日本仏教のいい加減さ

マニカナで内山興正という仏教者をさかんに引用している人がいたので、ずいぶん前に買ったその人の著書をさらっと読んでみました。内山興正という人の本を買ったことすら全く忘れていましたが。

 

その本の中で書かれている釈尊のエピソードを読んでのけぞりました。

こうあります。

 ⬇⬇⬇

 

お釈迦様の一番弟子の舎利弗尊者が、托鉢ーインドではお金ではなくて食べ物を布施するーに歩いていたらすばらしい御馳走を貰った。

舎利弗尊者もやはりギョッとして『俺みたいな徳の足りない人間が、こんな御馳走をいただくとは』と思ったに違いない。

急いで帰るとお釈迦様に召し上がっていただこうと、早速それを差し上げた。

ところがそこへ腹をへらした痩せ犬が来たら、お釈迦様は受け取った御馳走をそのまま犬に食べさせてしまわれた。

そして、

『舎利弗よ、お前は私に御馳走を供養した。私はそれを犬に食わした。どちらが功徳が多いかや。』

そう言われて舎利弗もピーンときた。

御馳走だからといって、特にお釈迦様に供えるのは、人間的分別の話でしかない。御馳走であろうと何であろうと腹のへったものにスッとやる、これが露地の地盤だ。

『それはお釈迦様が犬に食べさせてしまわれた方が、功徳が多うございます。』

舎利弗尊者はおそるおそるこう答えて、冷や汗をぬぐったという。

※※※※※

 

 

仏教者と言われる人たちが、釈尊の行為だとして、勝手にありもしないエピソードを作り上げています。

このエピソードが全くのデタラメであることは明らかです。

なぜなら、本当にこのようなことを釈尊が行なったとすれば、その時点でサンガのシステムはすべて崩壊してしまうからです。

2500年後の今も東南アジアでサンガが存続しているのは、こういうエピソードなどなかったからです。

日本には、仏教伝来以来今まで、サンガが存在したことは一度もありませんでした。

日本人にとって伝来した仏教は、先進国の文化文明そのものでした。

僧侶は国家公務員でした。

出家とは名ばかりのなんちゃって出家でずっと来たのです。

ですから、托鉢といっても形だけです。

最古の仏典スッタニパータも入ってきたのはごく最近です。

 

さて、釈尊が定めたサンガのシステムはこうです。

出家者は午前中にその日食べるものだけを托鉢する。

そしていただいたものを正午までに食べる。

もし、正午までに食べ物をもらえなかったらその日は食べない。

これが決まりです。

在家の人は、出家者に供養することで大きな功徳を得る。しかも、修行ができた人であればあるほどその供養の功徳は大きい。だから、出家者は、応供=供養に相応しい者=仏となるべく修行をする。在家者は功徳を求めて積極的に出家者に供養する。

これが、釈尊が定めたサンガのシステムです。

 

それが良いか悪いかは別として。

私は現代的には、社会で活躍できるときには目一杯儲けて、お金が貯まって仕事しなくても自立できるようになればそのお金でアーリーリタイアして修行に励むというのが、これからの出家の姿だと思っています。誰かに供養して貰わなくてもいいようなシステムにすべきだと思っていますが、それは置いておきます。

 

上のような釈尊が定めたサンガのシステムを知らないが故に、日本の仏教者はいい加減なエピソードをでっち上げてしまいます。

仏教に無知な人が、この本を読んで、本当に釈尊が腹を空かせた犬に御馳走を上げる方が功徳が多いのだと言ったと思い込んでしまったら、実に罪深いことです。

 

日本の仏教は悪平等、虚無論に陥りがちです。

聖なるものも人間的分別知などといって否定してしまう傾向にあります。

 

釈尊に供養するより、腹を空かせた犬に御馳走をあげる方が功徳が多い、などと言っていたら、人間を襲って食べた熊を猟友会の人が射殺することはできなくなりますし、赤ちゃんを襲う腹を空かせたカラスを撃退することもできなくなります。

