自己こそ自分の主

ターボー (126.182.13.4)  

高原さんこんにちは。 私も葉隠は大好きでよく読んでいましたよ。 武士道とは死ぬことと見つけたりという言葉も自分なりに分かっているつもりです。 ただカルマを切る為には、カルマを全て消化しきらないといけないと思います。 何故なら私たちは、本来は主体がなく(自分という塊はどこにもなく)カルマ(因縁)そのものだからです。
 
 
少し気になる部分があったので、たーぼーさんのコメントをこちらでも上げておきますね。
『自分という塊はどこにもなく』はその通りです。
気になったのは、『私たちは本来は主体がなく』の部分です。
 
ここに今までの仏教解釈の過ちがあります。
 
『私たちは主体がなく』どころではなく、私たちは絶対の主体そのものです。
無限の大海そのもの、無量心そのものです。
それ以外になったことはないのですが、感覚を持ったために記憶の束という中心があると思い込んでいます。そのために無量を見失ってしまったのです。
長者窮子なのです。
 
人類は仏陀が言った『諸法非我』を『諸法無我』としました。
非我といい、無我と言っても、『私という中心がない』と言う意味であればいいのです。同じ意味です。
しかし、『無我』という言葉が、『私たちには主体がなく因縁そのもの』と言う意味になってしまった。
つまり、最も大事な『主体』をなくしてしまったのです。
後世に作り上げられた仏教なるものがそのようにねじ曲げてしまった。
 
真実は、『私という限定がなく』『ただ無限の主体がある』のです。
 
自己こそ自分の主である(ダンマパダ160)
実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。故に自分をととのえよ。(ダンマパダ380)
 
 
歴史上の仏陀は、自己などというものはない、とは一言も言っていません。
自己こそ自分の主、主体なのです。
 
 
 
id:kougenn  
NHKの「心の時代」で「禅に学ぶ」という番組をやっていたので、録画して見ていました。ターボーさんも禅をやっていたんですよね。禅僧の人が座禅をしていると「周りの景色が次第に消えて、何もない空間に自分一人が宙に浮かんでいる」という言い方をされていて、禅というのは「自分が消えるのではなくて自分があるんだな」と思っていました。 ところで、「カルマ(業)を消化しきらなければならない」とありますが、あなたは「消化しきる」ために、どんなことをしているのですか?そこを、どう考えているかが肝心な所であり、あなたが言わなければならない所です。「消化」という意味が、分解処理して綺麗さっぱりと消すという意味で言っているのなら良いのですが、あなたの言い方が、「宿業」というような意味の、悪い宿業を持って生まれた人間は、その悪いことをし尽して消化させるという意味で言っているようで、嫌な感じが少し残りました。 あなたは「主体がない」と言ってますが、ショーシャンクさんは「主体はある」とおっしゃっていて、要は、ターボーさんはショーシャンクさんと根本の所で仏教とカルマの理解が全く違っていて、今までショーシャンクさんに賛同する発言をしてきたのも、どこまでが本当の気持ちだったのしょうか?