記憶と思考と快楽

ターボー   

>>中心を持ってしまうことが苦であること、つまり生きている間にどんどん記憶やデータを溜め込んでいって中心を形成していること自体が束縛であり苦であることを本当に実感しなければ、それをクリアにはできません。 なぜかというと、そのような記憶の束を『愛おしいもの』『楽しいもの』『貴重なもの』『かけがえのないもの』『快楽に満ちたもの』さらに踏み込んでいえば、自分の存在そのものとして捉えているからです。 それゆえに愛おしくてたまらないのです。 そしてそれを苦と見切るまでは、手放すことはできませんし、無理に手放そうとするとかえって執着を強めてしまいます。
 
ショーシャンクさんこんばんは。 全く仰ってる通りだと思います。 ちょっと日本にどれだけいるか分かりませんが、私のように悟りを捨てられないで苦しんでいる人の為、また自分で更にしっかり内省して完全に捨て切る為にも、この話題に拘りたいのです。 禅的な手法で悟りを捨てる場合は、只管打坐の場合は起きてくる悟りの想念(妄想)に手を付けないという手法が採られるように思います。 これはこれで一つの手法として、有効と思いますが私のように悟りを捨てられないのではなく、突き詰めると彼女との縁が捨てられなかった場合は、やはりしっかり内省してその苦しみの元が何処にあるのかを見る、つまりは仏陀が言うところの矢を抜かないと中々想念(妄想)が収まらないと思うのです。 色々な記憶が自分の存在を構成しているというのも、その記憶が何故起きたのか、つまり仏陀が言うところの「あれあれば(因)これあり(果)」この因果関係をしっかり内省して解明しないことには、中々記憶がなくならないように思うのです。 私は、悟りの想念がなくなってきたので、これはいいと思って、そのやり方で随分とあの出来事が原因で、その心の影としてあの現象(苦しみや悲惨な出来事)が起きたのかと分かったことがあります。 まだ内省出来ているのは、自分の全人生の中で10分の1程度ですけど、思いだすと腹が立つ思い出や不愉快になる思い出など、強く自我=自分を作り上げていた想念(妄想)から手を付けてます。 今まで思い出すと怒りが込み上げてきていたのが、かなり和らいできて、それが最近の想念の少なさになってきたのかと思っています。 ショーシャンクさんが引用されていた、ヘーゲルの「歴史とは絶対精神の自己展開である」という言葉が私にも少しずつ分かってきました。 また歴史の一部である仏教史も絶対精神の自己展開であるということもおぼろげながら分かってきました。
 
 
たーぼーさん、こんにちは。
文章の中でよくわからない部分があるのですが。
 
『私のように悟りを捨てられないで苦しんでいる』
『起きてくる悟りの想念(妄想)』
 
ここがよくわかりません。
『悟りを捨てる』とか『悟りの想念』とはどういう意味ですか?
 
 
ターボー   
こんばんは。 「悟りを捨てる」「悟りの想念」とはどういうものかとお訪ねですが、それはショーシャンクさんが仰ってるように、記憶の束が自分の中心を強固にしている(作り出している)という事です。 私たちは、体に自己同化して中心を持っていますから、自分が主で記憶するとつい思ってしまうのですが、事実は逆で記憶の束が自我を支えていると言うことです。 自分が悟ったと悟りを持ってしまっているのです。 悟れば自己を忘れますから、悟りがないのですが、自我が戻ると悟りの記憶も蘇るのです。 そしてその記憶を忘れない(捨てない)という事は、自我をより強めてしまうのです。 悟りに自我(自己存在)を依存している状態になって、悟る前より自我が強くなってしまったりするのです。 面白い事に、私はヘビースモーカーで毎日タバコを2箱吸っていたのですが、想念が少なくなってくると自然とタバコの本数が減るのです。 つまり「あらゆる現象は心の影である」という仏陀の教えに照らすと、記憶の束とは、現象面で言えば記憶のタバコじゃないかと (笑)私は結構本気でそう思っています。 だからタバコに依存するって事は記憶に依存しているって事で、現象面からタバコを禁煙するというアプローチと、記憶をほじくり返して妄想に浸らないという心理面からのアプローチの両面作戦が取れると思います。 これ結局心の表層では自我を無くしたいと思いながらも、心の奥底では自分が消滅してしまうっていうのを、何処か恐れているように思います。だから記憶とタバコに依存してしまうのだと思います。 今一日でタバコ一箱くらいですけど、もう辞めようと思ってます。
 
 
わかりました。ターボーさんが言う『悟りを捨てる』という言葉は、見性した体験、悟った体験の記憶が他のあらゆる記憶と同じように自我という中心を形成しているので、その記憶もクリアにする(捨て去る)ということですね。
 
タバコは私もヘビースモーカーでした。
学生のときは凝ってパイプを愛用したこともありました(笑)普通の紙巻きたばこでは5分くらいで終わってしまうのですが、パイプですと1時間の交響曲を聴く間楽しめるので最高でした。
しかし、20代後半くらいでタバコは一切やめて、それからは1本も吸ってません。
 
要は人にも物にも依存しないということが究極の主体性です。
嗜好品としては、私は赤ワインもコーヒーも楽しむことがありますが、例えば、これから先それらが何年なくなっても苦にはならないです。あれば楽しめますがなければないで全然大丈夫です。
すべてのものは依存した途端に苦に変じます。
特に嗜好品は、快感の記憶が鮮烈に残り、その記憶を反復することによって快楽となり、その快楽を味わいたいという欲求がどんどん強くなることによって習慣性となって依存となるのです。それがないと精神が保てなくなったら強度の依存です。
 
人もそうです。私は誰かと何時間でもおしゃべりを楽しむことはできます。しかし、人がいなくても、ひとりでそれ以上に楽しむことができるので、人に依存することはありません。
 
思考は依存を強めようとしてきます。
人にも物にもなにものにも依存しないと決めたら、新しい地平が開けるはずです。
 
 
ターボー (126.35.203.25)  
kougennさんのコメントを読んで、限界まで突っ込んだ投稿を書いたんですが、投稿出来ないです。 何故? この世界が消滅してしまうから?
 
投稿できないような制限は一切してませんので、できるはずですが?