必要とされたいからではなく

ターボー    

ショーシャンクさんおはようございます。 ショーシャンクさんが以前から仰っていた龍樹が勝手に仏陀の悟りを龍樹独自の物に作り変えたという言葉が、私にはずっと分かりませんでした。 しかし、華厳経を読んでみると正に目から鱗が落ちる思いでした。 「心は諸々の如来を作る」 この世の現象世界が全て心の影を表したものであるということは、前回書いた想念は環境より上位にあると同じであり、また私自身も頭(理屈)では分かるのです。 しかし、やっとたどり着いた悟りの境地までも心の影(表れ)であるという事は、全く考えもしませんでした。 仏を絶対視していました。 実は昨日書いたように、私はその当時初恋の彼女と恋愛をしていました。中学の同級生でとても可愛く中学の時には席が隣になったこともありました。私が高校を中退してから17歳の時に2年ぶりくらいに街で再開して、交際を始めたのですが、その彼女との付き合い方が仏の姿として現れたのではないかと思うのです。 彼女も高校を中退していたので、私達は一緒に飲食店で働きはじめました。そうする内に、彼女の精神が少しずつ私にもたれかかってきて(依存)いる事に気付きました。感覚的に私に心を預けていることが分かるのです。私はその当時は、自分は彼女に依存していないと思っていました。時々セルフチェックをして、彼女に依存しているか確認してました。彼女が私に一方的に依存しているだけで自分は何者にも依存せずに、真っ直ぐ立って支えていると当時は思っていました。しかしながら今からしっかり考えますと、相互依存だったのではないかと思うのです。私は彼女に頼られ心を支える事で、何か自分が大きな男になったような気分になり、気持ちよくなってしまっていたのです。自分の自己重要感を満たしてくれる存在として彼女に依存していたと言えるのではないかと思うのです。しかし、今から考えますと本当の心は彼女が私から離れていく恐怖心があったと思うのです。彼女が私にもたれかかってくる事で彼女が私から逃げられない、私から離れられないと心の奥底で安心感を持っていたのではないかと思うのです。実は当時もそのことは、薄っすらとは気づいていましたが、自分の汚い所を見たくなくて、意図的に考えないようにしていました。そして弱い女の心を支える事が男の務めだと勘違いした信念を持ち、彼女がどれだけ依存してきても支えきれるだけの男にならなければと、自分の身体と精神を鍛える事に邁進しました。 しかし、今から考えますと本当に彼女の事を思うならば、彼女の精神状態など見ながら徐々に甘やかすだけではなく、厳しく接する時は厳しく接して、少しずつ彼女を自立する方向に持っていくべきだったと思います。彼女の我儘を何でも聞いてしまい、どんどん私に依存させてしまいました。親バカの親が子供を甘やかして、子供がいつまで立っても自立出来ないケースがよくありますが、その恋愛バージョンをやってしまったと思うのです。ですから「心は諸々の如来を造る」如来と言えども現れた現象は全て自分の心の影だとすれば、確かにその当時の私は龍樹の相互依存の関係性だったと思うのです。 では、何故禅などの悟りも龍樹的になるかと言えば、よく禅者がいう悟りの機縁という事が関係していると思います。過去の有名な禅者の本などを見ても、何らかの音であったり、人から叩かれた事であったり、人それぞれ様々な縁を機縁として悟っています。私は、ずっと禅者がいう「縁に触れて」という言葉の意味が分からなかったのですが、つまり何らかのそれは音だったり、光だったり、叩かれた痛みだったりとの対象との一体化だと思うのです。私の場合は物や音などの対象ではなく、自分の彼女との一体化であり、禅者の方と同じ心の影として相依性縁起として如来の姿を感じとったのだと思います。
 
 
 
例えば、世間を見渡しても、美人でもっといい男と一緒になれるはずなのにというような女性が、とんでもなくだめな男とばかりくっつくことはよくあることです。経済力もなく職もころころ変わり飛び抜けた外見でもなく社交性もなくときどき自分に暴力まで使うという、いわば最低の男といっしょになる女性がいるものです。
それはなぜかわかりますか?
それは『この人は自分がいなければ生きていけないんだ』『私が絶対に必要な人なんだ』という感覚を与えてくれるからです。
つまり、その女性の自己重要感を満たしてくれるのです。経済力もあり社交的でもある男であれば、自分でなくてもいくらでも他の女性と一緒になることができるでしょう。そういう人となら彼女の欠乏した自己重要感を満たさないのです。
 
ゆえに、人はただひとりあらねばならない、のです。
ただひとりある、ということは誰にも依存しないということです。
 
もっといえば、人に自分の自己重要感を高めてもらわないといけないという状況から脱することです。
人から褒めてもらうこと、感謝されること、必要とされること、これによってしか自己重要感が満たされずそれがない場合には欠乏感、渇望の感情が強く湧き出るのであれば、その人は自由ではなく束縛されているのです。
 
自分だけで無量感そのものであることができること、それが究極です。
ゆえに『愛するものを作るな』と仏陀は言います。
 
人は精神が無量の状態にある時だけ、人に対して本当に優しくなれるのです。
お金が欲しいから、認めてほしいから、褒められたいから、必要とされたいから、自己重要感を満たしてほしいから、優しくふるまうのではなく
ただただ無量の大海であることによって優しいのです。
 
 
私は、禅の方法を筏と考える人はそれでいいと思いますし、その人なりの筏を見つければいいと思います。
私の言っていることが正しいか間違っているかなんて自分にもわかりません。
ただ、自分がそうだと確信しているというだけです。
 
 
 
id:kougenn  
高原です。 ターボーさんの書き込みを読ませていただいていますが、ターボーさんが、何がダメだったのか、自分がどうなりたいのか、何がどうだと言いたいのか、何が苦しいのか、さっぱり分かりません。 このブログを読んでいる他の人たちは、分かるんでしょうか? 意味不明なのは、ぼくだけ? 何か、ご自分に酔っているだけのようにも思えるのですが。