清水俊史著『ブッダという男』 ⑦(ブッダとはなにものなのか)

この本の眼目である、ブッダは平和主義者だったのか、男女平等論者だったのか、階級差別反対論者だったのか、という3つについて考察してきました。

 

まず、この本の著者は、今までさんざん強調されていた『ブッダの独自性、先駆性』について疑問を投げかけているのだと思います。

 

このことは、今までの仏教の通説の間違いであったと私も思っています。

古代においても、現代においても、論点の違いはあっても、ブッダの教えを全くの独自で先駆的なもの、唯一無二、空前絶後のもの、誰からも影響を受けていないもの、それまでのすべてを全否定したもの、と強調されてきた歴史があります。

 

それは、ブッダ在世中からそういう傾向はあったと思います。

どのような師匠の弟子でも、師匠を尊敬すればするほど他と隔絶した唯一無二の優れたものと思うのは無理からぬことです。

ブッダの死後、その傾向は極めて極端になっていきました。

 

ブッダ在世時は、誰でもブッダ(目覚めた者)になれるという教えでした。

仏陀と阿羅漢に違いはなく、阿羅漢という言葉で仏陀を表わしていたのです。

仏の十号の中の応供は、アラハンです。

つまり、仏=阿羅漢なのです。

しかし、時が経つにつれ、仏陀は唯一無二で特別な人という扱いになっていきました。

仏と阿羅漢に差をつけていきます。

 

ブッダとは、歴史上の仏陀(つまりゴータマ・シッダッタ)のみで、過去七仏など伝説上のブッダはあるにしても、歴史上にブッダは仏陀のみ、誰もブッダにはなれない、となっていきました。

阿羅漢が悟った最高位となっていきました。

これも、仏陀在世中は、誰でも仏=阿羅漢になれる、在家者でも女性でもなれるというものでしたが、根本分裂を経て部派仏教となってからは、特にサンガの権威が強調されていきます。

出家者で男性でなければ阿羅漢になれないという派も出てきます。

 

仏陀は唯一無二で、その次の阿羅漢も極めて特別な存在に祭り上げられます。

 

近現代に至っては、近代的な価値観でブッダを見ることが主流になります。

特にヒューマニズムの観点から、インドのカースト制度を唯一否定した、勇気ある人物のように言われることが多いですし、男女平等や平和主義を掲げたヒューマニズムの星のような扱いです。

この『ブッダという男』と言う本は、そのようなヒューマニズムの観点から見るブッダ像に疑問を投げかけているというわけです。

 

 

ここで私の考えをまとめておきます。

 

①生まれによるカースト制度否定は、仏陀独自では全くなく、沙門宗教、自由思想家すべて共通している。仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。

 

②業(行為)による輪廻は、ヤージュニャヴァルキヤが先駆であり、仏陀の独自でも独創でも先駆でもない。

 

③仏陀は、どのようなカーストの人間もカースト外とまで言われる階層の人も弟子にし、サンガに入ることを許した。

そして、サンガの中では、カーストではなく、サンガにいる年数が長い者が短い者より上とした。

だから、サンガに入って5年のバラモン階級出身者は、サンガに入って10年の不可触階級出身者より下であり敬わなくてはいけない。

これは仏陀の価値観が仏法という視点にのみ基づいている証拠で画期的。

 

④仏陀は、女性も在家者も悟れるし解脱できる、とした。これは仏法の下での平等を表わしている。古代において、この平等性は稀である。

 

⑤仏陀は争わなかった。特に異教徒を攻撃したり暴力で排除したりすることは一切なかった。弟子にも争わないように求めた。

 

⑥業(行為)による輪廻を見いだしたのはヤージュニャヴァルキヤだったが、それは哲学に止まった。

仏陀がウパカに対し『天上天下唯我独尊』と宣言したのは、仏陀が唯一、それまでになかった完全に苦を滅する理法を発見したから。

その理法とは、四諦の法、十二縁起の法、四念処であり、その理法を瞑想することで解脱、涅槃に至った。

ここが、仏陀の独自であり独創であり先駆であり画期的なところ。

つまり、仏陀は、自ら言うように『矢を抜く最上の人』

それは、矢を抜く理法、完全に苦を滅する理法を発見し、それに基づいて自ら解脱を成し遂げたから。

 

ところが、今までの仏教は、仏陀の理法をそっちのけにしてきた。

仏教の宗派は数多いが、十二縁起を瞑想する宗派はどこにもない。

仏陀の理法と切り離されたメソッドが一人歩きしている。

 

 

 

結論を言いますと

今までの仏教のように

仏陀は、バラモン教を全否定した、唯一、カースト制度を否定して階級平等を掲げた先駆者という通説は間違っています。

沙門宗教はすべて『生まれによってバラモンではない』という考えで、仏陀はその中の一人。

そして、その考えは、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤが涅槃に到達するのは祭祀ではなく真理の知識によるとしたことが源。

 

ブッダ=目覚めた人は、歴史上の仏陀の前にも後にもいたし、在家でも女性でもブッダになれるというのが仏陀の考え。

それが、サンガ(教団)が発展するにつれて、仏陀一人を特別扱いしていった。

仏陀以外の人は阿羅漢どまりとなっていった。

仏陀在世中には仏=阿羅漢で、同じ意味だった。

 

仏陀には女性蔑視の考え方は全くなく、仏法のもとに男女もカーストも平等だった。

女性への戒律が多いのは、女性への危害や誘惑というリスクがあるため。

 

バラモン教やジャイナ教と比べても、仏陀の法は男女関係なく解脱できるところが際立っています。

 

ジャイナ教は、空衣派と白衣派に分裂する前は、すべて衣服を所有しない裸行であり、裸行ができない女性は救われないという思想でした。

 

バラモン教またはヒンドゥー教の支柱である『マヌ法典』を見れば、女性差別のオンパレードであることがわかります。

 

仏陀の教えは極めて高度に男女平等でした。

 

故に、仏陀に女性蔑視があったという清水俊史著『ブッダという男』は間違っています。

『マヌ法典』が支配するインドで、仏陀の女性観は画期的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

清水俊史著『ブッダという男』 ⑥(ブッダは平和主義者だったのか)

この著者の『ブッダは平和主義者だったのか』という問いかけは、仏陀のみならず仏教界全体への言及がされていて興味深いものです。

 

著者は言います。

※※※※※

仏教は慈悲の教えであるーそう多くの仏教者が口を揃えて言う。

だが、長い歴史の中で、仏教が殺生や戦争を何らかの形で許容してきたのは事実である。

仏滅から500年ほどしてから成立した大乗経典には、「慈悲の殺人は功徳を生む」といった記述さえ説かれるようになる。

そして、それを根拠にして、アジア・太平洋戦争において日本の仏教教団は、「空」や「一殺多生」などの教理を援用しつつ暴力や戦争を肯定しし、戦時体制を翼賛し続けた。

※※※※※

 

 

これはその通りですね。

情けないことに、日本仏教で戦争に反対したところはひとつもありませんでした。

 

宗教というものの存在価値とは何でしょう。

キリスト教の方がもっと無惨ですね。

欧米のキリスト教国は、植民地にしようと狙った国に宣教師を送り込みその国の状況を報告させます。

ある程度、国情が判明してから、占領軍を送り込み原住民を虐殺して、その国を植民地としました。

日本でキリスト教が禁止になったのは、世界中でのそのような所業が明らかになったからです。

キリスト教と言えば愛の宗教と言われます。

しかし、歴史を見ると、真逆です。

十字軍や魔女裁判、植民地政策、どれも血生臭いものばかりです。

口先だけで愛を説いてもやって来たことは虐殺の数々でした。

神父などの聖職者の少年少女への大規模な性虐待も明るみに出てますし。

 

キリスト教も仏教も、口先で言っていることと実際にやっていることが真逆なのはどうしてか、この問題を解決しないとどんなに偉そうにしゃべっても信用は得られないでしょうね。

確実に、宗教は衰退の一途を歩むことになるでしょう。

 