コロナウイルスも自らの遺伝子を存続させるべく必死です。

コロナウイルスを殺すことも、理に反することになります。

 

人間の世間的な分別知を破る、相対や二元性を超える、というようなことを日本の仏教者は強調して野狐禅となり、空一辺倒、虚無の世界観に陥ることが非常に多いです。

こうなるくらいなら、仏教などやらないほうが何百倍もましです。

 

釈尊やその高弟に供養しようとして心を込めて作った御馳走を、釈尊が食べずにふらっときた野良犬に全部やってしまったと知ったら、扶養した人はどんな気持ちになるでしょう。

そういうことを思いやる心がないということです。

釈尊も野良犬もカラスも蟻もゴキブリも腹を空かせていたらそちらのほうに御馳走をやるのがいいというのは悪平等です。

 

 禅僧が、自分の体験として、供養された御馳走を犬にやった、というのであれば、そう言えば良いのですが、釈尊のエピソードとしてでっち上げるのはやめてほしいところです。

 

 

四念処の順序の意味

四念処の、身⇒受⇒心⇒法 について

 

①身=肉体 

 

この肉体を無常であり(生じたものは必ず滅すると言う意味です)衰滅するが故に苦であり、私ではない、と観じます。

 

 

 

②受=感覚 

 

肉体があれば感覚が生じます。

受=感覚には、痛いなどの不快な感覚、苦の感覚(これを、苦受といいます)と快適な感覚、快楽の感覚(これを、楽受といいいます)、そして苦痛でも快楽でもない感覚(これを、不苦不楽受といいます)、があります。

しかし、楽受も快楽の対象が衰滅していきますからそれを失ったときに苦痛と変わります。これを壊苦といいます。

苦痛でも快楽でもない感覚も、自分の感覚器官が衰滅していき苦痛に変わります。これを行苦といいます。

苦受ははじめから苦ですから苦苦といいます。

受はすべて苦に行き着くのです。

仏陀が言った、『すべては最後には違逆にあう』ということです。

 

 

 

③心=思考

 

私たちの思考は、そのほとんどが、受=感覚に反応して起きます。

感覚があったとき、それへの連想という形で今までの記憶の束が反応するのです。

例えば、赤い椿の花を見たときに、『この花は何だろう』と自分の記憶の束から探しに行きます。あるいは、いぜんに椿園に行ったことを思い出します。あるいはいっしょに行った人のことを思い出すかもしれませんし、そこで食べた料理を連想するかもしれません。

このように、椿の花を見た反応として、連想が次々に涌いてでます。

心は受に反応してとりとめのない思考を生み出し続けます。

次の受があれば、例えば、椿の花を見ているときに、空で飛行機が飛んでいる音がしたとか、猫が近づいてきたとか、そういう次の受によってそれに対してまた連想や思考が涌いてでます。

このように思考は生じればすぐ滅するとりとめのないものです。

このようなものは私ではない、と観じます。

 

 

④法=観念・記憶

 

眼耳鼻舌身意の対象が、色声香味触法です。

眼⇒色

耳⇒声

鼻⇒香

舌⇒味

身⇒触

意⇒法

です。

意の対象である『法』とはこの場合、思考とか、思考が固まった観念とか、思考のほとんどの構成要素は記憶ですから記憶、といった物を表わしています。

 

いままで、身⇒受⇒心 のどれも私ではないと観じてきましたが、

その最終段階として、身や受から毎日植え付けられているもの、そして心=思考の根源になっている観念・記憶について、『私ではない』と観ずること、これが四念処の究極だと思っています。

 

こうすると、身⇒受⇒心⇒法 の順序に重大な意味があることがわかってきます。

 

四念処の『法』

斑鳩の里 (124.143.129.212)  

新年明けましておめでとうございます。 いつも拝読しております。
 
ショーシャンクさまの文章はどれも真理に迫っており貴重な内容だと日頃より感じています。
今日のお話の中で、「記憶の束」という言葉がございます。
この言葉は過去の文章の中でも説明されていますが、 この「記憶の束」はいわゆる「諸行」や「五取蘊」などと関係のある言葉でしょうか?
もしよければご教示ください。

