くりさん、おはようございます。
まだまだ悟ったわけでも無量に達したわけでもありません。
しかし、長年の疑念は氷解したように思えます。
大乗仏教は興るべくして興ったものだということ、しかし、大乗仏教は仏陀が残した筏を捨ててしまったために筏がなくどこにも行き着かないものとなってしまったと思います。
例えば、大乗仏教で『精進』という言葉を部派仏教から拝借して使ったとしても、一般語、抽象語にしてしまい『努力』というような曖昧な意味づけをして終わっています。
それでは、仏陀の真意などわかりませんし、仏教の雰囲気を嗅ぐくらいしかできません。
筏としての四諦十二縁起・四念処は激流を渡るためには必要であり、それに慚愧懺悔が起こってはじめて中心の消滅と無量の到達に至ると考えます。
ちまたでは、ワンネスの雰囲気を味わったことで見性とか悟りと言っていますが、それでは中心はそのままです。限定されたまま、激流に押し流されたまま『わたしは悟っている』と言っているだけです。
それがわかり、そして、しかし、大乗仏教が興るべくして興らなければならなかったわけもわかりました。
仏陀の直説は第一結集で確定したものだけです。
しかし、なぜ人々は500年も経って、あちらこちらで新しい経典を勝手に作り上げていったのか、これが非常な疑問でした。
その理由は複雑すぎてなかなかいま、言葉で表現するのはできませんが、その大きな源は仏陀が最期に際して残したメッセージに込められていることがわかりました。
部派仏教だけでもいけない、大乗仏教だけでもどこにも行き着かない、それがわかりました。
毎日ではないかもしれませんが、少しずつ、気が向いたときに書き込んだりしますね。
ありがとうございました。