仏教はキリスト教ほど積極的に戦争や虐殺に絡むことは少なかったですが、戦争を抑止せず、むしろ加担したのは事実です。

 

浄土真宗の一向一揆などは戦争そのものでした。

 

宗教が何故、世の中にかえって戦争や争いをもたらし、不幸を増産し続けるのか、については、いま、考察しつつあるところです。

 

世界の歴史を見、そして今現在起きつつあることをありのままに見た場合、宗教がらみの殺人や戦争がいかに多いか、わかるはずです。

 

この本に戻りますと、仏陀は平和主義者ではないと言う結論のようです。

しかし、仏陀が直接言った言葉で、それについて根拠となるものがほとんど挙げられていません。

最初に挙げられている資料は、スリランカの歴史書『大王統史』で、紀元前2世紀のアバヤ王が仏教僧団の長老に相談したものです。

幾多の大軍の殺戮をしたアバヤ王に対し、『天への道に障害になるものは何もない』と答えた、とあります。

スリランカの長老の認識では、仏教を信じ実行している者以外をいくら殺そうと天への道の障害にはならない、ということで、清水氏は仏教が平和主義だと言うことに疑問を投げかけています。

 

しかし、スリランカの長老が言ったことを元に『ブッダという男は平和主義者ではなかった』と結論づけるのは幼稚で乱暴です。

 

後に、ブッダがアングリマーラに言った言葉を挙げていますが、

回心した殺人者アングリマーラが民衆に棒や石を投げつけられ大けがをしたときに

ブッダは『あなたは耐えなさい。数百年数千年もの間地獄で煮られたであろうその業の報いを、あなたはまさに現世で受けているのです』と言います。

 

これをもって、ブッダが平和主義者でないと結論つけるのは、やはり幼稚で乱暴ですね。

仏陀のこの言葉のどこを見て平和主義者でないと結論付けできるのか、さっぱりわかりません。

 

世界中の宗教は、異教に対しての攻撃性があります。

異教徒を殺せという宗教もあります。

後世の仏教宗派でも、他宗派に対し極めて攻撃的な教えのところも出てきました。

しかし、少なくとも仏陀本人は、そのような攻撃性、戦闘性がもっとも少ない人物であったと文献から思います。

 

清水俊史著『ブッダという男』 ⑤(階級差別について)

カースト制度について

この本でも取り上げられている仏陀の言葉があります。

 

パセーナディ王『四つの階級に差別はあるのでしょうか』

仏陀『私は、解脱には、何ら違いはないと説きます』

 

仏陀の考えはこの言葉に尽きていると思います。

 

カースト制度批判が、仏陀の独創でも先駆性でもない、という著者の結論には、全面的に賛同します。

著者は、それは、沙門宗教に共通する思想性の一つだと言います。その通りです。

著者は、それは、バラモン階級が勢いを失ったからだと書いています。

ここの考察が十分ではないでしょう。

 

私は、ヤージュニャヴァルキヤの先駆性が生んだと思っています。

バラモン教でバラモン階級のヤージュニャヴァルキヤは、それまでの祭祀経典であったヴェーダ宗教を、『祭祀ではなく真理の知識によって涅槃に到達する』としました。

これにより、以降、祭祀経典ではなくウパニシャッド(奥義書)が主流になりました。

 

祭祀によらなくても解脱、涅槃に到達するという考えから、祭祀階級(バラモン階級)以外の階級から自由思想家が輩出しました。

 

 

清水俊史著『ブッダという男』 ④(男女差別について)

さて、この『ブッダという男』という本の世間への最大の売りは、最近のブッダ研究が近代的価値観にあてはめて、ブッダは平和主義者で階級差別や男女差別を否定した先駆的人物としてきたことへの批判です。

それらの装飾を剥ぎ取ろうということのようです。

 

まずは、男女差別の問題です。

 

この本の主張を一言で言えば、ブッダが女性を蔑視している資料があるのだから、ブッダは男女平等論者ではない、ということのようです。

 

ブッダが女性を蔑視しているという証拠に、原始仏典の中の次の言葉を挙げています。

『女たちは、男を欲求し、着飾ることを思念し、子を拠り所とし、夫を共有する女(愛人)がいないことに執着し、家庭の支配権を完結とする者たちです』(増支部経典)

 

まず、増支部経典は、他の相応部経典や中部経典などに比べ、成立が新しく、後世で付け加えられたと思われる部分があるので、私はあまり重要視しません。

しかし、ここでは、増支部を根拠としているので、この言葉はそのままブッダ本人の言葉として考察します。

 

私は、この言葉が女性蔑視だとは思いません。

 

『男を欲求し』・・拠り所として結婚したい女性が多いのは否定できない事実でしょう。それがないと、結婚する女性はいないでしょう。

『着飾ることを思念し』・・ファッションに全く興味のない女性というのを私は知りません。

『子を拠り所とし』・・老後、子供を頼りにする女性がいるのは事実ですね。

『愛人がいないことに執着し』・・夫に愛人がいてもなんとも思わない女性の方が少ないでしょう。

『家庭の支配権を完結とする者』・・多くの家庭は主婦が管理していますね。

 

仏道に入っていない、一般的な女性が家庭に執着するのは、一般的な男性が財産や仕事に執着するのとおなじように、社会をありのままに見ればその通りとしか言えません。

 

それをことさらに、この言葉を根拠として、ブッダは女性蔑視だったとあげつらう著者には疑問しかないです。

 

 

次に、著者は、女性にだけ課せられた『八つの掟』を根拠に男女平等ではないと言いたいようです。

『八つの掟』は、主に、女性出家者の背後に男性出家者の存在があるように、定められています。

 

このことは、古代インドの社会通念を詳しく知らなければ、論じることができないものです。

 

古代インドでは、女性は、小さいときは父親の保護、結婚してからは夫の保護、夫が亡くなってからは息子の保護、を受けない者、つまりどの男性の保護も受けてない女性は娼婦かそれに近い者と見なされていました。

つまり、性の対象となってしまうのです。

 

ですから、もし、女性出家者を認めて、そこに男性出家者の後ろ盾がない場合、古代インドでは、性の対象と見なされてしまうでしょう。

現に、律蔵などを見れば、そういう事件はあったのです。

 

このような当時の社会環境を全く無視した論説は幼稚で意味のないものです。

 

ちょうど、歴史ドラマの多くが、その時代の考えを無視して、道具立てや撮影セットだけを戦国時代にして、台詞はすべて現代劇そのままの思想で演じている馬鹿馬鹿しさを見ているようなものです。

 

もし、仏陀を本当に論じるなら、紀元前500年のインドに降り立たなければいけないし、大乗仏典を論じるならば、紀元前後のインドに降り立たなければいけないでしょうね。

 

 

 

 

 

 

 

清水俊史著『ブッダという男』 ③(十二縁起)

私は、十二縁起を真正面からまともに解説している仏教書を見たことがありません。

はっきり言って、すべての解説は、適当にお茶を濁しています。

何故か。それは本人も分かっていないからです。

そして、十二縁起を瞑想しようとする者がだれもいないからです。

十二縁起は、極めて重要な仏陀の瞑想の内容なのです。

四諦と十二縁起によって成道したのですから。

 

で、今回、話題の本ということで、この『ブッダという男』には十二縁起をどのように解説しているか、楽しみにしていました。

 

しかし、『いくつかの因果関係は、そのままでは理解しがたい』『本書では、それぞれの支分についての細かな議論には立ち入らない』ということで終了しています。

がっかりです。

他の仏教書に比べ、『そのままでは理解しがたい』と正直に吐露しているのは好感が持てましたが。

 

 

何故、十二縁起が極めて難解かというと、仏典に反することができないからです。

仏典を無視して、自分勝手に適当な解釈をするのは簡単です。

特に仏教学者でない人が、十二縁起の解説をしているときは、全く仏典を無視して自分勝手な解釈を述べたてていることが多いです。

 

