四念処の順序の意味

四念処の、身⇒受⇒心⇒法 について

 

①身=肉体 

 

この肉体を無常であり(生じたものは必ず滅すると言う意味です)衰滅するが故に苦であり、私ではない、と観じます。

 

 

 

②受=感覚 

 

肉体があれば感覚が生じます。

受=感覚には、痛いなどの不快な感覚、苦の感覚(これを、苦受といいます)と快適な感覚、快楽の感覚(これを、楽受といいいます)、そして苦痛でも快楽でもない感覚(これを、不苦不楽受といいます)、があります。

しかし、楽受も快楽の対象が衰滅していきますからそれを失ったときに苦痛と変わります。これを壊苦といいます。

苦痛でも快楽でもない感覚も、自分の感覚器官が衰滅していき苦痛に変わります。これを行苦といいます。

苦受ははじめから苦ですから苦苦といいます。

受はすべて苦に行き着くのです。

仏陀が言った、『すべては最後には違逆にあう』ということです。

 

 

 

③心=思考

 

私たちの思考は、そのほとんどが、受=感覚に反応して起きます。

感覚があったとき、それへの連想という形で今までの記憶の束が反応するのです。

例えば、赤い椿の花を見たときに、『この花は何だろう』と自分の記憶の束から探しに行きます。あるいは、いぜんに椿園に行ったことを思い出します。あるいはいっしょに行った人のことを思い出すかもしれませんし、そこで食べた料理を連想するかもしれません。

このように、椿の花を見た反応として、連想が次々に涌いてでます。

心は受に反応してとりとめのない思考を生み出し続けます。

次の受があれば、例えば、椿の花を見ているときに、空で飛行機が飛んでいる音がしたとか、猫が近づいてきたとか、そういう次の受によってそれに対してまた連想や思考が涌いてでます。

このように思考は生じればすぐ滅するとりとめのないものです。

このようなものは私ではない、と観じます。

 

 

④法=観念・記憶

 

眼耳鼻舌身意の対象が、色声香味触法です。

眼⇒色

耳⇒声

鼻⇒香

舌⇒味

身⇒触

意⇒法

です。

意の対象である『法』とはこの場合、思考とか、思考が固まった観念とか、思考のほとんどの構成要素は記憶ですから記憶、といった物を表わしています。

 

いままで、身⇒受⇒心 のどれも私ではないと観じてきましたが、

その最終段階として、身や受から毎日植え付けられているもの、そして心=思考の根源になっている観念・記憶について、『私ではない』と観ずること、これが四念処の究極だと思っています。

 

こうすると、身⇒受⇒心⇒法 の順序に重大な意味があることがわかってきます。