筏とは

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それでは、まず素朴な疑問をひとつ。 「筏」です。龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。 ショーシャンクさんの示された浄土系、法華系は、明らかに龍樹の大船に乗るための教えで、禅系はどうか分かりませんが、禅も大乗仏教である以上、たぶん同じなのでしょう。 「筏」という観念は、大乗の日本では既に失われていると考えざるを得ず、その中で「自分に合った筏を見つけるべき」というショーシャンクさんのお話は、ある種の、方便にしか過ぎないようにも思えるのですが、いかがでしょうか?
 
筏であっても、大船であっても同じことです。つまり『方法』という意味で言っています。大乗仏教では、小乗仏教は一人悟ろうとするエゴイスト、自分たちは多くの人を乗せる大船だと主張しました。
それを信じられてそれで自分が救われたり気が楽になるのであれば、それはその人に合っているということです。同じように、キリスト教であってもイスラム教であっても信仰することで本当に安心感を得られるのであれば、それはそれでいいではないですか。キリスト教徒の白人女性がイスラム教に改宗することも増えているような記事を前に見たことがあります。女性は顔を覆わなくてはいけないなどとかなり制限がある教えになぜ?と思いましたが、その白人女性は化粧やおしゃれを性の対象としての魅力を高めなければいけないという束縛に感じて、西洋文化よりイスラム教を選んだというようなことが書かれてありました。
その女性にとってはイスラム教が『feel good』だったのでしょう。
ですから、人は、自分に合う筏、船を見つけるべきだと思うのです。
私も、自分に合う筏を見つけようと思っています。
そして、それを歴史上の仏陀が言ったこと、歴史上の仏陀が残してくれた筏とは何なのかを探求しています。
ヤフー掲示板でも何度も言いましたが、私は歴史上の仏陀が本当は何を言ったのかが知りたいだけであり、だから『それは仏陀が言ったことではない』というように言ってきましたが、歴史上の仏陀が言ってるから正しいとか仏陀が言ったことと違うから間違いだと言ってるわけではありません。
そのことも何度も言ってきました。
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
声聞というのは、文字通り、『声を聞いた人』です。誰の声でしょうか。歴史上の仏陀すなわち釈尊です。
声聞とは釈尊の声を直接聞いた直弟子のことです。仏教があまりにも変てこりんなのは、十大弟子などの仏陀の直弟子をエゴイストと呼んで貶しまくった考えが中国や日本では主流となったことです。
舎利弗などは仏陀が最も信頼していた弟子です。
声聞の代表は舎利弗です。仏陀が最も信頼している直弟子たちを罵倒する龍樹とは何者なのでしょう。
キリスト教で言えば、ペテロなどの十二使徒を全否定する教えが主流となったようなもので、いかに変なことであるかわかります。
 
 
ただ、私は歴史上の仏陀が本当に言いたかったことは何か、仏陀が残してくれた筏は何かを探求しているだけなので、龍樹が『feel good』な人がいればその教えを進んでいけばいいと思います。私には興味がないというだけです。
 
世界には、『筏』=方法 がない教えも数多く存在します。
クリシュナムルティが代表的ですね。
彼は『真理に至る道はない』と断言しました。
すべての方法は、精神を縛るものだとしました。
筏を完全否定しました。
そして『ただ見る』ことを説きました。
そして世の中には、そのような教えは数多くあります。
『ただ見る』『ただ気づく』それだけでよく、それ以外は自我だという考えです。
それで悟った気分になっている人もごまんといます。
しかし、クリシュナムルティはその最晩年に『誰も変わらなかった』と漏らします。
世界各地を教えて回って教えを聞いた人は膨大な数になりますが、その中の誰も何も変わらなかったのです。
 
ノンデュアリティも同じく方法論がありません。
つまり筏がないのです。
 
方法がない場合、本を読んだり講演を聞いたりしたときは、悟った気分になったり一時的に気が楽になったりするかもしれませんが、それだけです。
何も変わらないですし、最も悪いことは日常生活で主体性が失われていってしまうことです。
 
私は普通の人はやはり『筏』は必要だと思いますし
自分に合った筏を探すべきだと思います。
 
大乗仏教仏陀が残してくれた筏を捨て去ったため、替わりの方法論として、経典を読誦することや仏の姿をありありと瞑想することなどを真理に至る道としてきました。それが一般大衆には難しかったので、口で唱える念仏こそ正行とする教えが生まれたりしました。
それも方法という意味で筏、船だと思います。
 
 
『龍樹は「筏」を否定してますよね。「筏」によって自分一人で助かろうとする人を声聞と呼び、自分のことしか考えない卑怯者と蔑み、大乗という皆で乗れる大船があると言いました。』
 
もし龍樹の言うように、自らの悟りを求めることがエゴイストで卑怯者であるなら、釈尊はそうなりますよ。
最古層のスッタニパータの中でも更に最古層である箇所に釈尊が出家し悟りを求めた動機が赤裸々に書かれています。
それによると
『人々がふるえているのを見て、また人々が相互に抗争をしているのを見て、わたくしに恐怖が起こった。』
『世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。』
『わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、見つけなかった』
 
このように書かれています。
およそ、原始仏典のどこにも、釈尊が世界の人々を救おうと決心して出家した、などという言葉はありません。
釈尊は、自ら恐怖が起こり、苦を自覚して、その恐怖や苦から逃れたいと思って、この世のすべてを捨てて出家したのです。
奥さんと生まれたばかりの息子を捨てて。
王である父を捨てて。皇太子の責任も放棄して。家臣も捨てて、領民も捨てたのです。
父が死んだときに国王の後継者はいなくなるのです。生まれたばかりの赤ん坊は国王の仕事はできません。
この世で最も放棄してはいけない地位を放棄して家を出たのです。周囲の人全部に迷惑をかけたのです。
もし龍樹が、自らの悟りを求めることがエゴイストだというなら、釈尊は史上最大のエゴイストでしょうね。
その証拠に、悟ったときに、釈尊はこの教えは説かないでおこうと思ったではないですか。それを梵天が頼みに来てやっと説くことにしたのです。