しかし、仏典で仏陀が十二縁起について語っていることを無視するのであれば、それは仏陀の真意とは言えないのです。

 

縁起とは、

Aがあれば    Bがあり

Aが生じるが故に Bが生じる

Aがなければ   Bがなく

Aが滅するが故に Bが滅する

 

ということです。

これに当てはまらなくては縁起の関係ではありません。

 

まず、十二縁起の解説のうち、基本的なこの縁起の関係を無視している解釈がいかに多いか、です。

 

『縁』とは後世にいわれるようになった、『条件』と言う意味でも『補助的な原因』という意味でもありません。

Aがあれば    Bがあり

Aが生じるが故に Bが生じる

Aがなければ   Bがなく

Aが滅するが故に Bが滅する

これが、縁起の関係なのです。

つまり、直接原因です。

 

特に、『Aが滅するが故にBが滅する』とならなければ、縁の滅とならないので、苦を滅することができなくなり、縁起の理法、十二縁起の法が成り立たなくなるのです。

 

十二縁起を解読するには、必ず、この縁起の公式に依らなければなりません。

 

つまり、

無明があれば    行があり

無明が生じるが故に 行が生じる

無明がなければ   行がなく

無明が滅するが故に 行が滅する

 

行があれば     識があり

行が生じるが故に  識が生じる

行がなければ    識がなく

行が滅するが故に  識が滅する

 

識があれば     名色があり

識が生じるが故に  名色が生じる

識がなければ    名色がなく

識が滅するが故に  名色が滅する

 

・・・・・・

以下、縁起の公式は、

名色⇒六入⇒触⇒受⇒愛⇒取⇒有⇒生⇒老死 と続きます。

・・・・・・・・

 

これに当てはめようと思うと、今までのほとんどの解釈は間違いであることが分かります。

十二個すべてにおいて、この縁起の公式が当てはまらなくてはいけないのです。

それでなければ、縁の滅、苦の滅に至ることができないのですから。

 

 

 

次に、相依性の問題です。

縁起を相依性の関係と考えている人がいかに多いか。

舎利弗の葦の喩えから、十二縁起すべてにおいて相依性が成り立つと考える人がいます。

しかし、仏典では

識⇒名色 この間にだけ、相依性が成り立つとしています。

 

この条件に適合する解釈でなければいけないのです。

 

 

そして、相応部経典『分別』に書かれていることに反してはいけないのです。

 

1,すべて縁起の公式に当てはまること

2,識と名色の間だけ相依性が成り立ち、その他は相依性ではないこと

3,相応部経典『分別』の十二縁起の記述

 

この3つに適合する解説でなければ、それは間違っています。

 

ですから、十二縁起は極めて難解なのです。

仏陀が『この縁起の法は深遠であり、その相もまた深遠なるものである。アーナンダよ、この縁起の法に対する無知と無理解によって、人は、意図がもつれ絡まったかのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やパッバジャ草のように、悪趣・苦界・堕処への輪廻を超えることができないのである。』と言ったように、

極めて難解で深遠な法なのです。

 

 

 

 

 

 

清水俊史著『ブッダという男』 ②(非我と無我)

この本には賛同するところは多いですが、

ただ根本的なところで私の考えと全く違うところがあります。

 

それは、『非我』か『無我』かというところです。

 

清水氏も挙げているように、仏陀は、

『眼(・耳・鼻・舌・身・意)は自己ならざるものです。自己ならざるものは「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』

『諸々の色(・声・香・味・触・法)は無常です。無常であるものは苦です。苦であるものは自己ならざるものです。自己ならざるものは、「これは私のものでない。これは私ではない。これは私の自己ではない」とこのように正しい智慧によって観察されるべきです。』

と言っています。

この箇所は、清水氏が本の中で挙げている仏陀の言葉です。

 

これを見れば、明らかに分かります。

『無常であり苦であるものは私ではない』とはっきり言っているのです。

つまり『非我』です。

ありのままに読めば、『無我』ではなく『非我』と言っていることがわかります。

 

ところが、清水氏は、この後に、こう言っています。

 

ここで重要なのは、この十二要素の外側に、我々が認識できない超越的な何かが存在するわけではない点である。ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている。(清水俊史氏)

 

十二要素(十二処)とは、眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法です。

 

ここで清水氏が言っているのは、『一切』についてブッダが語ったものです。

弟子が、『一切、一切と言われますが、一切とは何でしょうか。』と質問したときの仏陀の答えです。

 

『一切』というのは『一切皆苦』の一切です。

形成されたものすべては苦である、というのが『一切皆苦』の意味です。

つまり、『一切』とは形成されたものすべてのことを言います。

仏陀は、その『一切』を眼・耳・鼻・舌・身・意とその対象の色・声・香・味・触・法としました。

 

さて、本当に、清水氏の言うように『ブッダは、この十二要素(十二処)が宇宙を構成する『一切』であり、これ以外のものは存在しないと説いている』のでしょうか。

 

『感興のことば』第26章21にこうあります。

 

不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。

作られざるものを観じるならば、作られたものから解脱する。

 

『一切皆苦』の『一切』は作られたものすべてです。生じたものすべてです。

ここで仏陀は、はっきりと、不生なるもの、作られざるものが有ると断言しています。

もし、作られたもの(一切)だけしかなく、作られざるものがないのであれば、

つまり『一切』だけなのであれば、『一切皆苦』から逃れることは誰にもできないではないですか。

 

この『ブッダという男』という本は、根本的に仏陀の捉え方が間違っているのです。

 

 

ここで、『十無記』を出しましょう。

 

中部経典『小マールキヤ経』に『十無記』が出てきます。

 

その中の4つは、tathagata(如来) が死後も存在するかどうかという問いです。

 

tathagata(如来)  は死後存続する

tathagata (如来) は死後存在しない

tathagata (如来) は死後存在し、また存在しない

tathagata (如来) は死後存在しないし、また存在しないのでもない

 

ここで、マールキヤプッタがどうしても仏陀に答えてほしかったのは、『私という中心』を消滅させたtathagata=如来は、死後存在するのかどうか、ということです。

つまり、形成されたものをすべて非我と見極めたあと、その奥に何かがあるのかそれともただの虚無なのか、ということです。

 

これについて、仏陀ははっきりと『無記』=答えないと言っています。

 

仏陀は輪廻を終わらせた如来(tathagata)が死後存在するか存在しないか、の問いについて無記としました。

つまり答えませんでした。

 

清水氏によれば、

唯物論の『無我』と仏陀の『無我』の違いは、仏陀が輪廻の存在を認めていることだと結論づけています。

つまり、業報による輪廻があるかないかの違いということです。

本当にそうであれば、輪廻を終わらせた如来は、もう輪廻がないわけですから、唯物論の『無我』と同じで、死後何もなくなる、虚無ということになります。

 

 

このように捉えてしまったのでは、仏陀の真意からかけ離れることになります。

 

仏教は歴史上、このように捉えられることが圧倒的に多かったために、唯物論、虚無論となっていきました。

もし、このように唯物論的虚無思想が仏教の本質であるというのであれば、仏教の価値はないどころか、極めて危険です。

 

作られざるものについては仏陀は基本的に無記です。

そして、その真意は、仏陀が明言するように『不生なものがある』『作られざるものを観じるべき』なのです。

 

 

 

 

 

 

 

清水俊史著『ブッダという男』①(独自性の誤り)

 

清水俊史氏という仏教学者が書いた『ブッダという男』という本が、仏教界で話題になっていますので、読んでみました。

アカハラ問題という社会的な話題も大きく寄与して注目度が極めて高い本です。

 

今までの仏教学や仏教常識に異論を唱えています。

その趣旨にはとても賛同します。

このように、今までの仏教常識にとらわれず、歴史的な権威もいったん白紙にして、自由に仏陀の真意に迫ろうという動きは、これから大きくなっていくことでしょう。

それは、私の『仏陀の真意』にも書いたとおりです。

あらゆる権威を否定して、直に仏陀の人物像や理念に迫りたいという運動が大きくなっていくことを願っています。

 