 

 

 

斑鳩の里さん、明けましておめでとうございます。

はじめまして、ですね。よろしくお願いします。

 

記憶の束というのは私が独自で使っています。

四念処の中の『法』を、『記憶の束』『観念の束』と解釈しているのです。

 

四念処は、身⇒受⇒心⇒法 の4つを『無常で苦であり私ではない』と観ずるものだと私は思っているのですが、その中の『法』を観念・記憶というように思っています。

仏教において、『法』と言う言葉は、実に重要なのですが異なった意味があります。

今までの仏教入門書などでは、四念処の『法』は『存在』『物』と言う意味に解釈して、『法は無我なり』を観ずることだと書いてあることが多いです。

 

身は不浄なり

受は苦なり

心は無常なり

法は無我なり

と言うように解説してあります。

そして、『法は無我なり』は、すべての存在には我(自性・実体)がないことを観ずることだと書いてあります。

 

 

しかし、私は、四念処の『法』とは、記憶・観念のことだという確信があります。

 

私たち人間は生まれてから、肉体を持ち、感覚を持ち、身体の感覚に反応して想念が沸きあがり、感覚の経験を記憶として積み重ねています。

その『記憶の束』を『私』と呼んでいるのです。

四念処は、そのようなものを『私ではない』とdelete(消去・浄化)していく観法です。

 

歴史上の仏陀は、四念処こそ涅槃に至る一乗道と言いました。

在家も出家も四念処で涅槃に至ると言っているのです。

それほど重要なものです。

 

 

仏教の用語の順序には非常に重要な意味があります。

例えば、八正道。

正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命⇒正精進⇒正念⇒正定

この順番には、八正道を解き明かす鍵があります。

重要な仏教用語はすべてそのように順番に意味があるのです。

 

四念処の、身⇒受⇒心⇒法 の順序にも極めて重要な意味があります。

なぜ、この順序なのかを解き明かしていない解釈は間違いだと思っています。

三十七菩提分法においてもすべてその順序には重大な意味があります。

 

 

 

眼耳鼻舌身意の対象は、色声香味触法 です。

このときの、意の対象である『法』は、心の中の記憶や観念です。

 

私は、四念処の『法』は、この意味だと解釈しています。

悟って7日目に十二縁起を観じた理由

仏陀は、このように、宿住智、天眼智、漏尽智の三明によって、菩提樹下で悟りを開きました。

そして、菩提樹下において、7日間、結跏趺坐したまま解脱の楽しみを味わっておられました。

7日目の夜に、仏陀は十二縁起を順逆観じます。

 

十二縁起は、宿住智と天眼智によって、四諦とともに導かれた理法です。

漏尽に際しては、四諦の法を観じました。

そして悟った後7日目に十二縁起の理法を観じたのです。

 

これは何を意味するでしょうか。

 

四諦の苦諦は、煩悩を滅尽する強力な法です。

 

そして、十二縁起は、苦の原因たる自我の成り立ちを徹底的に観ずる理法です。

悟った後、我塊を徹底的に滅尽する理法として十二縁起があったと考えます。

 

禅定だけ修行して悟ったと思い込む人が禅宗を中心に多いですが、それでは我塊はそのままです。

我塊とは、記憶の束、そして私があるという感覚です。

 

漏尽智とは

わたしは煩悩の漏出を消滅し尽くして、煩悩の漏出のない、こころの解脱(心解脱)と智慧による解脱(慧解脱)を現世において自ら知り、体現し、到達している。

 

 

 

さて、いよいよ漏尽智です。

宿住智や天眼智によって、四諦の理法が導かれていきます。

四諦の理法の骨格は因果の理法、縁起の理法そのものだからです。

 

この四諦の法をはっきりと認識していきます。

 

苦と苦の集起と苦の消滅と苦の消滅に至る道をありありと観じます。

 

それによって、煩悩の滅尽に至ります。

 

