親鸞についての質問

門前の小僧 (59.166.196.125)    

ショーシャンク様、初めて書き入れます。
 
親鸞について対話がありましたので、感じたことを書かせてもらいます。
親鸞の本覚思想への態度に次のような和讃があります。
『罪業もとより所有なし 妄想顛倒よりおこる 心性みなもときよければ 衆生すなわち仏なり 』(正像末和讃 草稿本) これが「正像末和讃 愚禿悲歎述懐」では 『罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき 』 と改訂されています。
衆生は仏、という本覚表現から、現実観から衆生の姿を、まことのひとなし、と言い換えています。なにか本覚思想に躊躇するような素振りです。
『いずれの行もおよびがたき身 』という自覚にある煩悩具足の凡夫にとっては本覚思想とは机上の空論でありましょう。
親鸞は大乗涅槃経から仏の慈悲が衆生に届く姿を教行信証信巻に引用してあります。
 
『『涅槃経』(師子吼菩薩品)に言わく、善男子、大慈大悲を名づけて「仏性」とす。何をもってのゆえに。大慈大悲は常に菩薩に随うこと影の形に随うがごとし。一切衆生畢に定んで当に大慈大悲を得べし。このゆえに説きて「一切衆生悉有仏性」と言えるなり。大慈大悲は名づけて「仏性」とす。仏性は名づけて「如来」とす。大喜大捨を名づけて「仏性」とす。 』
 
これによれば仏性とは衆生に自ずから備わるものではなく、衆生を救わんとする菩薩の働きが衆生に届いている姿を、仏性としているようです。
自力作善に破れる、つまり煩悩のままに救われるという転換を経るところに凡夫に仏性が与えられるのでしょう。
そしてその仏性は凡夫の念仏成仏によって「悉有仏性」が証せられるのだと思います。そしてそれらの経路は凡夫にはあずかり知られぬことでありますから、他力と言われるのだと思います。
 
法然と親鸞の大きな違いは、ご存じでしょうが、往生が定まる時を臨終に見たのか、他力の信心を獲得の時なのか、だと思います。
 
親鸞は後者です。煩悩のままに、往生が定まり成仏が完全に約束された人生を歩むことに大きな意味を見出したのが親鸞ではないでしょうか。
臨終往生では往生の約束のない煩悩の人生を歩まなければなりません。
親鸞の往生を覚信尼が疑う文言がありますが、それほど従来の往生観が自力作善の完成としての往生であったのでしょう。
現代人にとっても、親鸞の往生観は難解です。
 
また、妻惠信尼が越後に行ったのはやはり家族全員を京都では食べさせられないと考えてのことではないかと推察します。
惠信尼以外も子供たちが越後に同道していますので。
 
 
非僧非俗についてですが、親鸞は沙弥教信の生き様を理想としていたことにショーシャンク様はどうお思いですか。
もっとも教信はお布施ではなく雑用で生きていたようですが。
 
善鸞の事件ですが、歴史学者によっては、史実ではないとする意見もあります。
いっそうの史料批判が待たれます。 不思議なことは覚如による本願寺三代伝持では、親鸞に次いで本願寺二代に善鸞の子、如信が宛てられていることです。
如信は善鸞と関東での行動を共にすることが多かったと言われていますが親鸞への敬慕の念は厚く年に一度は京都の親鸞廟に参詣していました。
義絶された善鸞の子を、善鸞によって惑乱されたという関東在住の門徒が、本願寺二代と認めたことは不思議に思います。
ショーシャンク様のご関心からは周辺のことでありましょうが、ご参考までに書かせてもらいました。

 

 

 

門前の小僧さん、はじめまして。

外部からかじっている人ではなく、本格的な真宗の人にお聞きしたいと思っていました。

はじめに断っておきますが、わたしは親鸞に対して否定的な見方をしていますので、お気を悪くしないでください。浄土門でも法然や一遍は評価しているのですが、親鸞の行ないの矛盾したところを見てしまうので。

それではお聞きします。親鸞に対する疑問です。

 

質問1、非僧非俗について

親鸞は流罪の際に僧籍を剥奪され俗名に戻されます。このときから『非僧非俗』と自称します。しかし、僧籍剥奪俗名になったのですから非僧ではあっても非俗ではなく、明らかに俗人です。しかし剃髪して僧の恰好はしたままです。そして死ぬまで弟子や信者のお布施で生活していました。

もし、沙弥教信が理想像なのであれば、なぜ農業や雑用をして稼がなかったのか、わたしにはいいとこ取りにしか見えないのです。

非僧であるから肉食妻帯はするし、非俗であるから信者のお布施に頼って自分では稼がずに生活できます。

特に浄土門は在家のための教えと言ってもいいくらい、出家と在家を差別することなく、むしろ在家での念仏のほうが尊ばれる考えも主流です。

なぜ、それほどまでに僧の恰好にこだわり、布施で生活していったのか、やはりいいとこ取りに見えます。

 

