四念処の『法』

斑鳩の里 (124.143.129.212)  

新年明けましておめでとうございます。 いつも拝読しております。
 
ショーシャンクさまの文章はどれも真理に迫っており貴重な内容だと日頃より感じています。
今日のお話の中で、「記憶の束」という言葉がございます。
この言葉は過去の文章の中でも説明されていますが、 この「記憶の束」はいわゆる「諸行」や「五取蘊」などと関係のある言葉でしょうか?
もしよければご教示ください。

 

 

 

斑鳩の里さん、明けましておめでとうございます。

はじめまして、ですね。よろしくお願いします。

 

記憶の束というのは私が独自で使っています。

四念処の中の『法』を、『記憶の束』『観念の束』と解釈しているのです。

 

四念処は、身⇒受⇒心⇒法 の4つを『無常で苦であり私ではない』と観ずるものだと私は思っているのですが、その中の『法』を観念・記憶というように思っています。

仏教において、『法』と言う言葉は、実に重要なのですが異なった意味があります。

今までの仏教入門書などでは、四念処の『法』は『存在』『物』と言う意味に解釈して、『法は無我なり』を観ずることだと書いてあることが多いです。

 

身は不浄なり

受は苦なり

心は無常なり

法は無我なり

と言うように解説してあります。

そして、『法は無我なり』は、すべての存在には我(自性・実体)がないことを観ずることだと書いてあります。

 

 

しかし、私は、四念処の『法』とは、記憶・観念のことだという確信があります。

 

私たち人間は生まれてから、肉体を持ち、感覚を持ち、身体の感覚に反応して想念が沸きあがり、感覚の経験を記憶として積み重ねています。

その『記憶の束』を『私』と呼んでいるのです。

四念処は、そのようなものを『私ではない』とdelete(消去・浄化)していく観法です。

 

歴史上の仏陀は、四念処こそ涅槃に至る一乗道と言いました。

在家も出家も四念処で涅槃に至ると言っているのです。

それほど重要なものです。

 

 

仏教の用語の順序には非常に重要な意味があります。

例えば、八正道。

正見⇒正思⇒正語⇒正業⇒正命⇒正精進⇒正念⇒正定

この順番には、八正道を解き明かす鍵があります。

重要な仏教用語はすべてそのように順番に意味があるのです。

 

四念処の、身⇒受⇒心⇒法 の順序にも極めて重要な意味があります。

なぜ、この順序なのかを解き明かしていない解釈は間違いだと思っています。

三十七菩提分法においてもすべてその順序には重大な意味があります。

 

 

 

眼耳鼻舌身意の対象は、色声香味触法 です。

このときの、意の対象である『法』は、心の中の記憶や観念です。

 

私は、四念処の『法』は、この意味だと解釈しています。