慈悲喜捨

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高原です。たまたま、ネットで「日本仏教における因果応報の研究」(新田 新 著)という論文を開いたので読んでいました。 そこに「仏教を大陸の先進文化としてだけでなく、自利および利他業を説く『宗教』として受け止めたのは聖徳太子(574-622)だったであろう。太子の仏教理解は後世の日本仏教の方向を決定付けたと思われる」とし、聖徳太子は菩薩になろうとした日本最初の人でもありました。 「ここ(維摩経義旒)で太子は菩薩行の本質という大乗仏教の根本問題を論じている。その中心は菩薩と病の関係である。太子は言う。菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。この疑問は『仏国品』における菩薩行についての疑問を一層深化したものである」と言い「太子は自己の力で日本を仏国土とし、痴愛に悩む衆生を救おうとした。しかし衆生の痴愛は無限である。救済する自分と救済されるべき衆生との乖離は余りに大きい。恐らく太子は菩薩行に倦怠と絶望を感じていたに違いない」とし「かくして太子は余りに高い理想(十七条憲法)を掲げたために、大きな苦悩を自ら抱え込むことになった。晩年の太子が政治の第一線から退いて著述に専念したのも、理想と現実との矛盾に苦しみ、現実に絶望したからであろう。『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」と書いています。 菩薩について、ショーシャンクさんは、人間が菩薩になることが可能だと思いますか? 釈迦も菩薩にはならなかったし、弟子にも菩薩になるようには一言も言ってないと思います。 この論文を読んでいても、本当に、人が菩薩になろうと思ったら、涅槃とかと正反対の地獄道のように険しい道に思えるのですが。
 
 
 
菩薩とは、本来は『修行者』という意味しかありません。
悟ってなく、悟りに向かって努力している者を菩薩と呼びました。
ですから、釈尊の前世なども菩薩と呼びます。まだ悟ってないからです。
また、釈尊の人生でも菩提樹下で悟る前は菩薩、つまり修行者です。
 
それが日本に入ってきて、『仏になったら生まれ変わることができないから、わざと自分は悟らずに菩薩のままでいて衆生を救う』という思想が出てきました。
頭でこねくり回したような考えです。
 
『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」というような文章しか書けないのであれば、その人は仏教などしないほうがよほどましですね。
 
『世間虚仮、唯仏是真』は、仏陀の真意とも通じるものです。
『現象はすべて泡のようなもの、ニルヴァーナ=仏の境地だけが真実』ということです。
この言葉を仏教の根幹としたのは聖徳太子は凄いと思いますね。
決して、『苦悩と絶望の表白』などではありません。
 
菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。
 
まあ、よくこんなくだらないことを書けるものです。
病人を救いたい医師が患者と一緒に病気になって永遠に病の床に伏せなければならないのであれば、病人を救えるはずもないですね。
 
こんなくだらないことを書くのであれば、書いた新田新という人が率先して衆生のために病の床に伏せばいいではないですか。口先だけで何を言っても何の意味もありません。
 
 
 
ターボー (126.35.19.127)  
>>『世間虚仮、唯仏是真』は太子の苦悩と絶望の表白ではなかったか」というような文章しか書けないのであれば、その人は仏教などしないほうがよほどましですね。 『世間虚仮、唯仏是真』は、仏陀の真意とも通じるものです。 『現象はすべて泡のようなもの、ニルヴァーナ=仏の境地だけが真実』ということです。 この言葉を仏教の根幹としたのは聖徳太子は凄いと思いますね。 決して、『苦悩と絶望の表白』などではありません
ショーシャンクさんこんばんは。 私も全く同感です。 もう日本の仏教学者で信用出来そうな人が少ないです。 聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」とは、私はヤフー掲示板でショーシャンクさんと議論した空に実体があるかどうかという話だと思います。 つまり宇宙意識がこの世の実体であると、確信した時の言葉だと思います。
 
 
 