さて、読み終えて、賛同する部分も数多くありました。

 

 

まずは、『仏陀は死後の世界や輪廻転生を否定した』という仏教界に蔓延る説(僧侶や学者でさえこれが仏教の定説と考えている人も多いのですが)を否定します。

否定の否定ですから、つまり、仏陀は輪廻を説いたということを書いています。

これは、まさしくその通りで、原始仏典のどこを読んでも、これ以外のことは考えられないのですが、近年の仏教界は輪廻否定が大多数となっています。

『仏陀の真意』に書いたとおりです。

そもそも、仏陀が輪廻を否定したなどと言うことを言っている人は、仏陀を語る資格などないでしょう。

仏典を少し読めばわかることです。

 

 

『天上天下唯我独尊』について

清水俊史氏は、この句は、文字通り『この世で唯、自分こそが尊い』という意味で、伝統的にはそういう意味とされていたのだが、近代になって、そのような傲慢なことを仏陀が言うはずがないとして、『すべての存在は尊く、かけがえのない命を与えられている』という意味だというのが主流になっている、と言います。

しかし、それは全くの間違いであると言います。

 

私も、『仏陀の真意』で書きましたように、現代の『天上天下唯我独尊』の解釈は

1,宇宙には大我という我がひとつだけあって、それが尊い

2,私の命は唯一のもので、あなたの命も唯一のもの。みんな違ってみんないい

この2つの解釈ばかりとなっているが、それは仏陀が言った真意ではないと書きました。

 

この『天上天下唯我独尊』は仏陀がウパカに言った言葉であり、それは、『今までの誰をも説かなかった、苦を完全に消滅させる理法を発見した。私には師も等しい者もいない。神をも含む世界で唯一私だけがそれを発見したのだ』という意味と私は書きました。

清水氏は、原始仏典を読むと仏陀は自画自賛を繰り返しているのであり、『自分より優れたものがいる』と卑下することの方がおかしいので、『天上天下唯我独尊』は、文字通り『天上天下でただ俺だけが独り尊い』という意味だとのことです。

 

私としては、やはり『仏陀の真意』に書いたのが仏陀の本意だと思っていますので、清水氏の言う自画自賛のひとつとしてだけ処理してしまうと仏陀の真の姿に迫れないと思っています。

ですから、ここは賛同できないところです。

 

この本の最初のほうで取り上げられているのは、ブッダは『平和主義者だったのか』『階級差別を否定したのか』『男女平等を否定したのか』ということですが、この3つに関しては、論じるとかなり長くなってしまいますので、最後に持っていきたいと思っています。

少しだけ触れておきますと、カースト下位でも不可触賎民でも関係なく弟子にしましたし解脱した人が出ています。

ここを見て、仏陀だけが反バラモンだとか、カースト否定だという人が多いです。

しかし、これは仏陀独自ではなく、ジャイナ教でもそうです。

バラモン教の中でも、『生まれではなく行為である』といった人はいます。

仏陀は社会制度改革者ではないのです。どのような社会構造であれ、現象なのだからすべて苦であり厭離すべきものという宗教者なのです。

仏陀は、女性も阿羅漢になれると言っています。

しかし、一方で、比丘尼を認めたために正法は500年しか続かないだろう、とも言っています。そもそも、懇願されたにもかかわらずなかなか女性の出家を仏陀は認めませんでした。阿難が強力に頼み込んでやっと認めたのです。

比丘尼戒が比丘戒より格段に多いことや、様々な女性にだけの掟の数々があり、大乗仏教でも、法華経の変成男子の思想など、女性差別ではないかと言われる部分はあります。

私は、女性がサンガで修行するのは大変難しい問題が出てくると思います。

男であれば、森の中で一人で瞑想するのは問題ないですが、女性は襲われる可能性が常にあります。

そのようなことを踏まえて、なおかつ女性の出家を認めたのはかなりの決断だと思っています。

仏陀が男女平等を否定したのか、という著者の問いかけへの考察は長くなりますので、このくらいで後に回します。

 

この本で、私が最も賛同できるのは、今まで強調されてきた『仏陀の独自性・独創性・唯一性』についてです。

これは、仏陀の死後、特に根本分裂を経てからの部派仏教の時代、かなり極端になってきました。

仏陀は、反バラモン教、反ジャイナ教、反六師外道という図式です。

仏教はバラモン教の全否定だという考え方です。

これは全く違います。

仏陀本来の教えには、バラモン教やジャイナ教との共通点が非常に多いのです。

仏教徒が、仏陀だけが主張したと思っている、『生まれによってバラモンではない。行為によってバラモンである。』というのは、沙門宗教の多くがそうです。ジャイナ教は特にそうです。

ジャイナ教と仏教の共通点は極めて多いです。

仏陀という呼称、阿羅漢という呼称、声聞という呼称、業=行為という考え、輪廻転生、解脱、すべて共通しています。

仏陀と、ジャイナ教始祖のマハーヴィラの最大の違いは、身口意の行為(身業・口業・意業)のうち、仏陀は意業が最も重要で身業と口業は意業に比べ取るに足りないとしたこと、マハーヴィラは身業が最も重要で口業と意業は身業に比べ取るに足りないとしたこと、これだけです。

 

マハーヴィラは身業最重要ですから、不殺生戒も徹底しています。

雨安居というのは、ジャイナ教から来たものです。

雨期に出歩くと、水たまりの中の生き物を踏みつけて殺してしまうかもしれないので、雨期は外に出ずに修行をするという習わしです。

仏陀は意業が最重要であるため、自分のための殺された動物の肉は禁止しましたが、それ以外は食べていいとしました。

しかし、ジャイナ教では、肉食自体禁じられています。

大乗仏教の肉食禁止はジャイナ教の影響を強く受けているのです。

 

仏陀は、バラモン教のヤージュニャヴァルキヤに最も強い影響を受けています。

これを仏教徒はかたくなに否定します。

外道であり邪教であるバラモン教に影響など受けていない、それどころか反バラモン教、バラモン教の全否定が仏教なのだ、という主張です。

しかし、私の本『仏陀の真意』に書いたとおり、ヤージュニャヴァルキヤの『~に非ず、~に非ず』としか言えないものという言説。業=行為が原因で輪廻転生すること。

これらの骨格はすべて共通しています。

というか、ヤージュニャヴァルキヤが初めて言い出したことでした。

 

仏陀の独創性、独自性を強調しすぎてきた結果、今までの仏教はヴェーダ宗教の全否定としてしか仏陀を捉えることができていません。

それはちょうど、イエス・キリストがパリサイ派やその律法学者を非難糾弾したのを見て、イエスはユダヤ教の全否定をしたと思う人が多数いるのと似ています。

 

仏陀は、行為が因で現れてくる現象が果、ということを否定する運命論や意思否定論は邪見として徹底的に否定していますが、行為が原因とする他の業因説には全否定はしていません。

 

 

 

 

(続きます)

 

最高の評価をいただきました!

