イエス・キリストと十字架

ターボー   

ショーシャンクさんこんばんは。 私が30年も悟りを捨てられなかったのは、やはり2人を殺してしまったという罪悪感にあると思うのです。 そしてその当時の一体化していた自分と彼女を殺してしまったのは事実だと思います。 しかも自分がその罪悪感を持っているという事にさえ気づかなかった。 自分がそれほどの罪悪感を抱えているという事さえ気づかないまま、自分で自分を縛っていたのが現状だと思います。 玉木康四郎さんの仏道探求という本の中で、イエスキリストは最後の最後になって神に楯突いたという記述がありました。 私もその意見に同感でイエスキリストは、最後の場面で神に楯突いたのだと思います。 その動機は、私のように交際していた彼女を裏切れなかったというような私欲の動機ではなく、遠藤周作さんの「沈黙」にあるように私ような私欲(執着の愛)を捨てきれない弱い人間の為に抵抗してくれたのかもしれません。 私は今年の3月に、二個の重い(鉄アレイ)を粗大ゴミに出してから、物凄く心が楽になりました。 つまり地獄というのは、ここにあると思うのです。 地獄というのは、あの世の出来事ではなく、自分が抵抗した為に一体化していた前世の自分と彼女を殺して、その罪悪感に心の奥底(本源の自己)では気づいていたのに、表層の自己(自我)では気づいてなく、現象としてしっかりと罪を償わされました。 「全ての現象は思いが作る」この場合の思いとは自我の自己が気づいてない(雑念が多く集中力がないから、そこまで入っていけない為)心の奥底の思いが現象を作るのだと思います。
 
 
ターボーさん、この一連のコメントの中で出てくる、彼女との経緯を知らないので、全くわからない部分があります。『2人を殺してしまった』という文が何を意味しているのかがわからないのです。2人というのはターボーさんと初恋の彼女のことでしょうか。『罪悪感』も何に対しての罪悪感かがわかりません。
 
イエス・キリストのことが出てきましたので、触れますと、私はイエス・キリストが最後の最後になって神に楯突いたとは思いません。
キリストはずっと前から、自分が十字架にかけられて死ぬこと、そして3日後に復活することをわかっていました。それが自分の生まれる前から神によって定められていることを受け入れていました。
映画『パッション』を観ればよくわかりますが、その当時の十字架の刑は、人間に最大の苦痛を与えるように考えられた残酷極まりない刑です。
最後の晩餐のあと、つまり十字架刑の前の晩に、キリストは一人、丘の上でひたすら神に祈り、問いかけます。本当に、この残酷な刑を受け入れて死ななければならないのだろうか、他の道はないのだろうか、と。
しかし、それが定められたものだと知り、それを受け入れる決意をします。
十字架上で言った『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』は、旧約聖書詩篇22篇1節の言葉であり、その預言が成就するために言ったのだという聖書学者の説があり、私もその方が正しいような気がします。
遠藤周作はどうも人間の弱さ、信仰の薄弱さにばかりフォーカスしているように思えます。
 
私はキリスト教とは全く無縁ですが、私が理解しているところでは、キリスト教において最も重要であるのは『復活』であって、神として復活するために肉なるもの、弱きもの、罪なるもの、を十字架刑にしたのだと思います。
 
 
 
ターボー (126.35.203.25)  
ショーシャンクさんこんばんは。 ちょっと私とは、イエスの解釈が違うようです。 私は「仏道探求」の玉木康四郎さんと同じ解釈です。 wikiで「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を検索してみると以下のようです。 タイトルの「Eli, Eli, Lema Sabachthani?」とは、ヘブライ語で「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」という意味で、イエス・キリストが処刑される際に言った言葉である。 この「神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや」を玉木康四郎さんは、イエスが最後の最後になって神に楯突いた場面だと見ましたが、私もそう思います。 つまりイエスの復活とは、禅でいう「大死一番、絶後再臨」だというのが私の解釈です。 おそらく玉木康四郎さんも遠藤周作さんも、その解釈だと思います。 ただその動機が遠藤周作さんは、イエスが私の様な私欲(執着の愛)を捨てきれない弱き者の為に、イエスは復活したという解釈だと思います。それが「沈黙」で遠藤周作さんがモチーフにした 弱き者の神イエスだと思います。
 
 
たーぼーさん、こんばんは。
『イエスが最後の最後になって神に楯突いた』というのではすべてが台無しになってしまいます。
最後の最後になってそれまでと違って『神よ、何ゆえに我を見捨てたもうや』と神に疑問を投げかけ神を疑い、神に抗い、神に不満を吐露し、神に楯突いたのであれば、イエスは肉に負けたということになります。それでは、大死一番とは真逆です。神に死に切れてないということになります。
 
イエス・キリストの生涯のすべては『復活』にあるのです。
十字架刑をはじめそれまでのすべてのイエスの生涯は、人類に『復活』を見せるためにあったというのが私独自の解釈です。
それは、弟子たちを見ればわかります。
十字架刑の時は散り散りに逃げ惑っていた弟子たちが、イエスの復活を見てからがらりと変わります。
あの、なんとも情けないペテロが、イエスの復活を見て全く変わり、全身全霊で信仰に生きるようになり最後は十字架に自ら望んで逆さにかけられます。
 
そして、イエスは復活を示すことで、人は皆、復活しなければならないというメッセージを送ったのだと思います。禅語でいえば、確かに『大死一番絶後蘇生』でしょう。しかし、最後の最後になって神を疑い神に楯突いたのであれば大死一番どころではありません。
 
エスが十字架上で言った『渇く』という言葉を言ったのも、『聖書の言葉が実現するため』であり、兵士が服をくじ引きで分け合ったのも『聖書の言葉が実現するため』だったのです。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』も『渇く』も『服をくじ引きで分け合った』も旧約聖書に出てくる預言です。
 
私も『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』はどう解釈すればいいかをずいぶん考えました。
エスのすべての行動は、旧約聖書の預言を成就して復活を見せるためにあったというのが私の解釈です。