がそうだと確信しているというだけです。
 
 
 
id:kougenn  
高原です。 ターボーさんの書き込みを読ませていただいていますが、ターボーさんが、何がダメだったのか、自分がどうなりたいのか、何がどうだと言いたいのか、何が苦しいのか、さっぱり分かりません。 このブログを読んでいる他の人たちは、分かるんでしょうか? 意味不明なのは、ぼくだけ? 何か、ご自分に酔っているだけのようにも思えるのですが。
 
 
 

仏陀の真意

ターボー   

 

>>ブルックスは人のいい善人です。私も大好きな老人です。しかし、希望を失ってしまいます。環境に負けてしまいました。想念は環境より上位にあるのに、環境を無視して主体的に想念を出すことができなかった。
 
ショーシャンクさんおはようございます。 日本人は形に拘るという事ですが、私は地獄に行くか天国に行くかの分岐点はショーシャンクさんがお書きになったショーシャンクの空にの上記の解説の一点に尽きると思うのです。 想念がなくなってくると、つまり自我が少なくなってくると、今まで強固だと思っていたこの現実世界が薄くなって、それほど強固だと感じられなくなると思うのですが、それでもこの現実世界が夢幻だとは中々思い切れないと思うのです。 特に恋人がいたりして、特定の愛する人を持っている場合には、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、その愛する人を置き去りにしてショーシャンクさんが仰る様にI HOPEとはいかないように思います。 私は日本で大乗仏教が広まって、あまり小乗仏教が広まらなかったのは、この点にあると思います。 禅者で有名な澤木興道老師の本に小乗を批判的に見る視点から、「小乗の解脱は自我の分別がついた状態にある」との記述がありました。 I HOPEと行くためには、澤木興行老師が言うように残された人々を置き去りにして、自分だけ行かないといけないわけです。 その残された人々も自分が作り出した想念であると、頭では分かっていても、その時点では自他の分別が付いていますから、ロボットではない生身の人間ですから中々難しいと思うのです。 以前、ショーシャンクさんがヤフー掲示板で無明を形成する意思だとお書きになった時に、私は大死一番絶後再臨の「再び」が形成する意思だと書きました。 ヤフー掲示板ではその形成する意思を持った動機を自分が死にたくないという様な動機でまとめてしまいましたが、真実はそうではなく、その時に私には自分より大切に思っていた彼女がいたのです。 自分が死にたくないという気持ち(生存欲)が0だったとは言えませんが、大部分の動機は形成する意思を持つ直前にその彼女の事が脳裏に浮かんだのです。 彼女を置き去りにして、黙って逝くわけにはいかないという気持ちが湧きました。その時に一瞬は、ショーシャンクさんがおっしゃるように環境より想念の方が上位にあるのでは?という事も頭に浮かびました。 しかし、自信が持てなく、また彼女と抱き合って肌と肌の触れ合うリアルな感触が夢とはとても思えず、迷った末に形成する意思を持った記憶があります。 つまり仏陀が妻子を捨てて、出家したというのは、凄く大切なポイントだと思うのです。 以前は仏陀が財産も妻子も捨てて、出家したと本で読んで、ひでーなと思いました。捨てられた妻子はどうなるんだと非情な人だと思った記憶があります。 しかし、特定の愛する人を持ってしまうと、その思いが強ければ強いほど、ここ一番で逝けない(引いてしまう)と思うのです。 つまり世間で言われる恋愛とは、執着(自我)なんだと思います。 恋愛をする前は一人の囲いの自己愛(自我)だったものが、恋愛をしてからは、自分より相手を大切に思っていたとしても、二人の囲いの自己愛(自我)に変わっただけだと思うのです。 そう考えますと、日本の仏教者は今や出家者ですら妻帯が当たり前になってますから、ショーシャンクさんが仰っているように、そりゃ大乗仏教に悟りがないっていうのは無理もないなぁと思うわけです。 妻帯しながら、自分だけ逝くとは、そのパトーナーを心の中で裏切っているわけで、そのままノホホンと何事も無かったように夫婦生活を送るのも難しいように思います
 
 
繰り返し繰り返し言っていることですが、私は小乗仏教が正しくて大乗仏教が間違っていると言っているのではないのです。多分、誰にも理解されてないと思っています。それほど、スッタニパータを読めば小乗仏教という固定観念に囚われているからです。
私は、小乗仏教も大乗仏教も仏陀の真意を伝えていない、仏陀の真意とはかけ離れている、と言っています。
 
仏陀の死後、仏陀の教えは灰身滅智の方向に捻じ曲がっていきました。仏陀の真意はどんどん失われていったのです。失われた仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教です。仏陀の真意は灰身滅智ではなく、大いなる境地を説いたものだ、という雄叫びでした。しかし、大乗仏教は仏陀直説の経典(第一結集で認められた教説)に準拠せず自分たちで新しく経典を創作していったために、大多数の支持は得られず小規模な勢力でした。それを覆したのが龍樹です。そのため、龍樹は大乗仏教の祖とされ、そしてそれから仏教は龍樹独自の説になってしまって、これまた仏陀の真意は失われていきました。
 
ここ最近、かなり確信に近づくくらいの意識の変革がありました。
上に書いたことはますます強く思っています。
いったん、今までの仏教のすべてを白紙にした方がいいと思います。
仏陀の真意は日本の仏教が言ってるようなものとは程遠いものです。
今までの仏教の常識や固定観念が正しいと思っている人にはもはや何も言う気もないです。それはそれで自分が正しいと思う道を行けばいいだけです。
 
仏陀も断言しているように、環境は心の影です。
仏教をいくらかじっても。自分の環境が何も変わらないのであれば、それはしょせん口先だけのものにすぎません。
 
これから、自分の人生で、仏陀の真意だと確信していることを実践していきます。そしてそれが環境にどのような劇的変化をもたらすかを実験してみます。