2023年11月13日レビュー

 

 

 

⬆⬆⬆

本日のAmazonレビューで、『仏陀の真意』に最高にうれしい評価をいただきました。

出版してからすでに1年半も経ちますので、いま初めて手にとって読まれる人たちは、私を知らない方たちです。

そういう、私を全く知らない方たちがふと手にしていただいての評価ですから、本当にうれしい限りです。

出版してよかったとしみじみ思います。

 

この『仏陀の真意』は、仏教の通説を詳しく知っている人、なおかつ通説に疑問を持っている人、本当の仏教史を把握されている人、にこそ意味を持ちます。

仏教の通説はどのようなものなのか、その知識は絶対に必要になってくる本であり、ある意味、読む人を選ぶ本だとも言えます。

『仏陀の真意』は、今までの仏教概念、仏教常識を覆している本だからです。

 

ですから、出版しても、分かっていただける方はほとんどないと予想していました。

 

私の周りの現実社会の人たちは、仏教や宗教に全く興味も関心も知識もない人たちばかりですので、私が本を出版したことはおろか、私が仏教に興味があることさえ知りませんし、知らせていません。

まず、私のリアル社会生活のなかでは、この本を渡しても理解できる人はいないことは明白です。

出版契約について相談をしていた、顧問の弁護士や税理士には一応本が出来上がった時に渡してはいますが『私は仏教を全く知らないので難しいです』という反応だけです(笑)

 

仏教に興味がなく知識もない人に理解できないのはそうでしょうし、どこかの宗派に凝り固まった人も感情的に反発するだけで聞く耳を持たないでしょう。

ですから、この本を理解していただけることは私が生きている間はないだろうと思っていました。

 

しかし、出版してみると分かっていただける方たちがおられました。

これは本当に驚きでした。

 

これで、なおさら、次の『法華経の真意』を書く勇気が出てきました。

法華経は方便品の十如是と如来寿量品には感動はしていましたが、どうしても意味の分からない箇所が山積みでした。

それが、原始仏教を当たって仏陀の真意に触れ、そして『仏陀の真意』を出版し、

さらに本当の仏教史を掘っていった結果、

法華経はどのような理由でどのような人が作っていったのか、そして本当は何を言いたかったのかが、迫ってくるようになりました。

 

『仏陀の真意』を出版したら誰に読まれなくても、私が死んで何十年か後にふと手にした人がほんの少し何かを感じてくれたらいいと、

それを期待して死んで生けると思っていました。

そして今でもそのような気持ちも強いですが、

しかし、大乗仏教の代表であり経王とも言われる法華経の本当に言いたかったことは、世間の通説や常識とは全く違って、法華経こそ失われた仏陀の真意の完全なる復活なのだということが明らかにわかった今、どうしても死ぬまでには次の『法華経の真意』を出版したい気になっています。

 

大乗仏典、特に経王と呼ばれる法華経は、歴史上の仏陀の真意と本当の生々しい仏教史が分からなければ絶対にわからないものだと思っています。

 

 

『仏陀の真意』完売

 

 

去年の4月に出版した『仏陀の真意』が完売したようです。

出版社としても、これ以上の増刷はしないようですので、これからは紙の新品の購入は難しく、電子書籍のみとなります。

現在、Amazonでは、中古書籍が、新品よりも高い価格で売られています。

私の想定をはるかに超えた反響で、感激しております。

読んでいただきました皆様、本当にありがとうございました。

 

いま、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の戦争が起こり、おそらく大戦争に発展していくと思います。

世界の宗教の歴史を見ると、宗教戦争をしてこなかった仏教はとても貴重な教えに思えます。

 

今は、『大乗仏教は何故興ったのか』『仏陀の真意から読み解く大乗仏典』をテーマに研究しています。

いつか、これも出版できればと考えています。

これにより、原始仏教と大乗仏教が、仏陀の真意という太い線で繋がることになります。

今まで、部派仏教は大乗仏教を非仏説、つまり仏陀の教えではない、と否定してきました。

大乗仏教は部派仏教を小乗仏教、つまり劣った教えとして貶してきました。

 

発祥の地インドで仏教がいったん滅びたのも、現代の世界で仏教が発展せずかえって衰退している様相なのは、あまりにもバラバラで核心が何かがわからないからだとも言えます。

仏教徒の誰も仏教に共通する『仏教とは何か』を答えられる人はいないでしょう。

 

キリスト教の聖典は聖書であり、イスラム教の聖典はコーランです。

これを否定するキリスト教徒、イスラム教徒はいません。

それでは、仏教の聖典は何でしょう。

般若心経でしょうか。日蓮宗系や浄土系の宗派は否定するでしょう。

そもそも、部派仏教は大乗仏典はすべて否定していますから、般若心経も否定しています。

法華経、大日経、無量寿経、どれもその宗派以外では聖典とはされません。

スッタニパータは大乗仏教では聖典とはされていません。

 

『縁起』と『空』が仏教の核心と言っている人も多いです。

龍樹以降の仏教であればそうでしょうが、歴史上の仏陀の言った『縁起』とは違っています。

歴史上の仏陀が言う『縁起』とは十二縁起のことです。

その十二縁起を縁覚の修行法として捨て去ったのが大乗仏教です。

 

sati とは、記憶のことです。

念と漢訳されていますが、念とは、心に憶念することです。

つまり、心にしっかりと記憶し、繰り返し念ずることです。

これを受持と言います。

四諦、十二縁起、四念処の仏陀の理法を記憶し繰り返し思うことが本来の意味でしょう。

 

しかし、仏教は、仏陀の理法なしに、ひたすら禅定至上主義になっていったのです。

 

そもそも仏陀は出家してすぐ、2人の師に禅定を教わりすぐ修得しますが、『これは解脱にも涅槃にも行き着かない』と言って捨て去ります。

 

ですから、仏陀の理法を憶念しない、禅定至上主義には疑問を持っています。

 

このような仏教の歴史を掘り下げた後で大乗仏典を読むと、大乗仏典の作者が何を言いたかったのかがはっきりとわかります。

 

大乗仏教は、仏陀の真意の復興運動だったのです。

 

無量心が根本

 双麻 (183.180.150.92)    
お答えいただき、そして真摯に対応していただき本当にありがとうございます。
何気なく質問した内容がそこまで繊細な質問だとは思っておらず、大変失礼いたしました。
また、今回の内容を拝読して、ショーシャンク様の説明にあるような定義の混乱がまさに私の頭の中にもあったのだと気が付きました。
自分の考えが非常にあやふやで曖昧だからそれが気持ち悪くて、無意識にショーシャンク様の考えを聞いて答えだけ教えてもらおうとしていたのかもしれません。
申し訳ありませんでした。
私の中では天之御中主神もブラフマンも毘盧遮那仏も一切の存在の根源だと 基本的には 考えていました。
ですが同時にアートマンには何となく霊魂的なイメージを持っていましたし、仏像などを見てしまうとどうしても人格のようなものを想像してしまっていました。
毘盧遮那仏が言葉で説法するのも自分で適当に想像して、一切の根源には智慧を含めた全てが存在し、相応の境地に達した人間にはその智慧に繋がることができる。
という状況を擬人化した描写なのだろうと勝手に思っていましたし、私の頭の中の定義がいかにあやふやであったかと痛感しました。
霊魂や人格化などの考えをそれぞれ別の解釈として理解しなおす必要があると解りました。 とりあえず間違っているかもしれませんが現在の私の理解の度合いでは、無量心も天之御中主神もブラフマンも毘盧遮那仏も定義はすべて『一切の存在の根源』という認識です。
国や文化や時代が違うから呼び方が異なってしまっているのかな?と。
しかしながら、例えば毘盧遮那仏なら勝手に奈良の大仏が頭に思い浮かんできますし、やはり別のものを同じとして理解しようとすると弊害が出てきます。
ゆえにここが違うのだ、というところをお聞きしたいと考えたのですが…私は根本的な勘違いをしているのでしょうか?
よく分からなくなってきました。
ああ…こういうのを戯論というのですね。
やはり仏陀を学ぶ途中で他のものを持ち出したことがそもそもの間違いですね。
仏陀が使われた言葉、言っておられた言葉を言ったとおりにそのまま理解していくというのが正しい姿勢でした。
本当にすみませんでした。

 

 

 

双麻さん、こんばんは。

いえ、とてもいい質問だと思います。

質問の内容が根本的なもので、始めであり最後であると言ってもいいくらいのものです。

 

仏教の歴史では、この微妙な部分が誤解されて、バラモン教(ヒンドゥー教)の全否定が仏教だと言うことになってしまいました。

 

アートマン=霊魂  を否定したのが仏教。

アートマンがない=我が無い=無我  を説くのが仏教。

 

これが仏教の常識とされています。

 

さらには、

無我=アートマンがない=霊魂はない=死後の世界はない

無我=アートマンがない=霊魂がない=輪廻する主体がない=輪廻転生はない

ということになっていきます。

 

