仏陀の真意

ターボー   

 

>>ブルックスは人のいい善人です。私も大好きな老人です。しかし、希望を失ってしまいます。環境に負けてしまいました。想念は環境より上位にあるのに、環境を無視して主体的に想念を出すことができなかった。
 
ショーシャンクさんおはようございます。 日本人は形に拘るという事ですが、私は地獄に行くか天国に行くかの分岐点はショーシャンクさんがお書きになったショーシャンクの空にの上記の解説の一点に尽きると思うのです。 想念がなくなってくると、つまり自我が少なくなってくると、今まで強固だと思っていたこの現実世界が薄くなって、それほど強固だと感じられなくなると思うのですが、それでもこの現実世界が夢幻だとは中々思い切れないと思うのです。 特に恋人がいたりして、特定の愛する人を持っている場合には、相手を思う気持ちが強ければ強いほど、その愛する人を置き去りにしてショーシャンクさんが仰る様にI HOPEとはいかないように思います。 私は日本で大乗仏教が広まって、あまり小乗仏教が広まらなかったのは、この点にあると思います。 禅者で有名な澤木興道老師の本に小乗を批判的に見る視点から、「小乗の解脱は自我の分別がついた状態にある」との記述がありました。 I HOPEと行くためには、澤木興行老師が言うように残された人々を置き去りにして、自分だけ行かないといけないわけです。 その残された人々も自分が作り出した想念であると、頭では分かっていても、その時点では自他の分別が付いていますから、ロボットではない生身の人間ですから中々難しいと思うのです。 以前、ショーシャンクさんがヤフー掲示板で無明を形成する意思だとお書きになった時に、私は大死一番絶後再臨の「再び」が形成する意思だと書きました。 ヤフー掲示板ではその形成する意思を持った動機を自分が死にたくないという様な動機でまとめてしまいましたが、真実はそうではなく、その時に私には自分より大切に思っていた彼女がいたのです。 自分が死にたくないという気持ち(生存欲)が0だったとは言えませんが、大部分の動機は形成する意思を持つ直前にその彼女の事が脳裏に浮かんだのです。 彼女を置き去りにして、黙って逝くわけにはいかないという気持ちが湧きました。その時に一瞬は、ショーシャンクさんがおっしゃるように環境より想念の方が上位にあるのでは?という事も頭に浮かびました。 しかし、自信が持てなく、また彼女と抱き合って肌と肌の触れ合うリアルな感触が夢とはとても思えず、迷った末に形成する意思を持った記憶があります。 つまり仏陀が妻子を捨てて、出家したというのは、凄く大切なポイントだと思うのです。 以前は仏陀が財産も妻子も捨てて、出家したと本で読んで、ひでーなと思いました。捨てられた妻子はどうなるんだと非情な人だと思った記憶があります。 しかし、特定の愛する人を持ってしまうと、その思いが強ければ強いほど、ここ一番で逝けない(引いてしまう)と思うのです。 つまり世間で言われる恋愛とは、執着(自我)なんだと思います。 恋愛をする前は一人の囲いの自己愛(自我)だったものが、恋愛をしてからは、自分より相手を大切に思っていたとしても、二人の囲いの自己愛(自我)に変わっただけだと思うのです。 そう考えますと、日本の仏教者は今や出家者ですら妻帯が当たり前になってますから、ショーシャンクさんが仰っているように、そりゃ大乗仏教に悟りがないっていうのは無理もないなぁと思うわけです。 妻帯しながら、自分だけ逝くとは、そのパトーナーを心の中で裏切っているわけで、そのままノホホンと何事も無かったように夫婦生活を送るのも難しいように思います
 
 
繰り返し繰り返し言っていることですが、私は小乗仏教が正しくて大乗仏教が間違っていると言っているのではないのです。多分、誰にも理解されてないと思っています。それほど、スッタニパータを読めば小乗仏教という固定観念に囚われているからです。
私は、小乗仏教も大乗仏教も仏陀の真意を伝えていない、仏陀の真意とはかけ離れている、と言っています。
 
仏陀の死後、仏陀の教えは灰身滅智の方向に捻じ曲がっていきました。仏陀の真意はどんどん失われていったのです。失われた仏陀の真意の復興運動として興ったのが大乗仏教です。仏陀の真意は灰身滅智ではなく、大いなる境地を説いたものだ、という雄叫びでした。しかし、大乗仏教は仏陀直説の経典(第一結集で認められた教説)に準拠せず自分たちで新しく経典を創作していったために、大多数の支持は得られず小規模な勢力でした。それを覆したのが龍樹です。そのため、龍樹は大乗仏教の祖とされ、そしてそれから仏教は龍樹独自の説になってしまって、これまた仏陀の真意は失われていきました。
 
ここ最近、かなり確信に近づくくらいの意識の変革がありました。
上に書いたことはますます強く思っています。
いったん、今までの仏教のすべてを白紙にした方がいいと思います。
仏陀の真意は日本の仏教が言ってるようなものとは程遠いものです。
今までの仏教の常識や固定観念が正しいと思っている人にはもはや何も言う気もないです。それはそれで自分が正しいと思う道を行けばいいだけです。
 
仏陀も断言しているように、環境は心の影です。
仏教をいくらかじっても。自分の環境が何も変わらないのであれば、それはしょせん口先だけのものにすぎません。
 
これから、自分の人生で、仏陀の真意だと確信していることを実践していきます。そしてそれが環境にどのような劇的変化をもたらすかを実験してみます。