自分に合った筏を

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ぼくは原典で読んだことがないので、サンスクリット語パーリ語の違いも関心はありませんでした。玄奘三浄の漢訳がサンスクリット語を訳したことは知っていたので、パーリ語よりもサンスクリット語という言葉の方が普通に耳に残っています。パーリ語はpipitさんが詳しくてネット辞書のサイトの情報を提供してくださっていたのは覚えています。 今あらたに調べてみると南伝仏教はすべてパーリ語で書かれていたということで、サンスクリット語(文語)とパーリ語(口語)の違いも初めて知りました。 そう言えば、日本に南伝仏教が入ってきたのはヨーロッパから英語訳で入ってきたのが最初だとかで、考えてみれば、日本は東の果ての最後の仏教国で、仏教寺院数から言えば世界一の仏教国かと思っていましたが、ヨーロッパから仏典を輸入してる実は仏教後進国だったのだなあと思ったりしています。 最近、少し、ターボーさんのことが気になっています。ターボーさんの投稿が、とても断片的で、「二人を殺した報い」みたなことは書かれているのですが、ショーシャンクさんが「二人を殺したとはどういう意味ですか?」と質問してもスルーで、自分の感情と感傷のままに、誰も意味が分からないことを、自分さえ分かっていればいいとでも言うように勝手放題に書き散らしているのに、ぼくは少しイラッとして、ほとんど意味もないようなコメをターボーさんに書いただけに、それもあって。 ターボーさんは、ショーシャンクさんの人柄を頼って、あのような投稿をしたんだと思います。 ターボーさんだけでなく、蜘蛛の巣に捕まったように、どんなにジタバタと足掻いても、どうしてもそこに捕らえられたままで逃げられなくて苦しんでいる人は多いと思います。 ショーシャンクさんなら、ターボーさんだけでなく、そういう苦しみを訴える人たちに、どんな言葉を掛けてあげれますか?難しいでしょうか?
 
 
まず、人は誰も、自分自身に合った筏を見つけるしかありません。
これは一番最初にたーぼーさんにも言ったことです。
私が探求している筏が他の人に合うかどうかは分かりませんし、私は今、仏陀が本当に言ったことは何であったかを探求している途中です。つまり、筏を探している途中にしか過ぎません。
Yahoo掲示板の東哲カテに『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っていた人は多くいますが、私は一度も悟ったなどと言っていません。
また、人に教えたくてウズウズしている人も数多くいました。
まずは、『自分は悟った』『自分は目覚めている』と言っている人に、その人の筏を教えてもらって自分に合うかどうか試してみるのもいいことです。
いろいろいましたね、禅系、浄土系、法華系、龍樹系、原始仏教系、アドヴァイタ(ノンデュアル)系。
それぞれ自分に合った筏を見つけるべきですね。
 
ただ、私が最近強く思うのは、人は生まれてからこれまでの潜在意識の中の記憶やデータをクリアにしていかなくてはいけないということです。
そのように溜まりに溜まった記憶の束こそが『矢』であり『私』であり『苦』なのです。
それを『苦』と本当に実感を込めて認識できるまではその束はクリアにはできません。
愛おしいものだからです。自分の存在基盤だからです。
無理やりに記憶を消去しようとすると逆に強く執着して離せなくなります。
『苦』と見極めるしかありません。
 
たーぼーさんも、自らの筏を探すと言われていましたから、今はその途中でしょう。
自分に合った筏が見つかることを祈ってます。