私は欲するままに、清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。
劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。
『あなたたちよ、これらの生ける者は身体による悪行をそなえ、言葉による悪行をそなえ、心による悪行をそなえ、貴き人を誹謗し、邪な見解を抱き、邪な見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、喪失の世界、悪い境涯、堕ちる世界、地獄に再生する。
あなたたちよ、これらの生ける者は身体による善行をそなえ、言葉による善行をそなえ、心による善行をそなえ、貴き人を誹謗せず、正しい見解を抱き、正しい見解にもとづき業を行なう。かれらは、身体が壊れた死後、よい境涯、天の世界に再生する。』と。
このようにかれは清浄であり人の能力を超えた天の眼によって、死につつあり再生しつつある生ける者たちを見る。
劣っている者、優れている者、美しい者、醜い者、幸福な者、不幸な者、業に従って行く生ける者を知る。
これが、天眼智について仏陀が語った言葉です。
天眼智とは、天から見るように、あらゆる生きとし生けるものの有り様を俯瞰して見る智慧のことです。
すべての者は、自らの 業=kamma =身口意の行為 を原因として、その結果が現象として展開する、という有様をありありと見たのです。
仏陀は、天眼智によって、因果の理法を悟ったと言えます。
因果の理法の意味は、後世の仏教なるものとは全く違うものです。
仏陀が説いた因果の理法とは、すべての現象は結果でありその原因は業=kamma =身口意の行為 だということです。
業=kamma =身口意の行為 で、
身口意の3つの業を、それぞれ、身業、口業、意業と言います。
この3つの業は、思業と思已業に分けられます。
思業とは思いが内にあって外に現われてないものであり、意業のことです。
思已業とは、思いが外に現われたもので、身業と口業がそれに当てはまります。
つまり、身業も口業も意業も、思いのことなのです。
内にある思いか、外に出た思いか、の違いだけです。
因果の理法とは、『思い』を原因として現象が形作られていくという根本理法です。
仏陀は、どのような人間であれ、自らの思いによって自らの現象(身体や環境)が形作られていくことをありありと見たのです。
つまり、思いによってすべてが変わっていくという主体的な教えなのです。
それが、後世の仏教になればなるほど、因果というとおどろおどろしい運命論のようになっていきました。
因果だから仕方がないというあきらめの考え方、虚無論になっていきました。
大間違いです。
また、今の仏教者によくある間違いですが、因果や縁起を物理学的な原因結果のように捉えて、『仏教は科学的だ』などというものも非常に多いです。
このような解釈が蔓延っているために、仏教なるものはどこにも行き着かないものにまでなってしまいました。
それでは、因果の理法と縁起の理法はどう違うのでしょうか。
縁起の理法は因果の理法に含まれます。
縁起の理法は、苦の縁って起こる原因のことです。
因果の理法の中で、苦の生存の原因に特化したものです。