日本仏教のいい加減さ

マニカナで内山興正という仏教者をさかんに引用している人がいたので、ずいぶん前に買ったその人の著書をさらっと読んでみました。内山興正という人の本を買ったことすら全く忘れていましたが。

 

その本の中で書かれている釈尊のエピソードを読んでのけぞりました。

こうあります。

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お釈迦様の一番弟子の舎利弗尊者が、托鉢ーインドではお金ではなくて食べ物を布施するーに歩いていたらすばらしい御馳走を貰った。

舎利弗尊者もやはりギョッとして『俺みたいな徳の足りない人間が、こんな御馳走をいただくとは』と思ったに違いない。

急いで帰るとお釈迦様に召し上がっていただこうと、早速それを差し上げた。

ところがそこへ腹をへらした痩せ犬が来たら、お釈迦様は受け取った御馳走をそのまま犬に食べさせてしまわれた。

そして、

『舎利弗よ、お前は私に御馳走を供養した。私はそれを犬に食わした。どちらが功徳が多いかや。』

そう言われて舎利弗もピーンときた。

御馳走だからといって、特にお釈迦様に供えるのは、人間的分別の話でしかない。御馳走であろうと何であろうと腹のへったものにスッとやる、これが露地の地盤だ。

『それはお釈迦様が犬に食べさせてしまわれた方が、功徳が多うございます。』

舎利弗尊者はおそるおそるこう答えて、冷や汗をぬぐったという。

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仏教者と言われる人たちが、釈尊の行為だとして、勝手にありもしないエピソードを作り上げています。

このエピソードが全くのデタラメであることは明らかです。

なぜなら、本当にこのようなことを釈尊が行なったとすれば、その時点でサンガのシステムはすべて崩壊してしまうからです。

2500年後の今も東南アジアでサンガが存続しているのは、こういうエピソードなどなかったからです。

日本には、仏教伝来以来今まで、サンガが存在したことは一度もありませんでした。

日本人にとって伝来した仏教は、先進国の文化文明そのものでした。

僧侶は国家公務員でした。

出家とは名ばかりのなんちゃって出家でずっと来たのです。

ですから、托鉢といっても形だけです。

最古の仏典スッタニパータも入ってきたのはごく最近です。

 

さて、釈尊が定めたサンガのシステムはこうです。

出家者は午前中にその日食べるものだけを托鉢する。

そしていただいたものを正午までに食べる。

もし、正午までに食べ物をもらえなかったらその日は食べない。

これが決まりです。

在家の人は、出家者に供養することで大きな功徳を得る。しかも、修行ができた人であればあるほどその供養の功徳は大きい。だから、出家者は、応供=供養に相応しい者=仏となるべく修行をする。在家者は功徳を求めて積極的に出家者に供養する。

これが、釈尊が定めたサンガのシステムです。

 

それが良いか悪いかは別として。

私は現代的には、社会で活躍できるときには目一杯儲けて、お金が貯まって仕事しなくても自立できるようになればそのお金でアーリーリタイアして修行に励むというのが、これからの出家の姿だと思っています。誰かに供養して貰わなくてもいいようなシステムにすべきだと思っていますが、それは置いておきます。

 

上のような釈尊が定めたサンガのシステムを知らないが故に、日本の仏教者はいい加減なエピソードをでっち上げてしまいます。

仏教に無知な人が、この本を読んで、本当に釈尊が腹を空かせた犬に御馳走を上げる方が功徳が多いのだと言ったと思い込んでしまったら、実に罪深いことです。

 

日本の仏教は悪平等、虚無論に陥りがちです。

聖なるものも人間的分別知などといって否定してしまう傾向にあります。

 

釈尊に供養するより、腹を空かせた犬に御馳走をあげる方が功徳が多い、などと言っていたら、人間を襲って食べた熊を猟友会の人が射殺することはできなくなりますし、赤ちゃんを襲う腹を空かせたカラスを撃退することもできなくなります。

コロナウイルスも自らの遺伝子を存続させるべく必死です。

コロナウイルスを殺すことも、理に反することになります。

 

人間の世間的な分別知を破る、相対や二元性を超える、というようなことを日本の仏教者は強調して野狐禅となり、空一辺倒、虚無の世界観に陥ることが非常に多いです。

こうなるくらいなら、仏教などやらないほうが何百倍もましです。

 

釈尊やその高弟に供養しようとして心を込めて作った御馳走を、釈尊が食べずにふらっときた野良犬に全部やってしまったと知ったら、扶養した人はどんな気持ちになるでしょう。

そういうことを思いやる心がないということです。

釈尊も野良犬もカラスも蟻もゴキブリも腹を空かせていたらそちらのほうに御馳走をやるのがいいというのは悪平等です。

 

 禅僧が、自分の体験として、供養された御馳走を犬にやった、というのであれば、そう言えば良いのですが、釈尊のエピソードとしてでっち上げるのはやめてほしいところです。