仏教についてのひとりごと 19

スッタニパータを心底から読むと、今までの仏教観は瓦解します。
例えば仏陀は「私は戒律によって清浄になるとは説かない」と言っています。
仏教の体系からするとあり得ない発言ですね。
まず戒があって、戒を授けられたものが僧侶になるのが仏教で
戒律は仏教の根幹とされていますから。

いかに人類は仏陀の教えに間違った解釈をしてきたか、です。
無我で、輪廻する主体もない、苦はあっても苦しむ主体はない、などという言葉が
まき散らされています。

私が見る限り、仏教の根幹は『苦』の認識です。
『苦』が本当にわかれば、自己同一化がなくなる、つまり非我です。

 

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satiが、テーラワーダ教会がいうように、『気づき』なのか
私が勝手に言っている『意識的に記憶され繰り返される想念』なのか、ですね。

八正道に、satiが出てきます。
正念=samma-sati です。

8つのうち、7番目に出てきます。
もし、satiが『気づき』で、samma-sati が正しい気づきのことであれば
最初に出てくるはずです。
samma-satiが、真理を記憶してそれを意識的に繰り返す行為のことだから
7番目に出てきていると、私は思っています。


非我とは、想念さえも自己同一化しないこと(五蘊非我)ですから
四諦八正道でさえ、筏です。
向こう岸に着いたら筏は捨てなければいけません。
ただ、その前に、仏陀は無思考型の瞑想を捨て徹底思考する道を選んだと思っていますから
私は、satiは、記憶してそれを意識的に繰り返す念のことだと思っています。

 

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>>評価の高い曹洞禅より、考案の臨済禅の方がより仏陀的ですかね>>

仏陀の選んだ瞑想は真理を徹底的に思考するものだと考えています。
無思考型の瞑想は危険で、禅で変になった人も多いのです。
無思考型の曹洞禅より、公案を徹底的に考える臨済禅のほうが悟った人ははるかに多いですね。
ただ、臨済禅の公案は、どんなに思考しても思考では解決できない問題を考え続けて思考を手放すところまで行かそうとする試みですから、仏陀四諦十二縁起などの真理を徹底して瞑想するのとは少し種類が違う感じですが。

 

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葬式自体が死者の冥福を祈る儀式です。
冥福を祈るプロとして、僧侶や神官が葬式を仕切ります。
仏教の葬式では、坊さんに戒名代として何十万円か払いますね。
戒名とは何でしょうか。
それは、死者の魂に授戒して成仏させる儀式の、授戒の証です。
死後の世界がなければ成仏もありません。
成仏する霊魂も死後の世界もないと信じている僧侶が、冥福=死後の世界の幸福を祈るふりして
大金を巻き上げるのは詐欺ですね。
もちろん、刑法上の詐欺罪ではないにしても、道義上からは詐欺です。
遺族に少しでも、死んだ人の冥福を祈る気持ちがあるから
坊さんに戒名代として何十万円も払うのです。
誰も何の意味もないものに何十万円も支払いたくないですね。
残された生きている人のためなら、その何十万を生きている人のために使うべきです。

例えば、浄土系の宗派では、経典も宗祖も、誰でも念仏をして死ねば浄土に行くと説かれています。
その宗派の坊さんが、死ねば霊魂もなく、死後の世界もない、と平気な顔で説きます。
なぜ経典や宗祖と正反対のことを説くのでしょうか。

 

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あなたのいう仏教とは何ですか?
もし、仏陀を祖とする教えの流れを言っているのであれば
仏陀自体、古層の原始仏典においてさえ、繰り返し
死後の世界のことも輪廻転生のことも説いています。
死後の世界も輪廻転生もあることが前提で、そこからの解脱を目指したのが仏陀です。
ゆえに、スッタニパータに『世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る』『この世に還り来る縁となる煩悩から生ずるものをいささかも持たない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る』といいます。

そして、仏陀は、『常見』も『断見』も間違いだと言っており、このどちらの考えも取らないように言っています。
断見というのは、人間は、死んだら一切無で、輪廻転生などしない。人生は一回だけだと言う考え方です。常見は、死後も永遠不変なアートマンが存続する、と言う考えです。

真言宗空海を、浄土宗は法然を、浄土真宗親鸞を宗祖としていますが
日本仏教のどの宗祖も、人間は死ねば何もなくなるなどと言った人はいません。

『断見』を堂々と表明する坊さんがそれほど増えているのであれば
やはり現在の世界のどこにも仏陀の真意が伝わっていないという確信が強くなります。

 

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ラベリングについて聞きたいのですが
実際の社会生活において、交渉するときなど高度に思考を働かさなければいけないときは
仕事をしていたら頻繁にありますね。

その場合、ラベリングしていたら思考は阻害されますね。
ラベリングも全的な気づきの前段階の思考でしょうから。
つまり思考を働かす必要のない時にするものだという理解でいいですか。

 

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蓮は仏教の象徴として特別な花ですね。
泥沼である娑婆世界に咲く悟りを白い花で譬えてるのでしょう。
泥を栄養とするから価値がありますね。

私も、地獄は懲罰の場所としてあるのではなく
それぞれの人の居心地のいい波動に赴くのだと思います。
クラシックが好きな人は何万円払ってもクラシックコンサートに行って
とても『feel good』でしょうけど、演歌しか聴かない人にとっては
2時間、1か所に座らされ延々とクラシックを聴かされるのは苦痛そのものでしょう。
逆に、クラシックしか聴かない人は、演歌のコンサートに行っても苦痛でしょう。
もちろん、クラシックが天国で演歌が地獄といっているわけではありませんが(笑)
結局はその人の波動が同じ波動を引き寄せるというだけのことのような気がします。

 

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>>人生の多くの時間が『居心地のいい波動』かどうかでそれが決まるとしたら、出来るだけ、自分にとって多くを『居心地のいい波動』にする努力をすべきと感じます>>

そうですね。私は会議などで10年以上前から繰り返し言っているのですが
80対20の法則を活用すべきです。
例えば、いま、実家と山荘のリフォームをしていますが
同じ予算であれば、薄く広くまんべんなくリフォームするのではなくて
自分が居て『feel good』な場所に集中的にお金を投じると
幸福感が増大します。
当初、ウッドデッキは塗装だけにしていましたが、今までのを全部廃棄して新たに作ったために
とても居心地が良く『feel good』な時間が増えました。

また、『feel good』でないことになるべく時間を割かないことですね。
仕事をしていると難しいことではありますが。

これは、『feel bad』の時間を短くして『feel good』の時間を長くする技術ですが
それよりずっといいのは
『大地を黄金とし、長河を蘇酪とする』(風性は常住なるがゆえに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せり)ことですね。

 

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