質問2、善鸞の義絶について

ここは通説通り、善鸞を義絶したと考えます。

親鸞教団では関東の信者が多かったと思いますが、その関東の信者たちが善鸞のせいで混乱しているとの報を受けます。関東の信徒たちが京都にわざわざ来てその混乱ぶりを訴えたのだと思います。

そこで親鸞は、善鸞を呼び戻して事情を聞くわけでもなく、説得するわけでもなく、すぐ義絶状を出して絶縁します。

親鸞の生活は、関東の信徒たちの布施によって成り立っていました。ですから、メインの関東が混乱するのは一大事です。親鸞は息子と話すこともなく義絶します。

しかし、この行動は、親鸞がいつも言っている最も大事な、『摂取不捨』とは真逆です。

親鸞の教えでは、阿弥陀仏は五逆謗法であっても救ってくださると言うことです。摂取不捨からもれてないはずです。

それなのに、なぜ親鸞は息子を義絶したのでしょう。阿弥陀仏が救ってくださるのに、親鸞の勝手な計らいで縁を切るのは矛盾していませんか?

 

また、『親鸞には弟子は一人もいない』とし、親鸞独自の教団はないのが建前でした。しかし、実際上、信徒連中の団体を守るために息子との縁を切っています。これも言ってることと正反対です。

 

質問3、親鸞の子孫の支配

親鸞の子孫、特に直系の子孫はその後教団の法主であり続けました。親鸞の血族だから尊ばれています。

これは仏教ではあり得ない現象です。

仏陀は、『生まれによってバラモンではない』と説きました。

バラモンの子孫がバラモンなのはバラモン教です。

仏陀の教えの根本は、『行ないによって人は尊いのだ』ということです。

親鸞の子孫だから尊ばれ教団のトップに君臨するのはバラモン教ならいざ知らず、仏教の教えからすると大きな矛盾と感じませんか?

 

 

門前の小僧 (59.166.196.125)    

ショーシャンク様、ご質問に見解を述べます。
 
「質問1、非僧非俗について」への見解。
 
親鸞は非僧非俗について詳しく表白していないので、以下は推察にすぎません。 親鸞は僧籍剥奪によって当時の常識として、官許を得た僧ではないから非僧であると自覚したに違いないでしょう。その上で官許に関わらず求道の生活であるから僧と名乗り「非僧」と名乗ったのかもしれません。女犯偈に象徴される精神の遍歴を経て法然門下と成り、破戒の僧との自覚のもとに研鑽を積んだ求道の生活の延長でしょう。 惠信尼と親鸞の結婚は京都時代に成立していたという説も今日有力です。流罪前からの結婚生活が関東時代にも続くことは不自然ではありません。 親鸞は関東時代かなり広範囲に活動していたことが分かっています。沙弥教信のように街道沿いに居住し雑用で生計を立てたり、農業漁業など定住して生計を立てることは、親鸞の求道・聞法生活では現実的ではなかったでしょう。「非僧」として布施を得て活動するほかに親鸞の求道を深める道はなかったと思います。それがいいとこ取りと言えばそうでしょうが、それによって親鸞周囲の人々や後世に残された宗教的遺産は大きなものがあったと思います。 次に、もっと想像をたくましく妄想すれば、非僧非俗は、非ず非ずで、どこかで聞いたことがあるフレーズですね。この世が「聖と俗」からできているならば、非僧非俗とはこの世ならざる境遇で言葉に表せません。まるで「五蘊非我」がこの身の何をとっても非我であって、それが言葉で表すことのできる、真実の「私」という縁起現象である、という言説に牽強付会できますね。親鸞はこの世に非ず場所を自分の居場所としたのかもしれませんね。こんな屁理屈をこねて楽しんでます。 
 
 
「質問2、善鸞の義絶について」への見解。
 
「摂取不捨」は阿弥陀から見れば客観ですが、衆生から見れば主観です。本覚思想のように、はじめから衆生は摂取されている見れば、何をしても助かっているんだと、放逸な「本願ぼこり」が起きましょう。五逆謗法の自己を懺悔するものに摂取不捨の光益と知らされてきます。 善鸞が自身の行いを懺悔し、煩悩深い我が身のすくいを求めたならば善鸞にも摂取の光益の中にある自身の存在を発見することになりましょう。 関東の門徒の組織を守るためとおっしゃいましたが、組織を守ることが第一義ではなく、門徒の疑惑を払さんが為の決断だったと思われます。善鸞に関わる事件は史料が少なくはっきりしたことは申せないと思います。
 
