無量心

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「喜捨」は、世間で、寄付、お布施という意味の方が一般的になってますね。 確かに、最初に「慈」があって、一対として「悲・喜」があって、最後に「捨」があると読む方が繋がりと座りが良いように思います。 七覚支の最後にも「捨」があって、ショーシャンクさんが捨が一番大切と言うことが分かる気がします。 龍樹が大智度論の中で「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」と面白いことを言っています。 七覚支の「喜」も「快」と読むと確かに意味が繋がってきます。
 
 
 
 upekkhā(捨)は、慈悲喜捨の中で最も理解しづらい語です。
私は、今までの解説書で、upekkhā(捨)について納得できる解説を読んだことがありません。
 
「捨とは、衆生を憎みもせず、愛しもせずにただ念じ、(慈・悲・喜)の三種の心を捨てることである」という解釈はとんでもないですね。
慈・悲・喜の3種の心を捨ててどうするのですか。
 
四無量心とは4つの心に分かれているわけではありません。
無量心はひとつです。
無量心とは無量の大海のようなもの。
そして多様性=現象はその大海の上に浮かんでは消える波のようなものです。
慈悲喜捨とは大海の性質です。
あるいは、大海と波の関係の性質を表したものといった方がいいかもしれない。
 
仏教の最初期には無量心は究極の境地とされていました。
しかし、仏陀の死後、どんどん低い境地と見なされるようになりました。
仏陀の真意は失われていったのです。
 
そこで仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教です。
大乗仏典を貫く大きなテーマは慈悲、特に『悲』です。
生きとし生けるものを救おうとする宇宙の働き、これを大乗仏典では解き明かそうとしました。
これは初期大乗の法華経から後期大乗の大日経まで一貫してます。
 
ただ、それも、自分の他に仏があり、その仏の慈悲にすがるというような方向にどんどん流されていき、せっかくの仏陀の真意の復興運動も失われていきました。