これが漏尽智です。

 

天眼智とは

私は欲するままに、清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。

劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。

『あなたたちよ、これらの生ける者は身体による悪行をそなえ、言葉による悪行をそなえ、心による悪行をそなえ、貴き人を誹謗し、邪な見解を抱き、邪な見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、喪失の世界、悪い境涯、堕ちる世界、地獄に再生する。

あなたたちよ、これらの生ける者は身体による善行をそなえ、言葉による善行をそなえ、心による善行をそなえ、貴き人を誹謗せず、正しい見解を抱き、正しい見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、よい境涯、天の世界に再生する。』と。

 

このようにかれは清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。

劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。

 

 

 

これが、天眼智について仏陀が語った言葉です。

天眼智とは、天から見るように、あらゆる生きとし生けるものの有り様を俯瞰して見る智慧のことです。

すべての者は、自らの 業=kamma =身口意の行為 を原因として、その結果が現象として展開する、という有様をありありと見たのです。

 

仏陀は、天眼智によって、因果の理法を悟ったと言えます。

 

 

因果の理法の意味は、後世の仏教なるものとは全く違うものです。

仏陀が説いた因果の理法とは、すべての現象は結果でありその原因は業=kamma =身口意の行為 だということです。

 

業=kamma =身口意の行為 で、

身口意の3つの業を、それぞれ、身業、口業、意業と言います。

この3つの業は、思業と思已業に分けられます。

思業とは思いが内にあって外に現われてないものであり、意業のことです。

思已業とは、思いが外に現われたもので、身業と口業がそれに当てはまります。

 

つまり、身業も口業も意業も、思いのことなのです。

内にある思いか、外に出た思いか、の違いだけです。

 

因果の理法とは、『思い』を原因として現象が形作られていくという根本理法です。

 

 

仏陀は、どのような人間であれ、自らの思いによって自らの現象(身体や環境)が形作られていくことをありありと見たのです。

 

つまり、思いによってすべてが変わっていくという主体的な教えなのです。

 

それが、後世の仏教になればなるほど、因果というとおどろおどろしい運命論のようになっていきました。

因果だから仕方がないというあきらめの考え方、虚無論になっていきました。

大間違いです。

 

また、今の仏教者によくある間違いですが、因果や縁起を物理学的な原因結果のように捉えて、『仏教は科学的だ』などというものも非常に多いです。

このような解釈が蔓延っているために、仏教なるものはどこにも行き着かないものにまでなってしまいました。

 

それでは、因果の理法と縁起の理法はどう違うのでしょうか。

 

縁起の理法は因果の理法に含まれます。

縁起の理法は、苦の縁って起こる原因のことです。

因果の理法の中で、苦の生存の原因に特化したものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

宿住智とは

わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。

そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。

 

このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。

 

 

 

さて、これが宿住智について書かれている箇所です。

仏陀は宿住智によって、自分の過去の生存をありありと見たのです。

過去の様々な生存において、いろいろな安楽と苦痛を感受して生き、そして次の生存へと再生していったことがはっきりとわかったのです。

 

なんと数多くの苦の生存を経巡ってきたことか、そしてその苦の生存の縁って起こる原因をはっきりと理解したのです。

 

このことから、四諦十二縁起の理法に導いたのは、宿住智だと言えます。

 

 

一切智とは三明のこと

仏陀は、6年間にわたる苦行(断食行と止息行からなる)は、何ももたらさないと考え、スジャーターからもらった乳粥を食べ、瞑想に入ります。

そこで、四禅を行じ、三明を得ます。

この三明こそ、仏陀の悟りを解き明かすものです。

仏陀が言う一切智とは三明のことです。

三明とは、宿住智、天眼智、漏尽智のことです。

 

 

 

【宿住智】についての記述

 

わたしは欲するままにさまざまな過去の生存を思い起こす。

すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、十万の生涯、幾多の消滅の劫、幾多の生成の劫、を思い起こす。