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名前、間違いでした。新田章という人でした。wikiでは哲学者となってて、多くはありませんがニーチェと仏教の著作があるようです。先に上げた論文に「平成27年度、博士学位請求論文」とあったのですが、この論文が認められて、つい最近、文学博士号をとったようです。 ショーシャンクさんのおっしゃるような、最初は「修行者」という意味しかなかった「菩薩」という言葉が、観世音菩薩や地蔵菩薩と言われる「衆生を救う」存在という意味が遥かに強くなっています。 ぼくは維摩経義疏という本は読んでませんが、「菩薩と病」はその人が言っている訳ではなく、維摩経義疏の中で聖徳太子が言っていることのようです。続きがあって、 「太子は、この菩薩と病の関係について旧義と新義とを挙げている。旧義においては、衆生の実病は永遠である。これに対して新義には2種があり、1種は生死煩悩の常病であるが、もう1種は除滅の可能な病だとする。太子は新義を採り、維摩が寝ているのは第二の病(除滅可能の病のみ)を癒さんがためだとする。太子は衆生の痴愛を2種に分かつことによって、菩薩を永遠の苦悩と憂鬱から救うのだが、梅原猛も言うように、太子のこの解釈には無理があり、新義より旧義の方が正しいと思われる。衆生の病は容易に癒しえぬ果てしないものであり、そうであるからこそ菩薩はそれを救おうとして仮の病の相を取るのである。とすれば、菩薩は永遠に苦悩と憂鬱を免れないはずである」 つまり、聖徳太子は「菩薩は治る可能性のある衆生を癒せば良い(治らない病はほっておけば良い)」という新しい解釈をしたのですが、この論文の書き手と梅原猛氏は「聖徳太子の解釈は間違いで、旧義(治らない病の人も含めてすべての病人を癒さなければならない)が正しい」と言っているのです。 ショーシャンクさんが言われた医者と患者の関係には「大悲」は存在しませんが、菩薩と衆生の間には「大悲」があるので、菩薩は病める衆生に常に寄り添い、共に悲しみ、共に苦しまなければならないというのです。 ショーシャンクさんも「頭でこねくり回したような考えです」とおっしゃいましたが、菩薩の解釈にしても、仏教は誰も出来ないような無茶苦茶なことを仏道だと言ってきたから、どんどん、おかしな方に曲がって行ったのだと思います。
 
日本に入ってきてから仏教は極めて抒情的になっていきました。
私は、様々な理由から、仏陀の真意は無量心だと思っています。
その無量心は後には、慈悲喜捨の四無量心と言われるようになりました。
慈悲喜捨の中で最もその根幹をなすのは捨=upekkhā です。
 
捨=upekkhāがわからないと無量心はわからないし、慈にせよ悲にせよ、『捨』が根底にない慈、悲は執着となります。
 
そもそも中心がなくならなければ無量は現れませんし、記憶の束である中心を持ったままで、他人に慈悲を施そうとしても、そのようなものはニセモノです。
慈悲は対象に施すようなものではなく、無量心の状態だからです。
 
しかし、残念ながら、捨=upekkhā について、心の底から納得ができる解釈を私はどんな仏教書からも得られませんでした。
 
菩薩の本質は大悲である、と。そうである以上、菩薩は衆生が病む限り、自らも病まねばならぬ。とすれば、衆生の病が癒えぬ限り菩薩の病も永遠であり、菩薩は永遠に病の床に伏さねばならぬのでないか。』というような言葉が氾濫している日本の仏教書からは得るところはないですね。
 
 
 
