ずっと解けなかった謎がとけた。
仏陀は、五蘊非我を説いた。
そして、四念処の実践で、身⇒受⇒心⇒法 の4つがどれも無常であり(生じれば滅するということ)、苦であり、私ではない、と観じることを説いた。
病身の仏陀を見舞いに来た弟子に『このような老い朽ちていく私の肉体を見て何になろう。私の説いた法を見る者は私を見るのだよ。』と説いた。
仏陀の説いた理法からすると
当然、仏陀の肉体が仏陀なのではない。
まして、仏陀の遺体が仏陀なのではない。
仏陀の遺骨を特別なものとすることはあり得ない。
しかし、仏陀は入滅の前に、『私の遺体は、世界を支配する帝王のようなやり方で火葬し、ストゥーパを作って遺骨をまつり拝むべきである』と言った。
白骨観を説き、
『私の肉体はまさしくこのように朽ちていって白骨となるものであって私ではなく私のものでもない』と観ずることを教えた人が
なぜ、自分の遺骨を特別視して拝めと言ったのか?
仏陀が生涯をかけて説いた理法からは、『私の肉体は私ではない。遺体は私ではない。そのようなものにわずらわされることなくガンジス川に流しなさい。』と当然言うだろうと思えるのに、なぜなのだろう?
この疑問はずっと頭から離れなかった。
どうしても解けない謎だったが、はっきりとわかった。
仏陀のこの最期に際してのメッセージによって、大乗仏教は興るべくして興ったし、大乗仏典特に法華経はまさしくそのメッセージを正しく受け取った。
そのことがはっきりとわかった。
ちょうど、どこかの音楽評論家が言った言葉を思い出す。
ベートーヴェンの第九にこめられた導火線にワーグナーは火をつけた。それも正しく火をつけた・・・・
仏陀の入滅前のメッセージにこめられた導火線に大乗仏典は火をつけた。
大乗仏典の中でも特に法華経は正しく火をつけた・・・・
これで、仏陀の真意がつながった。
探求は終わった。