そこにおいては、わたしはこのような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没してこのところへ再生し、そこでも、このような名前であり、このような姓であり、このような種族であり、このような食べ物を食べ、このような安楽と苦痛を感受し、このような寿命をもっていた。

そのわたしはそこから死没し、この世へ再生した。

このように様々な過去の生存を、様相と細かな状況ともども、思い起こす。

 

 

 

【天眼智】についての記述

 

私は欲するままに、清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。

劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。

『あなたたちよ、これらの生ける者は身体による悪行をそなえ、言葉による悪行をそなえ、心による悪行をそなえ、貴き人を誹謗し、邪な見解を抱き、邪な見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、喪失の世界、悪い境涯、堕ちる世界、地獄に再生する。

あなたたちよ、これらの生ける者は身体による善行をそなえ、言葉による善行をそなえ、心による善行をそなえ、貴き人を誹謗せず、正しい見解を抱き、正しい見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、よい境涯、天の世界に再生する。』と。

 

このようにかれは清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。

劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。

 

 

 

 

『漏尽智』についての記述

 

わたしは煩悩の漏出を消滅し尽くして、煩悩の漏出のない、こころの解脱(心解脱)と智慧による解脱(慧解脱)を現世において自ら知り、体現し、到達している。

 

 

 

これが、宿住智、天眼智、漏尽智の三明です。

仏陀は、この三明こそが一切智であると言っています。

三明の他に一切智はないのです。

 

つまり、三明こそが、仏陀が悟った核心なのです。

 

 

 

 

 

                    

少しずつ書いていきます

さて、これから少しずつ、歴史上の仏陀は本当は何を言いたかったのか、を書いていこうと思います。

『本当の』仏陀の理法は、人類の至宝だと思っています。

しかし、残念ながら、その仏陀の残した至宝は、歴史の堆積物に埋もれてしまったといえます。

 

日本人のわれわれが仏教と考えているものと、仏陀が本当に言いたかったことは全く違います。

現代人は、仏教の根幹は『空』と『縁起』だと言います。

あるいは、『無常』『無我』だと言います。

しかしながら、歴史上の仏陀がいう『空』『縁起』『無常』『無我』と言う意味は、我々現代の日本人が考えている意味とは全く違います。

『苦』もそうです。

『因果』や『業』に至っては、なんともおどろおどろしいイメージがついています。

運命論のように感じる人たちも多いです。

 

はっきり言って、今の仏教なるものが、人間の精神に何をもたらしてくれるだろうか疑問に思います。

ヤフー掲示板は株式カテを除いてすべて閉鎖されました。その最後の1年ちょっと、仏教カテの掲示板にスレッドを立てていたことがあります。そこはアラシが多く、人格的に変な人が多かった印象です。

仏教なるものは、この人たちの精神に何をもたらしたのだろうと考えるようになりました。

自分の儲けばかり追求しているはずの株式カテゴリーの方はすっきりしていましたが、口先で『慈悲』や『懺悔』を言ってる人たちがかえって掲示板での行為に問題が多すぎでした。

このパラドックスはなぜ起きるのかなかなか解けませんでしたが、仏陀が本当に言いたかったことを探求していくとわかってきました。

 

仏陀の本当の理法、つまり仏陀が本当に言いたかったことは、人類の至宝だと思います。

これから、気が向いたときに少しずつ書いていきます。

 

 

明けましておめでとうございます

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Satya (218.227.248.70)      

ショーシャンクさん、あけましておめでとうございます。
昨年、「mercy05’s blog」を立ち上げることになったのは「仏教についてのひとりごと」にコメントしたことがキッカケになっています。
もし、コメントしていなければ、ブログは無かっただろうと思います。 ショーシャンクさんの正見の力は、皆さまに良き影響を与えつづけるだろうと確信しています。
これからも、お元気で、正しい思考の方向が生じる情報を発信されることを願っています。
本年も、ショーシャンクさんにとって良き年であることを、お祈りいたします。

 

 