 
ターボー (126.35.19.127)  
ショーシャンクさんこんばんは。 昨日書いた私のコメントは訂正します。 私は昨日、聖徳太子の「世間虚仮、唯仏是真」という言葉を聖徳太子が宇宙意識がこの世の実体であると確信した時の言葉だと書きましたが、これは間違いです。 これだと空観のみになってしまいます。 ん〜まだ悟りが抜けないです。悟りに関してはかなり内省して、仏陀の「あれあれば(因)これあり(果)」で落としてきたつもりなのですが、何か形而上の命題で書きたい投稿があると、やはりその落としたつもりの記憶を引っ張りだしてしまう癖が抜けないです。 おそらく、まだ内省が浅いのだと思ってます。 もっと集中力がつけばもっと深くまで考えられると思うのですが。 因みに高原さんがお書きになっている、聖徳太子が書いた新義の菩薩の徐滅可能な病いとは、私はこの悟りを落とす事だと思います。 生まれた記憶がある人はいないでしょうが、悟りの場合だけは別で大人になってから生まれ変わった記憶が残る為に、それが自我(自分)を構成する強烈な核の記憶になり中々落とすのが難しいです。
 
 
 
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ショーシャンクさんの言葉について考えていました。 「中心」とは「自我」というか「我執」のことですね。 「捨」については調べてみました。 「捨」を普通に読めば「捨てる」という意味なので、ぼくもそう読んでいましたが、「捨」にはむしろ「捨てる」という一般的な意味と違う意味があって、少し驚きました。 人々(生きとし生けるもの)に平静な心を持つこと。 自分の執着に対して無関心になる。 心が平静で苦楽に傾いたり揺らがないこと。 以上が主な「捨」の意味ですが、この意味は「静けさの境地に入ること」ということなのかなと「捨」の意味をまた別の見方で見てみました。
 
 
『無量心』を考える時、私は大海と波の喩えを使います。
波は、形があるようで実は常に変化し、生じては滅しています。
『滅するものであるから有とはいえない。生じたものであるから無とはいえない。』
つまり『空』です。仏陀が語った『空』の本来の意味はこういうことです。
 
波は現象ともいえ、多様性ともいえるでしょう。
 
しかし、波がどうであれ、大海は不動です。波のあり様には影響を受けません。
波のあり方によって左右されることはありません。
これこそが『捨』=upekkhā だと思っています。
これは私独自の解釈ですので参考にする必要も信じる必要もありません。
他の誰もこのようなことは言っていません。
しかし、私はこれを確信してます。
                 (2019年6月10日13時30分)
 
 
 
 
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ショーシャンクさんの文で「滅するものであるから有とは言えない、生じたものであるから無とは言えない」とありますが。 何かその文脈に違和感を感じて、「滅するものであるから無とは言えない、生じたものであるから有とは言えない」の方が意味が通じるような気がするのですが、どうなんでしょうか? ぼくの方に資料がないので調べられません。すみません。
 
 
時間があるときに出典を明らかにしたいと思いますが
たぶん相応部経典あたりではなかったかと思います。
 
趣旨はこうです。
空や有無中道など後世になって様々な解釈がなされ理論が形作られていきましたが
仏陀が本当に言ったことは非常に簡潔なことです。
つまり、
『生じたものは必ず滅する。泡のようなものであり空である。』
 
そして、世界は有なのか無なのか、と問われ
『生じているのだから、無とは言えない』
『滅していくものだから、有とは言えない』
と答えた、ということです。
 
この世界を観念的に『無』という人はいますが
実際に生じているではないか、ということです。
でもそれであればこの世界は『有』ではないかという人はいますが
滅していくのであるから、『有』とは言えない、
と答えたということです。
 
つまり、仏陀は理論を観念的にこねくり回した人ではなく
誰が見ても厳然たる事実そのままを直視していった人なのです。
 
つまり、生じては滅するものを『私』と見なしてはいけない、ということ、
生じては滅するものを『私』と見なすから『苦』であるということ、
これが仏陀の根本だと思います。
 
 
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理解しました。 「生じているものだから、(あるんだから)無とは言えない」 「滅していくものだから、(なくなるんだから)有とは言えない」 言葉のニュアンスで、この言い方ならよく分かりました。