これはとんでもないことで、仏陀は至るところで、死後の世界も輪廻転生も説いています。

解脱するまでは、死後の世界も輪廻転生もあるのです。

 

そもそも、仏陀が成道した時の三明のうち、宿住智は仏陀自身が輪廻転生した膨大な数の過去世をありありと観たのです。

天眼智は、生ける者たちがその業(行為)によって死後どのような世界に赴くかをありありと観たのです。

 

つまり、仏陀の理法にとって、死後の世界も輪廻転生も根幹をなすものであり、そして、死後の世界も輪廻転生も厳然と存在するからこそ、それらからの解脱を究極の目的としたのです。

 

『この世もかの世もともに捨て去る』のが、解脱です。

 

そして、この考えは、バラモン教(ヒンドゥー教)と全く同じなのです。

バラモン教(ヒンドゥー教)も輪廻転生を説き、そして輪廻転生からの解脱を究極の目的とします。

 

なぜ、それが、バラモン教(ヒンドゥー教)の全否定が仏教と思われるようになったのでしょうか。

 

それは、バラモン教(ヒンドゥー教)が、存在の根源としての神を説き、神を信仰したり、神を瞑想したり、神に帰依することをその教えとしましたが、歴史上の仏陀は自己を洞察する道を選んだからです。

 

ここが画期的なことなのです。

仏陀はここにおいて唯一であり、『天上天下唯我独尊』なのです。

ウパカに言った言葉そのものです。

四諦も十二縁起も四念処も、自己を洞察する理法なのです。

どのように苦が集起し、苦の集積に向かったのかを洞察する理法なのです。

 

仏陀は、自己ならざる神を瞑想する方法はとりませんでした。

 

そして、自己から解脱した如来には実体があるか実体がないか、については無記として答えませんでした。

 

 

大乗仏教の考え方に、上の念仏、中の念仏、下の念仏、というものがあります。

 

上の念仏というのは、真理そのもの、仏陀の理法を観ずること。

中の念仏とは、仏の姿、つまり仏像のような姿を観ずること。

そして、下の念仏とは、声に出して仏の名前を唱えること。

 

歴史上の仏陀のやり方としては、このうち、上の、理法を観ずることでした。

 

そして、何百年もの間、仏像は作られませんでした。

 

ところが、如来の死後を無記としたり、あるいは、非我の理法を無我すなわちアートマンがないとしてしまったりしたことなどから、仏教は唯物論の方向に傾きます。

ひたすら、灰身滅智が理想とされます。

 

そのような唯物論に傾いた部派仏教への反動、アンチテーゼとして大乗仏教が興ります。

 

大乗仏教では、阿弥陀如来や大日如来が登場し、仏像もさかんに作られていきます。

仏の姿を観想することも重要な行となっていきます。

 

大乗仏教は、灰身滅智の方向に大きく傾いてしまった部派仏教のアンチテーゼとして興りました。

 

 

仏陀の死後、仏教は、バラモン教の全否定の性質を強めていき、アートマンやブラフマンの否定、世界の根源なるものの否定の色彩を帯びていきます。

僧院にこもって煩瑣な理論を構築することに励むようになります。

仏教は神秘的な色彩を取り除いた、唯物的な哲学、心理学となっていきます。

 

そのような仏教に強い不満を持ち、『そのようなものは仏陀の真意ではない!』と叫んで興ったのが大乗仏教です。

見失われた『大いなるもの』の復興運動でした。

『大いなるもの』の象徴が阿弥陀如来であり、大日如来でした。

法華経で言えば、久遠実成の釈迦如来です。

 

前の投稿で、大日経の『心と虚空界と菩提との三種は無二なり。これらは悲を根本とす。』という言葉を挙げました。

悲とは、慈悲喜捨の悲です。四無量心です。

虚空界とは本源的な真如の世界です。大日如来の世界です。

菩提とは悟りの境地です。

つまり、大日如来の真如の世界と悟りの境地と無量心は同じだと言っているのです。

もっと言えば、悲無量心が根本だと言っているのです。

 

阿弥陀如来にしても大日如来にしても久遠実成の釈迦如来にしても、四無量心の象徴であると言えるでしょう。

阿弥陀如来も観世音菩薩も、大慈大悲を本心としています。

大慈大悲の働きそのものです。

法華経でも、如来の室とは大慈悲のことだと示されています。

 

大乗仏教は四無量心を高く掲げた運動であったのです。

 

ですから、双麻さんのご質問への回答は、大日如来も無量心も無二で同じだと、私は考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良質サイトの閉鎖に思う

 くり (150.66.119.14)  
ショーシャンクさま、こんばんは。
お久しぶりです。くりです。
とうとうマニカナ、閉鎖されてしまいました(涙)
ショーシャンクさまとの部分だけとは言え、マニカナの過去ログ、保存して頂いて有難うございます!!!
わたしにはまるで 古刹の大寺院が赤く焼け落ちる直前、大切な経典のほんの一部ではありますが、それが救い出されていたように感じています。
 
>縁起だから閉鎖するのも仕方ない、誰も責めちゃいけない、
>閉鎖するのも無常で美しい、なんて最終日に書く人もいたけど、何馬鹿なこと言ってるんだと思った。
>そんなのを仏教だというのであれば、仏教はいいものを何も生みださない。
>善きものが閉鎖して、悪い者が繁殖するだけの教えになってしまう。
>何とも情けない限り。
 
うん、うんと頷いています。
お釈迦様が入滅される直前、悪魔が出てきて、「もう教えがしっかり世に広まり、弟子たちもしっかり育ったので、今こそ入滅される時です」と言われて、お釈迦様は昔した悪魔との約束に従って入滅を決意されたのですよね。
そこには論理がありました。
それを思えば、石飛道子先生は長年研鑽されてきた龍樹本を出したら、その時、マニカナを閉鎖しようと思っていたと仰ってましたから、お釈迦様のように心穏やかだったわけではないと思います。
そこが何とも残念です。
秋は深まり、だんだん寒くなってきましたが、ご自愛くださいね。それでは、また。

 

 

 

くりさん、お久しぶりです。

マニカナ掲示板、閉鎖されてしまいましたね。

仏教学者で大学の先生が直接主催されている仏教掲示板でとても良質なサイトでしたので残念です。

芳和さんという人が投稿し始めて初めの2週間は良かったのですが、すぐ癇癪を起してしまって、それから石飛先生に罵詈雑言するようになりました。

ここで一気に心理的な参入ハードルが下がったため、相次いでミチオ君やメッターなどヤフー掲示板のときのアラシたちがなだれ込んできました。

ミチオ君もメッターも芳和さんが癇癪起こさなければ入ってこれなかったと思います。

それからの酷さはくりさんもご覧になった通りです。

私はヤフー掲示板で良質なスレッドがアラシのために閉鎖される光景を数多く見てきました。

アラシがそのスレッドに居続けるせいで、新規の投稿者が激減し、常連や古参の投稿者もだんだん投稿しなくなるのです。

毎回繰り返される罵詈雑言に加え、そのように有益な投稿もめっきり減ってしまうのでスレ主がそのスレッドを継続するモチベーションがなくなり閉鎖に至るパターンばかりでした。

このことを危惧し、私は石飛先生に何度か、ルールを作って従わない者は投稿禁止とするべきと進言しましたが、『そのうち飽きて来なくなるでしょう』と思われていたようです。

アラシする者は、みんな自己重要感が枯渇している者ばかりなので、『飽きる』というようなことにはならないとも言ったのですが。

 

 

>縁起だから閉鎖するのも仕方ない、誰も責めちゃいけない、
>閉鎖するのも無常で美しい、なんて最終日に書く人もいた
 
本当にこれは何なんでしょうね。
『縁起』という言葉をこのように使ってしまう人が日本では大部分だということでしょう。
『縁起』というものを、『自分以外の無数の原因や条件によってこのような現象が起きているのだから、自我で何とかしようと思ったり誰かを責めたりしてはいけない。文句を言わずそのまま受け入れるべき。』というように捉えてしまっています。
このような間違った意味の『縁起』こそ仏教の核心だと思い込んでいます。
これは、歴史上の仏陀が最も嫌った、意思否定論、運命論です。
自分を離れたところですべては決まっている、みたいな感じですね。
原始仏典に、仏陀がこのような『縁起』の意味の使い方をしたことはただの一回もありません。
 