Satyaさん、明けましておめでとうございます。

Satyaさん、ブログ始められたのですね。

いま、『mercy05’s blog』ブログ拝見しました。

内容がぎっしり詰まっているブログですね。

これから楽しみにしています。

仏陀の真意と大乗仏教が自分の中で繋がってから、このブログに書き込みしていませんでしたが、今年は、書き始めようと思っています。

今年もよろしくお願いいたします。

今年が、Satyaさんと皆さんにとって素晴らしい年になりますように。

仏陀の真意と大乗仏教

くり (101.143.81.101)    

ショーシャンクさま おめでとうございます! いつの日かショーシャンクさまが御覧になられているその清浄なる風景を綴っていただけることを心より願っております。

 

 

くりさん、おはようございます。

まだまだ悟ったわけでも無量に達したわけでもありません。

しかし、長年の疑念は氷解したように思えます。

大乗仏教は興るべくして興ったものだということ、しかし、大乗仏教は仏陀が残した筏を捨ててしまったために筏がなくどこにも行き着かないものとなってしまったと思います。

例えば、大乗仏教で『精進』という言葉を部派仏教から拝借して使ったとしても、一般語、抽象語にしてしまい『努力』というような曖昧な意味づけをして終わっています。

それでは、仏陀の真意などわかりませんし、仏教の雰囲気を嗅ぐくらいしかできません。

筏としての四諦十二縁起・四念処は激流を渡るためには必要であり、それに慚愧懺悔が起こってはじめて中心の消滅と無量の到達に至ると考えます。

ちまたでは、ワンネスの雰囲気を味わったことで見性とか悟りと言っていますが、それでは中心はそのままです。限定されたまま、激流に押し流されたまま『わたしは悟っている』と言っているだけです。

それがわかり、そして、しかし、大乗仏教が興るべくして興らなければならなかったわけもわかりました。

 

仏陀の直説は第一結集で確定したものだけです。

しかし、なぜ人々は500年も経って、あちらこちらで新しい経典を勝手に作り上げていったのか、これが非常な疑問でした。

その理由は複雑すぎてなかなかいま、言葉で表現するのはできませんが、その大きな源は仏陀が最期に際して残したメッセージに込められていることがわかりました。

 

部派仏教だけでもいけない、大乗仏教だけでもどこにも行き着かない、それがわかりました。

 

毎日ではないかもしれませんが、少しずつ、気が向いたときに書き込んだりしますね。

ありがとうございました。

 

疑問の氷解

koboyuki (27.82.211.253)    

ショーシャンクさんおはようございます。
ショーシャンクさんは悟ったのですか? 有余涅槃に至ったのですか? ならばどうか教えてください。 どんな人にも涅槃に至れる道を…。

 

koboyukiさん、おはようございます。

いえ、悟ったわけではありません。

長年、疑問に思っていたことが氷解したのです。

何かの本を読んでわかったわけではなく、何かのきっかけがあったわけでもなく、ふとわかった感じです。

禅の公案のようなものでしょうか。

心に記憶し留めておけば、あるとき疑問が氷解するときがあるものです。

それには真剣に心の中で問い続けることです。

例えば、クラシック音楽で、どうしてもわからなかった曲が、あるときにぴったりとわかるようになる、膜のようなものが破れたような感じになることがあります。

そういう感じです。

 

上座部仏教を中心とした部派仏教は、大乗仏教にたいし『それは釈尊が説いたものではない、非仏説だ。』と非難してきました。

釈尊に会ったことも声を聞いたこともないはるか後世の者が勝手に経典を作り始めたのですから当然の非難です。

それに対し、大乗仏教は部派仏教を『小乗仏教』と貶し、自分たちが優れていると主張してきました。

 

どちらが釈尊の真意なのかを探求してきましたが、それがわかったということです。

 

 

私のブログ一覧

『人生についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hatenablog.jp/

 

『仏教についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hatenablog.com/

  

『株についてのひとりごと』    https://shawshank-blog.hatenadiary.com/

 

『法律についてのひとりごと』   https://shawshank-blog.hateblo.jp/

 

 『人生を一変させるには』            https://shawshank-blog.hatenadiary.jp/

 

