第一歩

ターボー   

ショーシャンクさん、こんばんは。 仰ることはよく分かります。 「無償の愛」=見返りを期待しない愛だけが、真実の愛だという事でしょうけど、これは口で言うほど簡単ではないと思います。 相手を利用する愛(金銭面を含め)が無償の愛でないのは誰でも分かりますが、自己を犠牲にする愛もショーシャンクさんが仰る様に自己愛の場合が多々あるという事に、中々当人は気づきにくいと思うのです。 表面的には自己を犠牲にしている様に見えても、心の奥底では何らかの見返りを求めている。それを無意識に計算しているのが人間だと思います。 高原さんが仰るように、恋愛とは真剣にやればやるほど、酔っ払っているようなものだと思います。 つまり特定の誰かだけを愛するという形が、既に真実の愛ではなく、執着なんだと思います。 地球の裏側に住んでいる人だろうが、隣の家に住んでいる人だろうが平等に愛するという無縁の愛だけが、真実の愛なんだろうと思います。私などは、とても凶悪犯罪を犯した人や自分に危害を加えた人など愛せないと思う人が多いです。 だから私は、自分の事が愛せなかった(許せなかった)のだと思います。 実はあの時に一体化していた自分と彼女の2人を殺してしまったという罪悪感をこの30年抱えていたように思うのです。 今年に入ってから、初恋の彼女の事をずっと思い出していて、その当時2人で聞いていた歌などを仕事の運転中に聞いていたりしてたんですが、今年の3月くらいに急に吹っ切れて何か心が急に軽くなったような感じがあったのです。 思い返してみると、ちょうど同じ時期に長年どうしても捨てられなかった重い(これは想いだと思います)鉄アレイを2個粗大ゴミに出していました。 「現象は全て心の影である」おそらくあの時にその彼女との絆を捨てたのだと思います。 私はずっと悟りを忘れられずに苦しんでいたのですが、私が本当に忘れられなかったのは初恋の彼女であり、神に楯突いてでも守りきった初恋の彼女との縁が切れなかったのだと思います。 最近は凄く心が軽くなり、頭の中の想念も少なくなり、また悟りの事を思い出すことも、ほぼ無くなりました。 仏陀が言っていた苦の矢を抜くという大切さを痛感しました。 中々しっかり内省しないと、矢が刺さっている事にも気づかないのだなぁと思いました。
 
 
無償の愛などという宗教的な言辞は忘れてください。
無償の愛だの、無我だの、というような宗教的な言辞では、人は何一つ変わらないのです。
悟りすましたような人が言う無我だのという言葉を聞いて、一時的にはいい気分になることはあるかもしれませんが、そんなものはほんの一瞬です。
誰かの講演を聴いても、その時は感動したとしても講演会場を後にして何時間か経てばその興奮も冷めてしまうでしょう。そして何も変わりません。
クリシュナムルティが最晩年に言ったように『誰も何も変わらなかった』ですね。
 
中心を持ってしまうことが苦であること、つまり生きている間にどんどん記憶やデータを溜め込んでいって中心を形成していること自体が束縛であり苦であることを本当に実感しなければ、それをクリアにはできません。
なぜかというと、そのような記憶の束を『愛おしいもの』『楽しいもの』『貴重なもの』『かけがえのないもの』『快楽に満ちたもの』さらに踏み込んでいえば、自分の存在そのものとして捉えているからです。
それゆえに愛おしくてたまらないのです。
そしてそれを苦と見切るまでは、手放すことはできませんし、無理に手放そうとするとかえって執着を強めてしまいます。
 
いままでのすべての宗教が失敗したのはそういうことです。
例えば、性欲をコントロールすれば神の国に行けるという教えがあった場合、その教えを信じる人は神の国に行くために性欲を捨てようとします。とても強く惹かれるものでありながら捨てようとした場合何が起きるかというとより一層強い執着となるのです。
 
仏教徒は無我という言葉を盛んに使いますが、頭の中で無我の理論(龍樹の言うようなすべては縁起だから無自性であり実体がなく無我である)ということを覚えたにしても、座禅をして思考をなくしたときに無我を悟り印可を受けたとしても、中心のなりたち、そして今現在も一瞬一瞬、感覚とその記憶、思考により中心がどんどん形成されていることに気が付き、それが苦であると心底痛感し、それをクリアにしていかなければ無量には達することができないのです。
それがいま、はっきりわかりました。
 
ですから、中心が存在しているのに、無償の愛を持たなければ、などと自分を強制してしまうと自分の精神は引き裂かれてしまうのです。
これが宗教的な人間の現状です。
 
宗教など忘れて、自己重要感を高めるために人に依存しないこと、これをしていけば劇的に変わります。
自己重要感を自分だけで高めるようにすること、これが第一歩です。