化城の喩え

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仏陀の説いた筏とは、凄く深淵なものだと思っているので、それが「feel good」や「安心」くらい気持ちでは、ぼくの中ではそれが筏とは思いたくないです。イスラム教に入信したとしても白人女性が性の対象と見られなくなるとも思えないし、大乗の大船に乗った人が得る安心が、 ホッと煙草を一服やった程度の安心感とあまり違わない安心だったら意味がないと思います。 それと、もうひとつ。先の投稿でも書かれている「記憶の束」。 それが「矢」であるかどうかは、考えたことはありませんでしたが、「記憶の束」は、おっしゃる通りの「苦」であると思ってきて、実際にそうでした。 「記憶の束」という言い方を聞くと、PCのメモリーのような感じを受けますが、「記憶」とは自分の人生そのもので、自分そのもの、ずっと自分自身がそれに引きずられ束縛されているものです。それこそが「我執」です。 ショーシャンクさんの言葉を借りれば、記憶をクリアになって行くにつれ、自分という存在に対する重要感も次第に薄れて行きます。 自分のことが、あんなに好きで、大切でたまらなかったのが、別に「好きでも嫌いでもない」ようになって行きます。 「あれが欲しい」「これがしたい」と自分の中から起こってくる声が聞こえなくなって、例え、おねだりが聞こえても気にならなくなっていったりします。
 
 
確かにその通りではあるのです。
ただ、最近思うのは、人はそれぞれ目指すところや望みが違うのです。またそれぞれの薬も違うのです。
例えば殺人を犯した人がいてその人が罪悪感に苛まされて自殺しようと思い詰めていた時に『阿弥陀仏はあなたのような悪人こそ救ってくださる』と言われたら心底ほっとするでしょう。また例えば小さい時から神経が過敏で人の悪いところが気になって許せなくて精神が強迫観念に囚われている人が、『私なんてない。相手もない。すべてはただ起こっているだけ。』という言説を聞いて心が軽くなったとしたら、それはそれで有効だったということでしょう。
法華経に化城喩品というのがあります。お釈迦様が長い旅路を歩む修行者に、幻のお城を化作して、そこで疲れた旅人を休ませるという喩え話です。
どの教説も筏であり、薬であり、幻の城であるのです。
向こう岸に着けば筏はもう要らず、病が治れば薬は不要です。
せっかく城で安らいでいる人を、『こんな城で安らいでるのは間違いだ。こんな城は壊して早く出ていけ。』とは私は言いたくないですね。
ヤフー掲示板のアラシという人たちはみな、自分の教説と違うことを言えば、押しかけてきてはその城を壊そうとしてましたが、そういう精神自体本当につまらないものです。
 
それはさておき、探求すればするほど、歴史上の仏陀が言いたかったことは、素晴らしい高みにあり、これこそ人類を救ってくれるのではないかと思うくらい貴重なものであることが最近ひしひしとわかってきました。
 
仏陀の残してくれた筏の全貌に迫りたいとますます思います。
 
『記憶の束』を私ではないと、クリアにしていくこと、deleteしていくこと、これは今までの仏教が全く説いていなかったことです。
仏陀が本当に言ったことを探求していくにつれて、とんでもないことがわかってきました。
仏陀の真意は全く伝わってこなかったのではないか、本当にそんな気がします。
 
数々の謎だったこと、例えば、禅で見性し印可を受けた人の人格が普通の人より悪くなることがあるのはなぜか、『無我』『無我』と連呼する人に限って普通の人より自我や我執が強いのはなぜか、他力本願自力無効と声高に言う人に限って攻撃的なのはなぜか、『自分は目覚めている』『自分はいつも気づいている』という人に限って癇癪を起しやすかったり感情のコントロールも出来ないのはなぜか・・・・
その謎に迫れるような気がします。