最近、正法・像法・末法ということを考えることがあります。
仏陀が言ったことではないので重要視はしていませんが、ただひとつ、歴史上の仏陀の言葉として『贋金が本物に取って替わられるときが来る』という言葉は確かあったような気がします。
それが、後世になって、像法という名前をつけられたのでしょう。
確か、同じく歴史上の仏陀の言葉として、(比丘尼を認めたために)正法は500年しか続かないとの言葉もあったような気がします。
このことを元にして、正法の時代は500年しか続かず、その後に像法の時代となるとされたのでしょう。
そして、『像』の意味は、形だけは残るが中身が全く違うということです。
そして、実際に仏教史ではそれが起こったような気がします。
『縁起』という言葉は残って重要視されていますが、その中身の意味が仏陀が言った意味と全く違ってしまったと思います。
 
それにしても、良質のサイトの閉鎖は残念ですね。
くりさんが言われるように、大般涅槃経での仏陀を思い出します。
その時のアーナンダが古参のpocketという人なのかもしれません。
『それを言うか?』みたいな感じですかね。
仏陀もアーナンダに違う言葉を言ってほしかったのでしょう。
pocketという人の『出版する本を宣伝しようとしている』という言葉によって、私は、本を出版した後には絶対にマニカナに投稿しないと心に決めましたから、やはり言葉を選ぶべき人だったかもしれませんね。
 
今回、過去ログで『ショーシャンク』という言葉にヒットしたものだけを保存して掲載しました。
マニカナのほんの一部分ではありますが、それでも喜んでいただけたのはうれしいことです。
 
何か急に寒くなりましたね。くりさんもご自愛ください。
 
 

 

 

 

毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマン

 双麻 (183.180.150.92)    
すぐにお返事をいただき、本当にありがとうございます。
ショーシャンク様は早い時期に仏教に興味を持たれたことで、
様々な観点からの学びと洞察から得られた幅広い知識と日本仏教愛が育まれたのだとお見受けします。
そうやって良いところも悪いところも見てこられた中から、そのモヤモヤを解決すべく原始仏典を通して真正面から仏陀と真摯に向き合われたことで、
宝石のように光り輝く素晴らしい名著が生み出されたのだと感じました。
ショーシャン様がおっしゃるその小石を人類は二千年以上も、たとえ目の前にあってさえ誰にも見えなかった。
それが私のような入門者ですら目にすることが出来るようになった。
人類の至宝の一端に触れることが出来るようになった。
本当に有り難いことだとしみじみと思います。
見えなかったものが見えるようになったというのは物凄いことだと思います。
このストレス社会で将来に明るい展望も見えない現代、仏陀の理法を求めている人は無数にいるでしょうし、
真の仏陀の理法を求める若い僧侶や研究者もいることと思います。
この波紋の存在が呼び水の一つとなって全てが良い方向に向かっていくことを望んでいます。
次回作も心より楽しみにしています。
今作と次回作によって、上座部仏教と大乗仏教を結び、日本と世界の仏教を結び、仏陀の時代と現代とを結ぶ、素晴らしい世界が開けることになるであろうと確信しています。
お忙しいとは思いますが、どうぞご自愛ください。
 
追伸   書籍やブログを読んでいて疑問が4つほど生まれました。
お時間に余裕のあるお手すきの時にお答え頂けると幸いに存じます。
もしかしたら浅学ゆえに的外れな質問があるかもしれません。
その時は失礼をおかけするかもしれません。
申し訳ありません。
今回はとりあえず一つだけお願いします。
 
1.  無量心と毘盧遮那仏とブラフマンの違いは何なのでしょうか?
無量心と毘盧遮那仏または大日如来とブラフマンまたはアートマンの違いについてショーシャンク様の考えをお聞かせください。
サムシンググレートとかいう言葉も最近目にしました。
何か物事を学ぶ際、勝手に別のものと同じだと思い込んで知らず知らず進むべき方向性がずれてしまう人がいます。
そうなってしまわないよう、ショーシャンク様の考えをお聞きしたく思っています
宜しくお願い致します。

 

 

 

双麻さん、こんにちは。

極めて根源的な問題で、これを本当に説明しようと思うと1か月は優にかかるでしょう。

かなり端折ってやっと答えられるくらい根本的でしかも極めて微妙な質問です。

 

そして、その前に、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンの定義をしないと混乱するだけになります。

 

例えば、神道に、天之御中主神という神様がおられます。

造化三神の一柱です。

この神様を、最高神とする説があります。つまり、八百万の神々のうちの最高の地位の人格神だということです。天照大御神を神道の最高神とする考えもあります。

それとは違って、天之御中主神を人格神ではなく根源神、つまりすべての存在の本源だとする考えがあります。

このように、同じ天之御中主神でも、その解釈は様々であり、どのような解釈なのかで全く違ってくるのです。

 

アートマンにしても、霊魂のように捉える考えがあります。

肉体が滅しても霊魂という個体は永遠に残るという考えです。

輪廻転生する主体という意味合いを持ちます。

しかし、アートマンの本来的な意味は、自己の根源です。

梵我一如というのがバラモン教、ヒンドゥー教の根本的な教理ですが、この場合、梵つまりブラフマンは一切の存在の根源ということです。

一切の存在の根源、宇宙の根源が、自己の根源と同一だというのが、梵我一如の考えです。

もし、輪廻転生する主体、霊魂という意味でアートマンという言葉を使う場合、これは迷いの我にしか過ぎません。

ですから、梵我一如とは言えないのです。

つまり、アートマンという言葉でも、迷いの我という意味と真実の我という意味の正反対の意味で使われて混乱しているのです。

 

ブラフマンにしても、一切存在の根源、すべての本源という意味と、ブラフマーとして最高の人格神という使い方があります。

これが仏教も後世になればなるほど、梵天という色界最下層の神となってしまいます。

 

毘盧遮那仏または大日如来についてもそうです。

人格を持った仏なのか、宇宙の本源なのか、です。

宇宙の根源そのものとすれば、個別に言葉で説法することはありません。

それならどちらで解釈すればいいのか。

大日経では、毘盧遮那仏は持金剛秘密主に対し『秘密主よ、心と虚空界と菩提との三種は無二なり。これらは悲を根本として、方便波羅蜜を満足す。』などと説きます。

言葉で説法しているので、人格を持っていますね。

しかし、密教では、大日如来は宇宙の根源でもあり宇宙そのものでもあります。

 

つまり、このように、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンと言っても様々な定義、解釈があり、どの定義で質問されているかで、答えは全く正反対となるのです。

 

まずは、毘盧遮那仏、大日如来、ブラフマン、アートマンの定義をして質問してください。

 

 

 

ぎんたさん、こんにちは。

 ぎんた (126.129.190.210)  
 
初めまして!ぎんたと申します。
 
今朝、マニカナに行ったら閉鎖されていて、 検索したらこちらに辿り着きました。
 
で、わ~ショーシャンク(←ほとけ)さんだ~~~となりました。
 
専門的なコトは 分らないので、ひたすら(エモ~~い) と思いながら、ロムさせて頂き、仏教用語を、薫習させて頂きます!
 