 

私のブログ『株についてのひとりごと』の閲覧者数(アクセス数)は、大統領選あたりから増えてきて、1日の閲覧者数が900人を超えたりしていましたが、昨日(11月17日)はじめて1000人を超えました。1103人でした。

『人生についてのひとりごと』と『仏教についてのひとりごと』は、それぞれ、1日の閲覧者数が100人~200人くらいで、たまに300人に迫ることがあるくらいです。

『法律についてのひとりごと』は、あるサイトで相談を受けていた時のやり取りです。

それを格納しているものですので、もう2年間も更新していないですが、日常生活で一番役に立つかもしれません。

 

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11月17日に『株についてのひとりごと』ブログの1日の閲覧者数が1000人を超えて1103人だったことを書いた翌日の18日はさらに伸びて、1日の閲覧者数が、1523人になりました。

 

仏陀の真意と大乗仏教がつながった

ずっと解けなかった謎がとけた。

 

仏陀は、五蘊非我を説いた。

そして、四念処の実践で、身⇒受⇒心⇒法 の4つがどれも無常であり(生じれば滅するということ)、苦であり、私ではない、と観じることを説いた。

病身の仏陀を見舞いに来た弟子に『このような老い朽ちていく私の肉体を見て何になろう。私の説いた法を見る者は私を見るのだよ。』と説いた。

 

仏陀の説いた理法からすると

当然、仏陀の肉体が仏陀なのではない。

まして、仏陀の遺体が仏陀なのではない。

仏陀の遺骨を特別なものとすることはあり得ない。

 

しかし、仏陀は入滅の前に、『私の遺体は、世界を支配する帝王のようなやり方で火葬し、ストゥーパを作って遺骨をまつり拝むべきである』と言った。

 

白骨観を説き、

『私の肉体はまさしくこのように朽ちていって白骨となるものであって私ではなく私のものでもない』と観ずることを教えた人が

なぜ、自分の遺骨を特別視して拝めと言ったのか?

 

仏陀が生涯をかけて説いた理法からは、『私の肉体は私ではない。遺体は私ではない。そのようなものにわずらわされることなくガンジス川に流しなさい。』と当然言うだろうと思えるのに、なぜなのだろう?

 

この疑問はずっと頭から離れなかった。

 

どうしても解けない謎だったが、はっきりとわかった。

 

仏陀のこの最期に際してのメッセージによって、大乗仏教は興るべくして興ったし、大乗仏典特に法華経はまさしくそのメッセージを正しく受け取った。

そのことがはっきりとわかった。

 

ちょうど、どこかの音楽評論家が言った言葉を思い出す。

ベートーヴェンの第九にこめられた導火線にワーグナーは火をつけた。それも正しく火をつけた・・・・

 

 

仏陀の入滅前のメッセージにこめられた導火線に大乗仏典は火をつけた。

大乗仏典の中でも特に法華経は正しく火をつけた・・・・

 

これで、仏陀の真意がつながった。

 

探求は終わった。

 

 

 

 

法華経の流通分

マニカナで法華経に関して書いている人がいて、観音経を裏門と書かれてあったので、少し触れます。

 

私が法華経にはじめて触れたときには、方便品が最も好きでした。

方便品の最初から十如是までがゾクゾクするほど名文でしたし、十如是がそれだけで法華経の真理そのままを表わしていると考えていました。実際、十如是は略法華と呼ばれています。

 

少し時が過ぎると、如来寿量品こそが法華経の真髄で、如来寿量品さえあればいいと思うようになりました。

 

しばらくしてから、法華経の喩え、特に長者窮子は人間存在を極めて的確に喩えたものだと思い、法華経の本質は喩えだと思うようになりました。

 

そしていまは、法華経の本質は、流通分にこそあるのではないかと思っています。

流通分とは分別功徳品から最後までです。

法華経の本質は、真空妙用でしょう。

無量の働きが宇宙に満ち満ちている。

それが少しでもわかり始めたときに、流通分の有難さが沁みてきます。