 
「質問3、親鸞の子孫の支配」への見解。
 
これはおっしゃる通りです。本願寺教団以外も、原初は親鸞の弟子が建立した専修寺・仏光寺等大寺院がそれぞれの門徒集団の中心でしたが、時代が下ると本願寺教団とおなじく親子の相続になっていきます。 これは、「法義」と「法義を守る方便」という娑婆の問題でもあります。組織に永続性がなければ、教法も消滅するでしょう。かといって組織の存続を優先すればこれまた教法が組織を永続させる道具と成り、ついには変質してしまうでしょう。 浄土教は仏教かという疑問は、仏教とは何かという問いに等しく、難解で幾多の手続きを重ねなければ答えられませんが、家父長的制度の中で伝えられた真宗の教えが、日本仏教の中で一番変質が少なくまた、多くの在俗の篤信者を生み出してきたのも歴史的な事実です。曹洞宗などは道元以降その娑婆での在り方に大きな変化がありました。浄土宗でも各派の活動中で教えは娑婆寄りに変質していったことは事実でありましょう。 また、道場から寺院化した真宗寺院の存在も真宗の特質でしょう。まさに、個人財産である道場が寺院化していく中では、家父長制的支配の中で寺院が相続されることに違和感が少なかったのかもしれません。これを克服するためでしょうか、蓮如は本願寺を「仏法領」と言う表現をしています。これを欺瞞と言えば欺瞞ですが、本願寺内部からの自己規律がうまれたのも事実です。真宗大谷派では、40年ほど前に所謂「お東騒動」の結果、本願寺住職に関しても宗憲改正があって、従来の能化としての住職識・法主職を廃して、聞法の首座としての法首職を新たに設置しました。教団ももがいております。 笑い話ですが。江戸時代、吉原など遊郭に僧侶取り締まりのため手入れがあった際、逮捕された僧が真宗であれば「宗祖の恩を有り難く思え」といわれて、お解き放ちになっとか。役人も真宗坊主が在家の生活をしていることに違和感はなかったようです。日本人の持つ世俗性曖昧性なのでしょうか。 現実の歴史上に存在する真宗僧は、矛盾を矛盾として自覚し、その矛盾がもたらすものが仏法興隆の基であるときに限って許される矛盾だと自覚するほかないと思います。 ショーシャンク様へ。はじめに書入れした一番の動機は、本覚思想についてのご見解が頂きたかったことによるのですが、それより親鸞そのものにご質問をお持ちとは驚きました。 少し長くなりましたが、管見を述べさせて頂きました。 「宗論はどちらが勝っても釈迦の恥」勝ち負けでない、智慧を持ち寄る対話であってほしいですね。

 

門前の小僧さん、ありがとうございます。

篤信の方に失礼な質問をして申し訳ありません。

私は、今までの仏教解釈の全否定から入っているので、すべての仏教徒の人には無礼極まりないとは自覚しています。

質問に対するご回答につきましては、これからじっくりと考えていきたいと思います。大変参考になりました。ありがとうございます。

 

ご質問の趣旨は天台本覚思想との関連だったのですね。

私は、日本仏教、特に鎌倉仏教における天台本覚思想の影響は甚大だったと考えています。

もともとは、大乗涅槃経の仏性思想や如来蔵思想がどんどん発展していって、なおかつ日本の中で究極の絶対一元論まで行き着いたところが天台本覚思想だったと考えます。

その中で、煩悩即菩提、因果同時(因果倶時、因果一如)などが日本仏教の根幹になっていきます。

歴史上の仏陀の教えに、煩悩即菩提や因果同時はあり得ません。

因⇒果 であることは当然であり、唯一、識と名色に相依性を説かれているものの、因と果には必ず時間が存在します。

因⇒果 であり

修行⇒解脱 です。

煩悩の滅で菩提なのであり、煩悩即菩提はあり得ません。

 

しかし、平安時代の比叡山では、如来蔵思想を究極まで純化させていき、ついに人間はもともと悟っているのであり、修行は必要ない、までになっていきます。

 

これは観念的には究極の哲理とも考えられ、『人間は元々悟っているものなのだ』が仏教の前提になりました。

ですから、鎌倉仏教はすべてそこから出発します。

道元が深く悩んだのは『人間は元々悟っているのになぜ修行しなければならないのか?』です。これを徹底的に探求していきます。

そして、修行して悟るのではない、本証妙修なのだとします。修証一等ともいいます。

 

もちろん、宗祖によって、表現はすべて違います。

修行して悟るのではない。

煩悩はあるままで救われている。

 

ただ、門前の小僧さんがおっしゃるように、親鸞は自分のこころの醜さを見つめ続けた人でした。この一点において、凄みがあります。

この徹底的な慚愧懺悔があるかないかが親鸞とそれ以外の人を区別するものだと思います。

この徹底的な慚愧懺悔は、親鸞にしかできないものではないかと思うのです。

この徹底的な慚愧懺悔がなく、安易に親鸞の教えに従うと、そこには天台本覚思想の退廃がまっています。

私が、親鸞の道は、親鸞にしかできない、難行中の難行だと考えるのはそういうことなのです。