ご挨拶だけさせて頂き、今後はコメントしませんので、どうかよろしくお願いします。

 

 

 

ぎんたさん、はじめまして。

マニカナでのぎんたさんのご投稿を楽しく読まさせていただいています。

感性が素晴らしく、いつも爆笑させていただいています。

爆発力が凄いですね。

 

マニカナ、完全閉鎖とか。残念です。

石飛先生には大変お世話になりましたので、閉鎖までにはご挨拶させていただこうと思っています。寂しくなりますね。

 

ぎんたさん、掲示板かブログを立ち上げていただけないでしょうか。

ぎんたさんの感性溢れる文章が読めなくなるのは残念ですから。

私も参加させていただきます。きっと、Blumeさんも来られるのではないでしょうか。

ご検討いただけましたらうれしいです。

こちらのブログにしても、ロムだけとはおっしゃらずにどのようなことでもコメントいただけるとうれしいです。

これからもよろしくお願いいたします。

 

仏陀の理法が甦る時代が

 双麻 (183.180.150.92)    
 
ショーシャンク様、はじめまして。
HNを双麻(そうま)と申します。
 
著書を拝見させて頂き強く感動し、こちらのブログも始めから 少しずつ読ませていただき、勉強させて頂いております。
 
私は恥ずかしながら現代日本人的無知さで、神社は好きでも仏教には お墓や葬式などの陰気臭いイメージがあり、
最近まで興味を持てずにいました。
 
しかし、数年前に妻の希望から観光で訪れた寺院より帰ってしばらくすると その場所で特に何か感銘を受けた出来事は無かったはずなのに
なぜか妙に仏教が気になりだし、学び始める事になりました。
最初は観光で訪れた宗派の基本を本で学びましたが、 仏教の魅力はより強く感じたものの、何かモヤモヤが残りました。
 
そう感じるのは自分の仏教の根本的な知識不足から来るものだと判断し、
仏教を基本から学び仏陀を知ろうと宗派に関係無い入門の本を集めたのですが、
モヤモヤが募るばかりでした。
解ったような何も解らないような。
 
なにしろ仏教は仏陀が悟りを開きその教えを広めたことで起こった…はずなのに、
仏陀は何を悟ったのか、どうやって悟ったのかという一番肝心な所が解らない。
 
そんな時に出会ったのが、「仏陀の真意」でした。
 
現代日本にショーシャンク様のような方がおられたという事に、
仏陀と神様と御祖先様に感謝したいと、心より有り難く思っております。
 
私自身、自分を成長させたいと願い、暗闇の中を手探りの中、 この方向へ進めばいいのではないかと蝸牛の歩みで彷徨っていました。
 
その暗闇の先に光が見え、目的はまだ遥か遠くではありますが 進むべき方向が見えた気がいたしております。
 
本当に有難う御座います。

 

 

 

双麻さん、はじめまして。

『仏陀の真意』を読んでいただきましてありがとうございます。

分かっていただける方がおられてとてもうれしいです。

 

私もずっと、双麻さんと同じような違和感を仏教に対して持っていました。

モヤモヤという感覚です。

私が仏教に興味を持ったのは、中学や高校の時でしたから、かなり長い間モヤモヤしていたことになります。

大乗仏教から原始仏教、そして上座部仏教などの部派仏教、どのジャンルのどのような仏教書を読んでも、モヤモヤ感は強くなる一方でした。

仏陀の理法がどこにあるのか、仏陀の真意は何なのか、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、大乗仏教や上座部仏教の本を読んでもモヤモヤしていました。

原始仏典を解説している仏教書も数多く出版されていますが、どれを読んでも、例えば四諦の法にしても、『これが仏陀が真髄とした四諦の法の真意なのか?』と唖然とするような解説ばかりでした。

四諦の法は、仏陀が、象の足跡という比喩を使ったほど、すべての理法を包含する理法なのです。

仏陀が命がけで修行したときに、三明の最後、漏尽智は四諦の法に依って至ったのです。

仏陀の理法の根幹が四諦の法ですが、どの仏教書の解説もどんよりして全く心に響かないものばかりでした。

十二縁起の法はもっと酷く、まともに解説してある仏教書もほとんどありませんでした。あったとしても、十二個の項目を羅列しただけでお茶を濁していました。

正直な仏教学者は、『十二縁起は順番に矛盾が生じてしまう』と書いているものもありました。

確かに、十二縁起のどの解説を見ても、大きな矛盾が出てくるのです。

十二縁起というのは、仏陀が三明によって悟った後、七日後の夜に、十二縁起を順逆観じて、疑念がすべて消滅し、悪魔の軍勢を粉砕して、天空の太陽のように輝いたのです。それほど、成道に決定的なものをもたらせた重大な瞑想法です。

仏陀の瞑想の内容そのものなのです。

しかし、それによって瞑想できるような解説はただのひとつもありませんでした。

何か、根本的なことが間違っている、そう思わざるを得ませんでした。

それで、私は、それまで構築したすべての仏教知識を白紙にして、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのかを探求することにしました。

 

現代において文献学が急速に発展してきて、歴史上の仏陀の肉声に近いものはどれかが明らかになって来ました。

あるいは、グレゴリー・ショペンのように、紀元前後のインド仏教のありのままをあかし今までの仏教史認識を一変させるような発見も相次いでいます。

私のような一般人にも良書や情報が簡単に入手できる時代になりました。

これから、仏陀が本当は何を言いたかったのかを探求する人たちが増えてくると思います。

その流れはこれからの何十年かで大きなものになっていくでしょう。

私の本は、琵琶湖のような大きな湖に投じた小石のようなものでごくごく小さな波紋を生じてすぐ消えるものにしか過ぎません。

しかし、私の死後も同じように、今までの価値観や仏教概念にとらわれず、歴史上の仏陀が本当は何を言いたかったのかを先入観なしで探求していく人たちはあちらこちらで出てくるでしょうね。

私などよりもっともっと優秀な人たちが独自に仏陀の真意に迫っていくでしょう。

仏陀の理法は人類の至宝です。

あの、仏陀とその直弟子の時代、仏陀の理法は活き活きとしていました。

その仏陀の理法が甦るときは近いです。

 

仏教史は極めて特異です。

仏陀の死後、第一結集で仏陀が語ったことは確認し決定したのに、500年も後になって歴史上の仏陀の姿も声も知らない人たちが突如新しい経典を『如是我聞』と前置きして作り始めました。

そのような大乗仏典と原始仏典がほぼ同時に漢訳され中国に入っていったので、中国ではどちらの経典も仏陀の金言だと認識して、大乗仏教が主流となりました。

 

大乗仏教側は部派仏教を小乗仏教と貶し、部派仏教は大乗仏教は非仏説つまり仏陀が説いたものではないと否定します。

現代でも、両者の関係はうやむやになったままです。

大乗仏教側は、自分たちの根拠を疑われる文献学を憎んでいます。

しかし、私はそれはおかしいと思っています。

文献学や考古学で歴史上の仏陀の肉声が明らかになるのは非常に喜ばしいことです。

その上で、500年も経ってなぜいきなり大乗仏典が作られていったのか、その根拠を明らかにすることによってのみ、大乗仏教の価値の全貌があらわれると思っています。

 

大乗仏教は仏陀の真意の復興運動であったと私は思っています。

そして、それは、部派仏教のあり方に強烈な不満を持った人たちによるものだったと思っています。

そのすべてがあきらかになったとき、原始仏教と大乗仏教がともに仏陀の真意を基盤にすることが理解されるのだと思います。

その時、小乗と貶す人はなくなり、大乗非仏説と否定する人もいなくなるでしょう。

その時代が来る頃には私は生きてはいないでしょうけど、これから何十年、何百年かして、そうなることでしょう。

 

 

そして、仏陀の悟りの全貌が明らかになるでしょう。

私も、今までの仏教書を読んでいたときには、仏陀の悟りはいわく言いがたいもの、言葉として表現できないもの、あるいは言葉で語ってはいけないもの、というように思っていました。

これは今の仏教が龍樹仏教だからです。

龍樹は、言葉を戯論としました。

言葉を迷妄の根元としました。

しかし、仏陀にはそういう考えはありません。

私は、仏陀が自分自身の悟りについて詳しく語っていることを知り、びっくりしました。

ちゃんと言葉で語っているのです。

何らの先入観を持たずに、直接、原始仏典に向き合うことがいかに大事か、わかりました。